32



 新しい春を迎えた頃、佳奈の体調は快方に向かった。

 以前のように勉強もできるようになったが、佳奈からの強い要望もあって、絵本の読み聞かせは継続することになった。就寝前、夜更かしにならない程度に。

 そのことを慶士郎にも話すと、

「そうか……あの絵本はね、いつか妻が佳奈に読み聞かせるんだと言って、生前にコツコツと集めていたコレクションなんだよ。結局、妻も私もまったく読んであげることができなかったんだが、取っておいて本当によかった。ありがとう」

 と、嬉しそうに話してくれた。

 佳奈の具合がよくなると、私も気分が晴れ晴れとした。慶士郎の言葉を借りるなら、初めて来た頃よりもよく笑うようになった。

 自分自身の前向きな変化には私も自覚していた。それでもすべての呪いが解かれたわけではなく、眠れば両親の夢を見る日はあった。夜中に目が覚め、しばらく震えが止まらなくなることもあった。試してはいないが、やはり自分を殺すこともまだ叶わないのだろう。

 しかし以前より私は、悪夢を見ても死んでしまいたいという衝動に駆られることが少なくなった。それよりも、もっと長い時間、佳奈の傍にいたい気持ちが強くなっていた。また、佳奈からの踏み込んだ質問にも、いくらか落ち着いて答えられるようになった。

「キャシーは、パパとママは?」

 ――もういないわ。私が小さい時に、亡くなったの。

「じゃあ、佳奈のママとおんなじだね」

 ――そうね。だけど、あなたはお母さんと会ったこともないんでしょう?

「うん。写真でしか見たことがない。でも、パパからどんな人だったか聞いた」

 ――どんな人だったの?

「パパが、佳奈とおんなじくらい大好きな人。それで、佳奈みたいによく病気になってたけど、たくさん頑張って佳奈を産んでくれた人」

 ――だから佳奈は、大好きなのね。会ったことがなくても。

「うん! でもね……ママは佳奈のこと、大好きだったかは分からないの」

 わずかに佳奈は、遠くを見つめるような眼差しになり、

「だって、ママは……佳奈のせいで、大好きなパパと、さよならしちゃったから」

 小さく折り畳んでいた悲しみを広げていくように、打ち明ける。

 彼女もまた、隠し続けてきたのだろう。幼いなりの苦悩を、まだあどけない瞳の奥にしまい込み続けていたのだろう――慶士郎を悲しませないために。孤独な自分をより不幸にさせないために。

 私も、佳奈の母親に会ったことがあるわけではない。

 けれど、命を賭けてでも愛する人との子供を産んだ少女のことを、私は知っている。

 だからこそ、私は言った。

 ――佳奈のお母さんもきっと、佳奈のことが大好きだったと思うわ。

「どうして?」

 ――佳奈のお母さんは、たくさん頑張って、佳奈のことを産んでくれたんでしょう?

 ――佳奈のことが大好きだったから、辛くても頑張れることができたのよ。

「……そっか。うん、そうだよね」

 佳奈は納得したように呟くと、急に私の体に抱き着いた。

「ありがとう、キャシー」

 ――なにか、してほしいことはある?

「ううん、なんにもない」

 ――本当に? 前、二つあるって言ってたじゃない。もう一つは、いいの?

「うん……だって、もう一つはね」

 私の胸に埋めていた顔を上げると、佳奈は瞳いっぱいに涙を溜めたまま笑みを咲かせた。

「もう、叶ったから」

 結局、彼女のもう一つの望みがなんだったのかを私は知らない。

 私は長い時間、佳奈の華奢な温もりを抱いていた。お互いに一言も話さず、ただ無為なひと時に足を留めた。肉親のような時は佳奈の秘めた傷を癒し、私の凍てついた手のひらをゆっくりと温めていった。

 再び冬が近づくと、佳奈は体調を崩した。春になればまた回復するが、この周期そのものが改善されることはなかった。三度目の冬には慶士郎の許可を得て、病院でより丁寧な検査を受けたがやはりダメだった。有益な対処法は見つからず、それどころか佳奈の容態は酷くなるばかりだった。遂には一人で起き上がることもできないほど衰弱したこともあったが、季節が温暖になると嘘のように体調を取り戻し、またホームスクーリングに精を出す。以前は、佳奈が快調な日は人の少ない公園に遊びに行くことなどもあったが、三度目の冬以降は私の心配が深いものとなり、佳奈の日常はいよいよ外界から隔絶されたものになっていった。

 やがて十一歳となる子供にとっては酷なことだったが、佳奈は文句一つ言わなかった。初めて出会った頃よりもいくらか大人びた彼女は、いつの間にか遠慮やこちらを慮る気遣いまで見せるようになった。その成長は美しい開花を間近で眺めているような喜ばしさがあったが、時に私の胸を締めつける茨のようにも作用した。

 その証拠に佳奈は、以前ほど私といる時間を好まなくなった。たとえば夜、私は佳奈が寝つくまで傍にいて、時には絵本を読み聞かせることもあったが、そうした時間を佳奈は遠慮するようになった。それは私たちの仲を疑うには及ばないほど微々たる変化だったが、私の不安は確かに募っていた。私は一日のうちに佳奈が何度笑ったかを数えるようになり、日に日に減っているのではと訝しむようにもなった。

 慶士郎にも相談したが、「そういう年頃なのかもしれない」と、特段不安に思っている節はなかった。彼はここ数年、私と佳奈の関係が良好であると知っていたから、以前にも増して私に信頼を置いているようだった。また、慶士郎が佳奈に接するのは週に二、三度で、それも夜更けか朝方の極めて短い時間だったため、佳奈の微弱な変化を恐れてはいなかった。佳奈にとって父親に会える時間は貴重だったため、その時間を殊更に大切にしていることは私も分かっていた。佳奈から不変の、ともすれば前にも増して格別の愛情を向けられる慶士郎からすれば、佳奈の私に対する接し方が変わってしまったなどとは信じられなかったのかもしれない。

 慶士郎があまりに気にかけなかったため、私も自分の思い違いか、少しナイーブになり過ぎているのではとも考えた。

 そもそも私は、佳奈の親ではない。赤の他人に過ぎない。佳奈のすべてを理解できるつもりでいたこと自体、おこがましいことだったのではないか……名状できない不安が膨らむと、私は必要のない自己嫌悪にさえ苛まれるようになった。思えば私はレオンを亡くして以来、誰かを愛するという感情を遠ざけてきた。愛すれば失うのではないか――そんな恐怖が私の正常な情動を蝕み、常に孤独を呼び寄せてきた。

 にもかかわらず、なぜ私は、未だに佳奈への愛情を生み出すことができたのか。佳奈との時間が希薄なものになりつつある今を恐れているのか。

 複雑に思える理由は、実は明快だった――疼くような下腹部の痛みが、私の過去を律儀に示した。

 もしレオンを亡くしていただけなら、私は永久に愛情を捨てていただろう。けれどレオンは、私の中に命を残した。その命を抱き留めるための愛情を私は手元に留めておく必要があった。それは理性によるものか種の本能か、私は明日への期待と共に愛情を大きくさせた。そして――。

 行き場を失った愛情は、とうの昔に失せてしまったのだと考えていた。けれどそうではなかった。私は強固な錠をして胸の奥にしまい込んでいて、それが佳奈と触れ合うことで徐々に開かれていったのだ。私がしまい込んでいた愛情は佳奈と近しい齢であり、持て余していたすべてを捧げるのに佳奈はうってつけ過ぎたのかもしれない。

 やはり私がナイーブになっているだけなのか。一度は失いかけた愛情に囚われるあまり、不安に思い過ぎているだけだろうか……そんな気を落ち着かせるための問いかけは、あまり有効に作用しなかった。

 その証拠に佳奈は、毎年楽しみにしている私からの誕生日プレゼントも、十一歳の誕生日では必要ないことを告げてきた。私が理由を問いただしても、佳奈は寂しげに笑って、

「欲しいものなんて、もうないから」

 と、およそ子供らしくないことを言うばかりだった。

 それはいつかの望みのような、満たされた心からこぼれた言葉ではなく、なにかを諦めてしまっているような気配があった。恐らく佳奈には望むものがあり、しかしそれは手が届かないものだと思っているのではないか。私はそう思いながらも、彼女が秘した望みがなんなのか、問いただすことができなかった。

 佳奈の誕生日は八月。日本が最も温暖な時季で、佳奈の体調が最も優れる時期でもあった。例年であれば彼女の体調が許す限り外へ出て、家の辺りを散歩しに行くこともあった。

 この年は佳奈の体調が悪化することを避け、不要な外出はほとんどさせていなかった。しかし八月はやはり不調になる兆候もなかったため、私はプレゼントがいらないなら久しぶりに散歩にでも行こうと誘った。佳奈は快諾こそしなかったが拒絶することもなかった。白いワンピースに麦わら帽子を合わせ、私が押す車椅子に乗って散歩に出かけた。例年通りならば彼女は自分の足で歩いていたが、この年は大事を取って車椅子となった。

 散歩中、私はたくさんの言葉を佳奈に投げかけた。遠くへ旅行に行ってみたい、ショッピングに行ってみたい、街のお店でアイスクリームを食べてみたい……総じて、佳奈と一緒にしてみたいことを言い並べた。

 私が佳奈に対して願望を言うことはほとんどなく、もしかするとこれが初めてかもしれなかった。私は自分のささやかな望みを明かすことで、佳奈も本当の望みを打ち明けてくれるのではないかと期待した。

「じゃあ、キャシー一人で行ってくればいいよ。佳奈のことは、気にしないでいいから」

 佳奈の声は存外、冷ややかなものに感じられた。この時の彼女がどんな表情をしていたのか、麦わら帽子の長いつばが邪魔でよく分からなかった。

 私はあまり喋らなくなった。小池のある公園まで向かい、木陰のベンチを見つけるとそこに腰かけた。佳奈は車椅子に乗ったままで、私の隣に移ろうとはしなかった。

 佳奈は持ってきていた水筒を飲み干すと、真っ青な空の先を見つめていた。その時の顔はいくらか心地よさそうにも見えたが、同時に空の果てしなさを前にして途方に暮れているようにも感じられた。公園の外の歩道では制服姿の中学生たちが並んで歩いていた。学校は夏休みのはずだが登校する必要があったのだろうか。日本の学校に詳しくない私にはよく分からない。

 中学生たちの姿を何気なく目で追っていると、佳奈もまた視線を向けていることに気づいた。その眼差しはこれまでと違い明瞭で、明らかな羨望が滲んでいた。私は図らずも、佳奈が秘めている望みの形を察したが、それは先ほど私が打ち明けた願望をすべて叶えるのと同じくらい難儀に思えた。

 この無為なひと時も、病気がちな佳奈にとってはささやかな幸福だろう。けれどもありふれた十一歳の日常にはほど遠く、それに気づいてしまった時の虚しさは想像に難くない。

 佳奈は来年、十二歳になる。本来であれば小学校最後の学年で、更に翌年には中学に進学する。

 慶士郎は亡くなった妻と同じ私立の中学に入れてやりたいと話していたが、今の佳奈では受験することも難しいだろうと諦めていた。佳奈は私とのホームスクーリングのもと、カリキュラム自体は一般的な小学生とほとんど変わらないレベルに至っていたが、入試は真冬の時季に行われる。例年通りの症状が出るならば受験はまず不可能だった。仮に合格したとしても、小学校にさえまったく通っていない佳奈がどれだけ登校できるものか……それならばやはり、公立中学に籍を置くだけに留めておくのがいいのではと慶士郎は考えているようだった。

 佳奈もすでに理解しているのだろう。たとえ形式的に小学校を卒業できたとしても、自分の日常は今と変わることがない。改善の兆しもない周期的な病に苦しみ、世間とは隔絶された希望のない人生を歩む――そんな未来を想像し、また憂いてしまう年頃にまで彼女は成長していたのだ。

 どうすれば彼女に希望を与えることができるだろうか。再び無垢な笑みを咲かせてくれるようになるだろうか。

 散歩から帰宅したのち、私はずっと考え続けていた。佳奈はもう、自ら望みを打ち明けてくれることはないだろう。失われた希望によって閉ざされた心を、今度は私が開いてあげなければならなかった。私が見失いかけていた愛情を彼女に開いてもらった時のように。

 悩み抜いた末、私はやはり、佳奈に誕生日プレゼントを贈ることにした。それが彼女との四年間で、私がしてきた唯一の祝福の方法だった。

 けれど今回の贈りものは、お金では買えないものだった。彼女の中で消えてしまった希望の火を再び灯すためには、私が注ぐ愛情だけでは力不足だと自覚していた。

 どうしても、佳奈の心をより深く抱き締めてくれる温もりが必要だと感じていた。

「プレゼントは、いらないって言ったのに」

 私から小包を受け取ると、佳奈は申し訳なさそうな顔をした。それでもやはり拒むことはなく、私が開けてみてと言うと、佳奈は気の乗らないような手つきで小包を開いていく。

 中に入っていたのは、――シックな色合いで格式高いデザインをした、セーラータイプの学生服だった。

 佳奈は驚いたように目を見開くと、セーラー服を両手で広げて持って、

「これ、ママが通っていた中学の……どうして? なんでキャシーが持ってるの?」

 彼女の言う通り、それは慶士郎が元々佳奈に通わせたいと話していた私立中学――すなわち、佳奈の母親が通っていた中学の制服だった。

 なぜ私が持っているのか、佳奈が驚くのも無理はない。制服は合格をしなければ購入できないため、佳奈のために新品を用意することはできない。

 だから私は、――慶士郎にお願いし、手配してもらったのだ。

 佳奈の母親が実際に着用していた制服、そのものを。

 この私立中学は百年近い伝統を誇る由緒正しい学校らしく、制服についても素材や夏服のバリエーションなどを除けばほとんど変更がされていないという。ゆえに佳奈の母親が通っていた時代と現行のものでも、デザインについてはほぼ差異がない。

 その事実に着目した私は、新しい制服は無理でも古いものは手に入れられないかと考えた。もしかしたら家の中に佳奈の母親のものが眠ってはいないかと探したが見つからず、慶士郎に訊ねてみたところ実家には残されていることが分かった。大切な遺品であることは承知の上で事情を説明し、佳奈のために特別に譲ってもらったのが今回の制服だった。

「じゃあこれ、ママが……」

 ――ええ、そうよ。佳奈のお母さんが着ていたものよ。慶士郎さんにお願いして、今日に間に合うように届けてもらったの。

「でも、どうして」

 ――佳奈に、希望を持ってほしかったの。

「希望……?」

 ――そう。あなたのお母さんと同じ学校を受験するの。そしてあなたは、その制服を着るのよ。お母さんと同じようにね。

「だけど、佳奈は……」

 ――難しいことは分かっているわ。入試の時期、あなたはまた病気になってしまうかもしれない。受験できないかもしれない。

 ――だけど、諦めないでほしいの。希望を持ってほしいの。あなたと同じように体の弱かったお母さんが、懸命に生きてあなたを産んだように。

 ――大丈夫、佳奈ならきっと受験できるし、合格もできるわ。私が保証する。

「どうして、そう言い切れるの?」

 ――あなたの家庭教師が、ほかならぬ私だからよ。

 なんの根拠もない理由を言うと、佳奈は思わずといった風に相好を崩し、

「ふふっ、変なの……」

 おかしそうに言うと、手にしていた制服に顔を埋めた。

「これが、ママの匂いなのかな」

 ――きっとそうね。どんな匂い?

「キャシーも嗅いでみる?」

 ――それはなんだか恥ずかしいわ。

「ちょっとだけね、キャシーに似てる気がするよ」

 ――私に?

「うん。……凄く、落ち着く匂いだから」

 制服を抱き締めるようにして持つ佳奈は、私が望んだ無垢な笑みを浮かべてくれていた。

「ねえ、一度だけ、着てみてもいいかな?」

 ――今から? まだ合格したわけじゃないのよ。

「だから、一度だけだよ。それに、合格したら、ちゃんと新しいのを買うんでしょう?」

 私は苦笑し、佳奈の好きにすればいいと言った。制服は佳奈にプレゼントされたものなのだから、どうするかは彼女の自由だ。

 一通り着てみた佳奈だったがサイズが合わず、上着に至っては手のひらがほとんど隠れるほどだった。佳奈の母親は肉体的に早熟だったのかもしれない。

 その日以来、佳奈は以前にも増して勉強を頑張るようになった。明確な目標ができた佳奈の気力は相当なもので、前はゆっくりするばかりの夜にも本を読むようになっていた。絵本ではなく活字だらけの本で、入試内容に作文があることが理由だった。家庭教師の私より入試内容に詳しいのは、もしかすると前々から受験したくて自分で調べていたからだろうか。

 ホームスクーリングは順調過ぎるほどに進み――物分かりのよさは大学教授の慶士郎譲りというわけか――勉強好きな性格も手助けして、いつの間にか佳奈は、一学年上の内容まで理解できるようになっていた。

 驚異的とも言える速度でカリキュラムをこなした佳奈だったが、体調面にはやはり不安が付きまとった。冬になると再び微熱が出るようになり、満足に机に向かえない日もあった。それは特に十二月から一月にかけて酷かったが、入試が行われる予定である二月には微熱も治まり、体調も良好となっていた。例年であれば少なくとも三月半ばまで不調が続くため、この回復は希望を感じさせるものだった。私は来年の受験を現実的なものにできるよう力を尽くし、佳奈は新しい制服に袖を通せる日を夢見ていた。



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