29
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どれほど無価値な時計でも、秒針は止まることなく進み続けていく。自ら電池を取り除くか、誰かに壊されることがない限り。
世界の誰にとっても無意味な時は、歩みを止めないままどこへ向かおうというのか。
「無価値な時間があるとすれば、それは俯き続けている時間ではないかしら。どんなに悲しく辛いことがあっても、私たちは生きていかなければならないの。望んでもそうできなかった人たちのためにも」
私が自殺未遂を起こす度に、アマンダは似たような説教を言い聞かせた。
どこまでも偽善に満ちた医者だ――私が授かった希望を、助けることもできなかったくせに。
「そのことについては、謝るわ。だけど私たちは最善を尽くした。あの時はああするしかなかったの……あなたと同じ日に出産した子は命を落としたわ。逆に胎児の方は市街の病院に搬送されていて、まだ息があると報告を受けているけれど、正直いつまで生きられるかは分からない。悲しいことだけれど、それがここでの現実なのよ。許して、カタリナ……」
アマンダの弁明に、私が理解を示すことはなかった。いっそ彼女が私を殺してくれていたらどれだけ楽だっただろうか。子供と共に死んだって、構わなかったのに。
無価値な時は速度を増して流れ続け、いつの間にか私は自ら命を絶つことを諦めていた。
眠れば両親の夢を見るように、死に近づこうとすればレオンとの日々が温もりを伴って頬に溢れ、生から外れるための道をぼやけさせる――それでも突き進もうとすれば、触れることも許されなかった幻影が私の行く手を阻んだ。それらは新たな呪いのように、私を無色の未来へといざなった。
もはや自死も叶わないと知った時には、私はセンターで最も古株になっていた。私はまた心の快復を偽ってネブリナとなり、戦場に復帰することを希求した。戦場に戻れば、誰かの銃が私を撃ち殺してくれるだろう――そんな期待を抱いて。
が、それは長い間手にすることを望んでいた銃によって打ち砕かれた。最初の射撃訓練時、私は訓練用の銃を手にした途端に凍りついてしまった。すでに解消されていたはずの禁断症状のような震えが起こり、銃口を定めることが困難になっていた。
これもまた、呪いだというのだろうか? ――私はもう、自ら銃を持つことすらできないのか。
銃を扱えないネブリナが戦場に派遣されることなどありえない。最期を望むための希望すら絶たれ、ネブリナとしての日々も無意味なものと化した。私は少しでも早くセンターを出るために勉学に勤しんだが、精神的なケアが不完全であることをアマンダに指摘され、働き口を紹介されることはなかった。
私が十八歳の誕生日を迎えた時、アマンダは言った。
「カタリナ、正直なことを言うと、私はまだあなたのことが心配よ。あなたは多くの不幸を経験して、心にたくさんの傷を負った。それを充分に癒すためにもっと充分な時間が必要だと思うけど、これ以上、あなたをここに置いておくことは難しいの。
あなたは誰よりもこのセンターにいて、誰よりも多くのことを学んだわ。センターはほかの地域にもあるけれど、それらを含めてもあなたほど長くいた子はいないでしょう……それでも、あなたの心の傷はまだ癒えていない。もしかしたら一生、消えることがないかもしれない。だからカタリナ、あなたは外の世界に出て、あなた自身の傷に寄り添ってくれる人を探してほしいと思うの」
そうしてアマンダは、私にある働き口を紹介してくれた。
「私の大学時代の知り合いが日本で大学教授をしていて、ホームスクーリングをしてくれる住み込みの家庭教師を募集しているわ。それで私、あなたを推薦することにしたの」
どうして私が、という疑問が浮かんだ。
言葉にはしなかったが、アマンダも察したらしく、
「あなたは言語習得の授業もすべて受けていて、極めて優秀な成績だったわ。それに年長者だったから、センターの子たちに勉強を教えていたことも多くあったでしょう? だから適任だったと思ったのよ……それとこれは、私の勝手な思い込みかもしれないのだけど、小さな子に勉強を教えている時のあなたは、少しだけ活き活きとしているように見えたの。違うかしら?」
私は、その問いには頷かなかった。センターの子たちには、教えてと言われたから教えていたに過ぎない。それも英語の授業の時だけだったから、教えるのはたやすいものだった。家庭教師とはわけが違う。
それでも、私はアマンダの話を受けることにした。どの道もう、このセンターに私の居場所はない。
それに振り返ってみれば――私はずっと、この国を出たがっていたのだから。
「あなたとも随分、長い付き合いになったわね。なんだかもう、母親のような気分だったわ……不甲斐ない母親で、本当に申し訳なかったけれど」
結局、私は最後までアマンダの言葉に迎合することがなかった。この六年で彼女について分かったことは、彼女は医者であってカウンセラーではなかったということだ。
アマンダは「そうかもしれないわね」と苦笑をこぼし、
「あなたの心を本当の意味で癒してくれる人が現れることを、祈っているわ」
それは彼女なりの皮肉か、本心か。どちらにしても無責任に思えて、感謝の言葉を向ける気にはなれなかった。
私は特別な感傷に浸ることなくセンターをあとにし、名残惜しむこともなくこの国を出た。飛行機に乗るのは子供の時以来だったが、当時のように心を躍らせることはなかった。たとえば旅行で搭乗する時などはいつも興奮していた。隣に座る両親と話をして、疲れるといつの間にか眠ってしまっていただろうか……そんな記憶も、もう朧気なものだった。
日本語はある程度習得できていたが、日本がどういう国なのかはよく知らなかった。アジアにあって、有名な自動車メーカーがある世界有数の経済大国だと聞いていたから、最初は中国と陸続きの場所にある国だと思っていた。でも世界地図を見るとどうやら極東の島国で、アマンダ曰く『戦争を棄てた国』なのだという。レオンが聞いたら鼻で笑いそうな紹介だと思った。
私が住み込むことになったのは冠城慶士郎という男の家だった。妻とは死別しており、現在は八歳になる娘と二人暮らしだという。私に与えられた仕事もその娘の家庭教師だと聞いていた。
「娘は妻に似て虚弱な体質で、小学校に籍は置いているもののほとんど通えていない状態なんだ。長く外に出たり人の多い場所に行ったりすると体調を崩しやすい。それでホームスクーリングに切り替えようと思ったんだが、日本ではほとんど実例がないし、住み込みともなると引き受けてくれる人が中々いなかったんだ」
慶士郎は常に疲弊感を引きずっているような男だった。オールバックにはすでに白髪が混じり、実年齢の割に更けて見えた。
「本当は私自身でやれれば理想的だったんだが、仕事柄、中々家に帰ることができない。だからどうしても、住み込みで娘の面倒を見てくれる人がよかったんだ。そんな時にアマンダから連絡をもらって、驚かされたよ。彼女とは留学中に仲よくなったが、まさか今になってメールをもらうとは思わなかった。そこで君のことを聞いたんだ、キャシー」
私はこの仕事を引き受ける上で、カタリナという本名を捨てることを条件にした。アマンダは了承しつつも理由を訊ね、私はなにも答えなかった。
名前を捨てることは私にとって重要だった。かつてレオンがそうしたように、私も過去の自分を捨てなければならないと思っていた。それがいくつかの呪いを解くために必要な手順になると期待したのかもしれない。私はキャサリン・ガルシアとして慶士郎と会い、キャシーと呼んでもらうようにした。
「これまでの話でもうなんとなく感づいているかもしれないが、君の仕事はただの家庭教師ではない。私が不在の間、娘の面倒を見ること……アメリカ風に言うならベビーシッターだ。もちろん勉学が中心だから、あらゆる世話を頼むとは言いにくいが、できることならあの子の傍にいてあげてほしい。母親のいないあの子は、ほかの子供たちよりも愛情に飢えているだろうから」
それまで私は機械のように相槌を打っていたが、母親という言葉を聞いた時には少なからず動揺した。端的に言うとこの男は、娘にとっての母親代わりを求めている――それを理解してしまったからだ。
日本まで来た以上、今更仕事を引き受けないわけにはいかない。それは重々承知だった。
しかし、自分が誰かの母親代わりになれるとは思わなかった。そもそも私は、愛する人から授かった自分の子供すら、守れなかったのだから――。
相槌を忘れて沈黙しかけていた時、唐突に部屋のドアが外から叩かれた。
「パパ? ここにいるの?」
続いて、幼い女の子の声。
慶士郎は「すまない」と断りを入れて席を立ち、ドアを開ける。
同時に、薄桃色のパジャマを着た少女が現れ、慶士郎の腰に抱き着いた。
「やっと捕まえたぁ! ……その人は、だあれ?」
室内にいた見慣れない私に気づき、少女は首を傾げる。
慶士郎は「ちょうどいい」と私の方に向き直り、
「キャシー、紹介するよ。この子が娘の
と、苦笑混じりに紹介する。少女の寝癖だらけの頭を撫でながら。
佳奈は無表情の私と目が合うと、少しだけ警戒したように慶士郎の陰に隠れる。けれども私が義務的に微笑むと、佳奈は一転して笑みを咲かせた。
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