27



 レオンと出会ってから、私の世界は大きく変わった。辺りに漂う空気がすべて入れ替えられたかのような、新鮮で清々しい気分を味わった。

 それはレオンから分けてもらえるガックのおかげだった。不意に湧き上がってくる苛々が見事になくなり、常に幸福な気分でいることができた。自分でも驚くほど感情の波がなだらかになった。

 レオンの言う通りだ。アマンダたちから小うるさい話を聞かされるより全然いい。気分がすっきりして、苛立つことがほとんどない。

 カウンセリングの際も以前までのような反抗する気持ちは失せてしまっていたが、急激に態度を変えることはむしろカウンセラーに悪印象を与えるとレオンから忠告された。そのため、私はアマンダからのカウンセリングに対し、少しずつ従順になっていくよう振る舞った。レオンからのアドバイスに従い、アマンダに対する表情や仕草、受け答えなどを段階的に明るいものにさせた。あたかもカウンセリングを受け続けたことで心が開いていったかのように見せるため、秘密裏にドラッグを服用しているなどと感づかせないために。

「このところご機嫌ねカタリナ。なにかいいことでもあったの?」

 一ヶ月を数えた頃には、私のいい子ちゃんフェーズも最終局面に差し掛かっていた。私はアマンダの話を素直に聞き、時折はにかむような笑みを浮かべてみせる。アマンダはそれを見逃すまいと微笑み返し、訓練の行き届いたおべっかで私の顔色をうかがってくる。

 私は、だいぶ体の調子がよくなったのと嘯きながら、ゲラゲラ笑い出したいのを堪えていた。アマンダは自分のカウンセリングのおかげだと思い込んでいるのだろう。それを考えるとおかしくて仕方なかったが、ネブリナになるにはもっと信用を得る必要がある。私は必死に嘲笑がこぼれるのを堪えた。

「好調なのはいいことね。センターでの勉強はどう? カタリナは英語が得意だから退屈かしら」

 アマンダの言う通り、勉強会は退屈だった。レオンは元々英語がからきしだったため苦労したと話していたが、私にとっては不必要な学習だった。

 が、勉強会への出席頻度もケアの進み具合に考慮される。私は次第に出席するようにし、無意味な講義に耳を傾けては内容を覚えるようにした。それを興味深いテレビ番組でも見たかのように振り返ることも、アマンダの目を欺くのに効果的だった。

「その調子よカタリナ。次のステップは少し怖いかもしれないけれど、ほかの子たちとも仲よくしてみることね。大丈夫、今のあなたならきっと素敵な友人が見つかるわ」

 どうやらアマンダの目には、私がほかの子たちに声をかけられないシャイな少女に映っているらしい。なんて間抜けなカウンセラーだろう、そもそも私が周りの子たちと話そうとしないのは性格上の問題ではない。英語が上手く通じないからだ。英語の勉強会に熱心に参加している子でも、私の流暢な発音を聞き取れる者はほとんどいない。

 それに――私は、アマンダの推奨する素敵な友人をすでに見つけていた。

 レオンとは夜に時間を共有する。場所は決まって私の部屋。異性の部屋に出入りするのは禁止されているが、密会することはそれほど難しくなかった。夜が更けた頃に私が窓の鍵を開けておけば、あとはレオンの方から音もなく侵入してくる。私はドラッグを受け取り、レオンは私の体を抱き寄せる。たったそれだけのことで、私たちはそれぞれの多幸感を手にすることができた。

「カウンセリングは順調そうだな」

 レオンの言葉に、私は上機嫌な具合に頷く。先ほど摂取したドラッグのせいか、なんでもない相槌にさえ大袈裟な笑みが伴う。

「ははっ、こっちもこっちで、中々楽しいもんだよ。パソコンなんて初めて触ったけど、あれは結構好きだ。ただ一つ残念なのは、パソコンの方は俺のことを好きになってくれなそうってことだな」

 レオンはすでにニエブラとなり、センターに隣接している養成施設に通っていた。戦場に戻ることを夢見ている彼だが、時には戦闘訓練以外の勉強も気に入ることがあるらしく、ピロートークの話題にしてくることもあった。

「キーボードの配列を覚えるだけでも骨が折れそうだった。あの技術は敵地に潜入する時なんかに役立つらしいけど、俺にはなにがなんだかさっぱりだ。やっぱり銃撃の訓練が一番楽しいし、爽快だよ。さすがに人は撃たせてもらえないけど、引き金を引けるだけでも気が晴れる」

 そんな話を聞く度に私は期待を濃くさせたが、同時に強い不安を覚えた。その不安がどこから来るものなのか分からず、すがりつくようにレオンの体温を求めた。そうすると決まって彼は私の髪を撫でて、「どうした」とか「大丈夫か」とか囁く。

 自分にも理由は分からない。ただはっきりと、この感情が不安や怖れの類いであることは明白だった。

 それでも、その怖れに支配されることはなかった。少なくともレオンに抱かれている時は――けれどある夜、私は起きるべきではない時間に目を覚ました。全身が奇妙なほど震えていて、冷えた汗がべっとりと肌を覆っていた。

「カタリナ? どうした、ガックか?」

 隣で眠っていたレオンも目を覚まし、尋常ではない私の状態を心配する。

 私はかぶりを振った。それはドラッグを欲しがっている時の震えではなかった。不意に訪れる名前のない不安、怖れから来るものだった。

「なんだ、怖い夢でも見たのか?」

 冗談っぽく訊いてくるレオンの声を、この時ばかりは上手にかわすことができなかった。私は泣きながら彼に背を向けた。

 レオンの言葉は図星だった。私は夢を見て、その光景に愕然とし、恐怖のあまり目を覚ましたのだ。

 夢の中の私は、遂に念願の銃を手にしていた。使い慣れたカラシニコフ。目の前には試し撃ち用に並べられた捕虜の姿。

 私は思い切り引き金を引いた。跪く捕虜は一瞬にして蜂の巣となり、熱い返り血が私の太ももまで飛び跳ねていた。魅惑的な快感が全身を駆け巡った。

 けれど我に返り、死骸と化した捕虜を見て私は愕然とした――そこに倒れていたのは、捕虜などではなく、

 痛苦に顔を歪ませた、私の両親だった。

「――それが、お前の過去か」

 すべてを理解したように、レオンは言った。

 私の忌まわしき過去。不意に訪れる怖れの根源。

 ――内戦に巻き込まれたあの日。

 私と私の両親は、家の中まで押し入ってきた反乱軍によって身柄を拘束された。

 金目のものをすべて奪ったのち、兵士たちは泣きじゃくる私に囁いた。

『助かりたいか? 死にたくないか?』

 私は何度も頷いた。殺さないでと懇願した。

 すると兵士は、私に銃を突きつけたまま、――一丁の自動小銃を握らせた。

『そいつで両親を撃ち殺してみろ。そうすればお前だけは助けてやる』

 その提案に、囚われの両親は戦慄していた。

 先ほどまでの私と同じように泣き喚き、私に向かって哀願していた――撃たないで、殺さないでと。

 私はショックを受けた。二人がどうしてそんな目で私を見るのか。どうして顔を歪め、恐怖しているのか。

 生まれて初めて手にした銃は想像よりも軽く、引き金はあまり固くなかった。

『――やるじゃないか。こいつには戦士の素質がある』

 気づいた時には、私は周囲にいた兵士たちから祝福されていた。目の前には親ではなくなったものが粗大ごみのように転がっていた。真っ赤な温もりがフローリングを這うように流れ、私の足元にすがっていた。汚らわしくて、私は思い切り足を払った。

 初めての人殺しは、何日も私の夜の夢を支配した。眠る度に両親だった人たちの死に顔がよぎり、その度にまた夢の中で銃殺し、夜中に目を覚ます。呪われたような日々だった。あるいはそんな夢にうなされていた時はまだ、私は戦士などではなくか弱い子供の一人だったのかもしれない。

 私に与えられた呪いを解いたのは、上官の兵士による洗脳だった。それは同時に、私を一人の戦士にするための儀式でもあった。

『いいか、カタリナ。お前の両親をぶっ殺したのは政府軍の連中だ。この糞みたいな国の犬どもによって葬られたんだ』

 反乱軍に連れられてまもない間、私はガラス細工のように優しく扱われた。捕らえられていたほかの女子供らよりも遥かに優遇され、マリファナやコカインを用いた偽りのケアによって精神の再構築を施された。

 洗脳のすべてが上手くいったかと言えば、そうではなかった。兵士たちは私の親殺しを政府軍によるものにすり替えようとしていたが、私の記憶がそのように改変されることはなかった。しかしドラッグによる洗脳は徐々に私の感覚を昂らせ、記憶の底に澱のように溜まっていた両親への感情を増幅させた――それらは悲しみなどではなく、ささやかな憎しみで満ちていた。

 ――パパは約束を破った。こんな国、すぐに脱出できると言ったのに。

 だから私は、孤独になったのだ。

 ――ママはパパを蔑ろにした。かつての気品を失って、汚らしい言葉でパパを罵った。

 だから私は、夜に一人で泣いたのだ。

 ――二人は私に、殺さないでと懇願した。殺さなかったら、私が殺されてしまうのに。私の命よりも自分たちの命を優先しようとした。

 だから私は、二人を撃ち殺したのだ。

 私は、悪くない。なにも悪くない。

 あんな人たちなんて、死んでしまって当然だったのだ。

『そうだ、それでいい。お前はなにも悪くない。正しいことをしたんだ』

 兵士が私に囁きかける。私は何度も頷き、頬を伝う涙を振り落とす。

 私に対する洗脳は最終フェーズに移行した。私は再び銃を持たされた。

 目の前には一人の捕虜が鎖に繋がれている。政府軍の兵士だった。

 上官の兵士は『好きなように殺せ』と命じ、私と捕虜を二人きりにさせる。

 捕虜は私に何度も命乞いをしていた。私が兵士ではなく子供だから、話せば分かると思ったのだろう。

 兵士の演説は極めて懸命だった。私は殺す気などなくただ立ち尽くして聞いていたが、兵士は最後の最後で私に対する言葉を見誤った。私は映画で見た兵隊の見様見真似で銃を構え、小うるさくなった捕虜の口を目がけて引き金を引いた。

 けれど反動で銃口がぶれて、銃弾は捕虜の肩や腕、腹部などに命中した。私が撃つのをやめると、捕虜は痛苦に顔を歪め、先ほどまでとは逆のことを懇願し始めた――殺してくれ、と。

 私は装填されていた銃弾すべてを捕虜の体に浴びせた。飛び跳ねる血と銃弾の音にあらゆる感覚を支配された。

 銃弾が尽きてようやく、眼前に伏した肉塊が喋れなくなっていることを理解した。壁の陰から上官の兵士が現れ、私の銃捌きをこれ以上ないほど賞賛した。私が戦士となった瞬間だった。

 その日を境に、私は両親だった人たちの夢など見なくなった。意識しなければ思い出すこともないほど過去のものとなり、呪いが解かれたのだと安堵していた。

 ――が、それは間違いだった。

 呪いは解かれたのではなく、ただ洗脳によって記憶の奥に沈んでいただけ。

 だから私は、今頃になって思い出したのだ。

 無自覚な不幸から解放され、確かな幸福の時間に身を浸し。

 在りし日の両親のような、自分にとって真に大切だと思える存在を知ったことで――それを自ら葬り去った記憶が呼び起された。

 忘れていたはずの呪いが、再び私の身を震わせているのだ。

「呪いか……確かに、そういう言い方が適切かもしれないな」

 私の話を聞いたレオンは、思いのほか冷静だった。特段驚くこともなく、淡々とした様子で相槌を打つ。

「でも、俺がカタリナの立場だったとしても、同じことをしたかもしれない。たとえ両親を憎んでいなかったとしても、自分が生き残ることを選んだかもしれない」

 その言葉に、私は形容しがたい怒りを覚えた。レオンに一体なにが分かるというのか――とっさにそう口走っていた。

 レオンはやはり動じることなく、どこか懐かしむようにかすかに微笑み、

「分かるさ。このセンターにいて、お前の気持ちが分からない奴なんて、たぶんいない。現に俺だって、似たような話はいくつも知っているんだ。とりわけめずらしいことじゃない」

 そう答えてベッドを出て、窓のカーテンをわずかに開けた。細い月明かりが差し込んで、レオンの潤んだ眼差しを煌めかせた。

「たとえば、アンディって奴の話だ。アンディは八人兄弟の長男で、七人の弟がいた。父親は仕事中の事故で死んでしまっていて、母親は足腰が弱いもんだからアンディが狩りをしてみんなを食べさせなきゃならなかった。片田舎の村じゃめずらしくない光景だ。

 ある日のアンディは最高に幸運だった。狩りの成果が上々だったもんだから飛び跳ねるような足取りで村まで帰った。だが村には銃を持った輩がわんさかいて、死体がごみみたいにそこら中に転がってた。村の広場では大人の男と女子供が分かれて捕らえられていて、片方にはアンディの弟たちもいた。

 まず、大人の男のたちがまとめて銃殺された。周りにいた兵士たちがカラシニコフで蜂の巣にしたんだ。笑い声と悲鳴が入り混じって響いて、アンディの体は震え上がった。それから、今度は兵士たちの銃口が、泣き叫んでいる女子供たちに――アンディの弟たちがいる方に向けられた。その光景を目の当たりにしたアンディは、どうなったと思う?」

 問われた私は、なにも答えなかった。答えるまでもない気がした。

 レオンはまた穏やかな笑みをこぼし、

「そう、ここにいる。戦場から遠く離れた、平和な柵の内側に」

 彼の光る眼差しは、どんな言葉よりも雄弁にすべてを語っていた。

「俺もまた、アンディの呪いが解けていないんだ。だから戦場に戻りたがっている。反乱軍を根絶やしするためじゃなく、この内戦を終結させるためでもなく……ただ、戻らなければいけないという、強迫観念めいた呪いが俺を支配している」

 レオンが月明かりの方を向いた。彼の背中はわずかに震えているように見えた。

 私はベッドから起き上がり、レオンの体にそっと身を寄せた。交し合った時間の分だけ、互いの体温は摩擦なく調和していくようだった。ずっとこのままでいたい、そう強く願った。それは再び銃を手にしたいという思いよりも強固なものになっている気がした。

「カタリナは、それでいいのかもしれない。俺のように、戦場に戻ろうとしなくたって……」

 そう言いかけて、レオンは垣間見せた寂しさを微笑みの裏側にしまっていた。

「なあカタリナ。もしお前も外出許可が下りるようになったら、二人で街に出かけようぜ。アイスクリームが美味い売店Kioskを見つけたんだ。興味あるだろ?」

 普段とは少し違う、子供みたいに無邪気な声だった。

 魅力的な提案だと思った。LDEでアイスクリームが支給されることはありえないから。だけど素直に頷いてしまえば、私まで子供っぽくなってしまうのではと懸念した。ただでさえ私は、レオンよりも年下だというのに。

「カタリナは、アイスクリーム嫌いだったか?」

 今度は不安げに問いかけられて、私は思わずかぶりを振った。いいえ、好きよと答えていた。

 レオンは「じゃあ約束だな」と再び微笑んだ。それから私の手つきが望むように、私の華奢な裸体を抱き寄せた。


 ――レオンが死んだと聞かされたのは、それからまもなくのことだった。



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