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 日本に来て初めての冬。乾季と雨季しかない国にいた私にとっては幼少期以来の冬で、雪を見るのも久しぶりのことだった。まだリーナと呼ばれていた頃は両親と外へ出て、積もった雪に埋もれて遊んでいた記憶が思い出された。以前より寒さに弱くなってしまった私の体ではとても考えられないことだ。

 寒さに弱いのは、私だけでなく佳奈も同様だった。冬の訪れによって、私は佳奈が虚弱な体質であることを改めて思い知った。

「ごめん、キャシー……今日もお勉強、できなくて」

 ベッドの中から、佳奈が弱々しい眼差しを覗かせる。笑みを浮かべているものの、いつものような溌剌さは影を潜めている。

 十一月の終わり頃から、佳奈は体調を崩しがちになった。微熱が続き、体を起こそうとすると眩暈が起きる。目に見えて食も細くなり、いつの間にか勉強ができる状態から遠ざかっていた。

『この時期になるといつもそうなんだ。医師の話だと免疫力が落ちて、具合を悪くしやすいらしい。妻の時もそうだったよ……』

 その頃、慶士郎はイギリスに飛んでいた。二週間は帰れない見込みだった。

 電話口の彼の声には、申し訳なさと諦めの気配が入り混じっている。

『だから今は、無理に勉強をする必要はないよ。なるべく部屋を温かくして、これ以上佳奈の具合が悪くならないよう努めてほしい。それと、できればあの子の傍にいて、一人にしないであげてほしい』

 慶士郎の指示通り、私はできる限りの時間を佳奈に寄り添うために費やした。佳奈は日中に眠っていることもあったが、日が昇っている時間は目を覚ましていられるよう努力しているようだった。

「去年はね、たくさん寝てた。なにもできないから寝てるだけだったんだけど、そしたら元気になっても、眠くなっちゃうようになったから。だから、起きてるの」

 幼いなりの工夫は理に適ったものだったが、私にとっては戸惑いの種だった。

 こうして佳奈が床に伏すまで、彼女との多くの時間は勉強のために用意されたものだった。慶士郎から与えられたカリキュラムをこなせば、あとは食事や生活に関する言葉を交わすだけ。それは機械のように仕事を行いたい私にとって都合のよいサイクルだった。

 が、勉強ができなくなった今、佳奈と無為の時間を過ごすことは苦痛だった。ベッドに横たわることしかできない佳奈は、勉強をしていた時よりも更に私への質問を多くしていた。

「キャシーは、前の国でなにをしていたの?」

 いずれ、そういうことを訊かれることは予期していた。

 私は勉強をしていた、と無難に答えた。それ以上の過去を知られることは避けたかった。

 けれど多くを語らないでいると、佳奈は決まって詮索を試みてきた――「どこで?」「なにを?」「なんで?」「どうだった?」などと、少しずつ足を踏み入れるように。

 幼いなりの好奇心からであることは分かっていたが、私にとっては苦心の種となった。これ以上、彼女の前に目的もなくいれば、私はまた呪いに囚われてしまうのではないか――そんな不安が胸中に渦巻いた。

 悩み抜いた末、私は苦肉の策に出た。私になにかしてほしいことはないか、そう佳奈に訊いてみたのだ。どんな要望をされても過去を詮索されるよりはマシだと考えていた。

「なんでも、いいの?」

 ええ、私にできることなら。

「それなら……二つ、あるの」

 二つ? それだけ?

「うん。一つ目は、本を読んでほしいの。あの中に、たくさん入ってるから」

 佳奈が示したのはウォークインクローゼットで、開くと確かに、段ボール箱いっぱいの絵本が入っていた。

 好都合だと思った。本を読むだけなら機械になれる。決められた文章を読み上げればいいのだから。

 その日から、佳奈が起きている間は絵本の読み聞かせを行った。私は感情を込めることなく淡々と音読したが、それでも佳奈は満足そうだった。一冊読み終えると布団から手を出して、パチパチと小さな拍手を鳴らしていた。それからひとしきり感想を言うと、「もう一回!」とか、次に読んでほしい本についてリクエストをする。

 こうして私は、自らの過去が暴かれる機会から逃れることができた――はずだった。

 日本発祥の絵本を読み終え、次に読むことになったのは私もかすかに見覚えのある絵の本だった。タイトルには日本語で、『ずーっとずっとだいすきだよ』と記されており、読み始めるとやはり、覚えのあるストーリーだった。英語版を読んだ記憶があるのかもしれない。

 愛犬の死によって、いずれ誰にでも永遠の別れが訪れることを知るという物語。だからこそ主人公は、新しく飼うことになった動物たちに伝え続ける、『ずーっとずっとだいすきだよ』と。

 本を読み終えた時、佳奈は拍手をしなかった。

 代わりに、どこか物憂げな目を私に向け、

「どうしたの、キャシー?」

 質問の意味が分からず、私は困惑した。

 なにが? ――そう訊き返そうとした時、声が上手く出せないことに気づく。

 佳奈は続けた。

「だって、キャシー……泣いてるから」



 頬の上を雫が伝う。目の前がぼやけて判然としなくなる。

 それらの感覚が自分の身に起こっていると理解するのに、私は多くの時間を必要とした。

 けれど、同時に不可解でもあった――なぜ私は泣いているのだろう。理由が分からない。

「悲しかったからじゃないの? 死んじゃったことが……」

 と、佳奈が言う。自身も声を震わせ、瞳を潤ませながら。

 私は頷けなかった。涙は未だ、とめどなくこぼれてくる。どれだけ目を擦っても、ぬぐい切れないほど。

 ――そうだ。私は昔、この絵本を読んだ。

 それから悲しくなって、泣いた。たくさんの涙を流し、お別れをするのは怖いことだと泣きついた。

 誰に? ――それはもう、私とは切り離された少女の記憶で、思い出してはいけないものだった。

 けれども涙は、溢れてしまう。

 どうしようもないほどに。

「キャシー……」

 小さな手のひらが、垂れ下がった私の頭に載せられる。

 顔を上げると、涙目で微笑む佳奈の顔があった。布団から手を差し伸べ、私の髪を撫でていた。そうしなければいけない、と感じ取ったかのように。

「どうしたの? 大丈夫……?」

 私は、なんでもないと答えた。

 ただ、昔のことを思い出してしまっただけだと。

 ――私がまだ、佳奈と変わらないほどの年齢だった時。

 私も、この絵本を読み聞かせてもらったのだ……そして、絵本の中の男の子と同じように悲しくなって泣いて、読み聞かせてくれたママに泣きついた。

 ママは、『これは悲しいお話ではないから』と慰めてくれた。いずれはお別れの時が来ると分かるからこそ、誰かを心の底から愛せるようになる物語だと。

 だから、悲しいわけではないはずなのに――やはり涙は止まることがない。

 だって、私はずっと、その愛によって苦しめられてきたのだから。

 誰も愛さなければ、悲しくならずに済んだのに。泣いてしまうこともなかったのに。

 ――パパ、ママ、レオン、それから……。

「ねえ、キャシー? キャシー……わっ!」

 私はぎゅっと、佳奈の体を抱き締めた。

 あるいは、泣きついたのかもしれない。縋ったのかもしれない。

 ――ごめんなさい、佳奈。

 ――もう少しだけ、このままでいさせて……一人にしないで。

 私の絞り出したような声に、佳奈は小さく頷き、

「一人じゃないよ……もう、一人じゃない」

 それは、私に向けての言葉なのか。それとも佳奈自身へのものか。

 その日、私たちは初めて同じベッドで眠った。温かくした部屋の中で、親子のように身を寄せ合いながら。


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