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 センターで今回の仕事について紹介された時、アマンダから日本に関する話をいくつか聞かされた。彼女は大学時代に慶士郎と知り合った時から親日家になったらしく、特に侍や着物の文化に興味があったと話していた。着物に関しては、彼女から日本人形なる少女型のフィギュアを見せられ、私は変わった民族衣装が流行っている国なのかと勘違いしてしまった。アマンダ曰く、今は日常的に着物を着ている日本人はあまりにいないという。

 私がホームスクーリングを行うことになった佳奈は、当時見た日本人形とよく似た少女だった。長くて艶のある黒髪は特にそっくりで、違いがあるとすれば瞳の大きさくらいだろうか。フィギュアの少女は目が細くどこか禍々しい雰囲気を感じたが、佳奈は愛嬌に富んだ丸い瞳を惜しみなく晒していて、常に爛々とした表情の少女だった。また、アジア系の肌は黄色であることが多いと聞いていたが佳奈は違った。白色人種の私とそれほど変わらないほどの白皙で、それは少女らしい可憐さを際立たせているのと同時に、天真爛漫な表情には似合わないどこか病的な気配を醸していた。

 ホームスクーリングそのものについては、それほど苦労することがなかった。教材はすべて慶士郎が用意し、今日はどのページまでを進めればいいかを指示され、私はその通りにこなすだけでよかった。佳奈は八歳の少女のため、言動は常に稚くそわそわしているようだった。けれど勉強の際は大人しくなり、私の話に耳を傾けていた。

 キリのいいところまで終えると、私は必ず佳奈に質問がないか訊ねた。

 それは当然、勉強に関することを訊いたつもりだったが、

「なんでキャシーの目は、青いの?」

「今日のお昼ご飯はなに?」

「パパ、今日は帰ってくるかな?」

 と、脈絡のない質問をしてくることが多かった。

 それらは総じてくだらないものだったが、私も無下にすることはしなかった。たとえ勉強に関係のないことでも訊かれれば答えた。請け負った仕事は完遂すること。今の私にはそれがすべてだった。佳奈の口からとめどなく溢れる質問の泉に対して、私は機械のように対応し続けた。

 けれども――、

「キャシーは、結婚したの?」

 その質問には、私も答えるのをためらった。

 ただ答えるのはたやすい。していない、と言えばいい。私が本当にただの機械であれば。

 しかし私は、考えてしまった――どうして佳奈は、そんなことを訊くのか。訊ね返してしまっていた。

「佳奈、知ってるよ。結婚は、好きな人同士が一緒に暮らすことなんでしょ? キャシーは、パパと結婚したの?」

 なにか重大な思い違いが見られる返答だった。

 そもそも結婚の定義がいい加減過ぎる。恐らく慶士郎が幼い佳奈にも分かるような表現で教えたのだろう。けれどそれで私と慶士郎の関係を誤解することは、佳奈にとってもあまりいいことではないように思えた。

 私は佳奈の家庭教師をするためにここへ来たと答えた。それが慶士郎と結婚したことになるわけではないことも添えて。

「どう違うの?」

 佳奈はまだ判然としていなかった。きょとんとした眼差しで私を見上げてくる。

 先ほどの佳奈の言葉を借りて言えば、私は慶士郎と好き合っている間柄ではない。あくまでクライアントとコントラクターの関係でしかない。

 それに慶士郎は一度結婚しているし、死別だったのなら妻への愛情も消えていないだろう。――私が今もそうであるように。心の底から誰かを愛したことがあるのならば、対象を失ってなお愛は残り続ける。錆びることのない鎖のように身を締めつけたまま。

「パパはまだ、ママのことが好きってこと? だからキャシーとは、結婚しないの?」

 いくらか要領を得た質問だった。概ねその通りだったため私は否定しなかった。

「それじゃあ仕方ないね。佳奈も、ママのこと大好きだから。お話したことは、ないけど……」

 佳奈の声にはかすかに、憂いを帯びた響きが混じっていた。

 その夜、佳奈を寝かしつけたあとに慶士郎が帰ってきた。三日ぶりの帰宅だった。

「そうか、先ほどまで起きていたのか。こんな時間まで、夜更かしさせてしまったね」

 申し訳なさそうに呟いて、慶士郎は眠りについた佳奈の頭を撫でている。

 私は昼間、佳奈から質問を受けていた。慶士郎は今日帰ってくるのかと。それについて私は慶士郎に電話で確認を取り、帰宅できる旨を佳奈に伝達していた。

 佳奈は三日ぶりに父親に会えることを期待し、普段よりも長く眠気と格闘したが、その時間は八歳の少女にとって親切ではなかった。

「君がいてくれて本当に助かるよ。明日も早く出なければいけなくて、またしばらくは戻れないかもしれない……今は君から聞ける佳奈の話が、私にとって唯一の励みだよ」

 慶士郎はどれだけ疲れていようが、帰宅した日には必ず佳奈についての話を求めた。勉強の進み具合はもちろんだが、それ以外の、日常生活に関することを訊ねてくることが多かった。私はありのままを慶士郎に話した――佳奈が私と慶士郎の関係について、重大な思い違いをしていたことについても。

「そうか……それはとんだ迷惑をかけてしまった。でも許してほしい。佳奈はまだ八歳なんだ。それにきっと、嬉しかったのだと思うよ。キャシーのように、ずっと家にいてくれる女性が来てくれたことがね」

 慶士郎はまた申し訳なさそうな声で言った。

 私は、佳奈が自分の母親と一言も話したことがないと言っていたことを思い出した。察するに慶士郎の妻は、佳奈がまだ物心つく前に亡くなったということだろうか。

「君が私たち家族について訊ねてくるのはめずらしいね。初めて私が妻と死別したことを話した時だって、なんの詮索もしてこなかったのに」

 慶士郎の言う通り、私は以前よりも彼らに関する質問を思い浮かべることが多くなった。それは仕事をこなす上で必要だと判断したからか、あるいは私的な興味が湧いているからなのかは分からなかった。

「佳奈の物心がつく前に亡くなったというのは、間違いではないが適切でもないよ。なぜなら私の妻は、佳奈を産んだことで命を落としてしまったからね」

 私は大きく目を見開いた。

 同時に、――在りし日の体の震えが、背筋をそっと撫でた。

 慶士郎は続ける。

「妻は体が弱く、出産も命がけになることは薄々気づいていた。まもなく妊娠中毒症のきらいがあると医師から聞いた時には、私も子供は諦めるべきではないかと進言した。その時はまだ見ぬ子供の命よりも、最愛の人の命が大切だったんだ。

 だが、妻は絶対におろしはしないと言い切った。自分になにがあろうと、お腹の中の子を産むと。……その時の眼差しは、すでに一人の母親のものだった。彼女の目に映る私は、父親とは呼べない未熟な目をしていた。私は、妻の意思を尊重した」

 その結果、佳奈は生まれた――母親を代償にして。

「妻が命を賭してまで尽力してくれたからこそ、私は佳奈に会うことができた。そのことには感謝している、感謝しているのだが……時々、思うこともあるんだ。やはり私は、止めるべきだったのだろうかと。妻は、文字通り命がけで産んだ子と、ただの一度も会うこともなくこの世を去った。それは妻にとって、本当に幸福なことだったのか……私だけが、佳奈と時間を共にできる幸いを喜んでいてもいいのか、未だに悩み続けているんだ」

 苦悩を吐露する慶士郎は、まるで私に答えを委ねているようにも見えた。

 彼は私の過去を知っているのだろうか――アマンダから聞かされた可能性もないとは言えない。

 私はなにも言わずにいた。私と慶士郎の妻とではあまりに違い過ぎる。彼の妻は母親としてこの世を去ったが、私は母親になることを許されなかった。それは当然のことだ、当時の私は今の佳奈と四つか五つほどしか変わらない子供に過ぎなかったのだから。誰かの母親になど、初めからなれる器ではなかった。それは身ごもった時から分かっていたはずのことだ。

 ――それなのになぜ、私は産みたいと思ったのだろう。

 私もアマンダの反対を押し切って出産を望んだ。それだけが最後の希望であると自分に言い聞かせ、まだ名前を持たない幸福が私に手を伸ばす日を待ち侘びていた。

「話が逸れてしまったね。……佳奈はたぶん、母親を欲していたんだろう。私が誰かと再婚すれば、その人は佳奈の母親となる。血は繋がっていなくともね。私も、ただの一度も再婚を考えなかったわけじゃないんだ」

 けれど、どうしても気が進まなかったんだ――そう慶士郎は続けた。

「研究が忙しかったというのもあるが、そんなものは言い訳に過ぎない……結婚式の時、私は神父の言葉になぞらえるがまま言った。『死さえも二人を分かつことはないEven death cannot keep the two apart.』と。それは常套句でもなんでもなく本当だったんだなと思ったよ。多くの友人からは、呪いみたいだなと笑われたけどね」

 呪い――そうだ、それはきっと呪いなのだ。

 最愛の女性を愛したまま失ったがために、ほかの女性を愛せなくなった呪い。私が持つ呪いと似て非なるもの。

 けれど慶士郎も、私とは違う。

 この男には佳奈がいる――最愛の人が残した幸いがある。

 私には、なにもない。

 レオンが私に残したのは、少しの思い出と、私を永遠に自死から遠ざける呪いだけ。

 もはや私に、幸いの時が訪れることはない――佳奈が二度と、母親を得ることができないように。



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