第4章 失えない熱 ―Just Kill Me―

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 私が銃を手にして二度目の時、目の前には鎖で繋がれた男が跪いていた。その男は政府軍の軍服をまとった兵士だったが、今では乱雑に身包みを剥がされた哀れな捕虜に過ぎなかった。恐らく精悍であっただろう顔立ちは青痣にまみれて酷くやつれ、筋肉質な体には広範囲に渡って生々しい傷がひしめいている。それらの痛ましさが反乱軍の拷問によって刻み込まれたものであることは明白だった。

 死に損ないという言葉が相応しい男だったが、眼差しはまだ死んでいなかった。腫れ上がった瞼の奥に垣間見えるターコイズブルーの両目が、銃を持たされたまま立ち尽くす私を見上げている。一縷の希望を湛えた瞳だった。

「頼む、その銃で、この鎖を撃ってくれ。お願いだ」

 男はざらついた声で私に哀願した。彼の不自由さがジャラジャラとすすり泣いた。

「こんなところでくたばるわけにはいかないんだ。俺には使命がある。そうさ、君のような子供を救い出すことも一つの使命だ。分かるよな?」

 私は呆然と男の言葉を聴いていた。涙声のスピーチは極めて懸命で、声だけで私の足元に縋りついてくるかのようだった。

 私がこの男の前で銃を持たされたのは、私にもまた使命が課せられていたからだった。けれど男の声に縋りつかれた私は、男に銃を向けることをためらった。そうしなければ自分の命が危ういと分かっていても――この時の私はまだ、自動小銃が似合わないありふれた少女の一人だった。死を目にすることへの恐怖心、罪悪感などの確かな人間らしさを、感覚の中に留めていた頃だった。それは本来失われることがないはずだった――男の命乞いが誠実であり続けていれば。

「もし、俺を助けてくれたら、どんな望みでも聞く。ああそうだ、ご両親は健在か? どこかのキャンプにいるなら俺が一緒に探してやる。難民の集まってるところはよく知っているんだ、必ず見つけてみせる」

 両親の話を出た瞬間、――私の中で激しく昂る感情があった。

 ヤメロ――ダマレ――キキタクナイ。

「おい、なんの真似だ。一体どうしたって――」

 男の声を数発の銃声が掻き消した。

 けれどまだ、私が望んだ静寂には至っていなかった。男は全身からおびただしい量の血を流していたが、まだ息絶えてはいなかった。体をびくびくさせながら地べたに倒れ込み、ひゅうひゅうと細い笛のような呼吸をしていた。

 その耳障りな音を何度も響かせたのち、男は絶え絶えの声で言った――「殺してくれ」と。

 それからしばらく、私の目の前は真っ白になった。なにが起きたのか、私だけが知らずにいた……あるいは、努めて知ろうとしなかったのかもしれない。

 気づいた時には、男が蜂の巣にされた状態で転がっていた。それはもはやただの肉塊であり、私が望んだ静けさを体現していた。

 ほどなく、物陰から覗いていた反乱軍の兵士がやってきて、私の肩にぽんと手を載せる。それから「よくやった」と、私を労った。

「全弾使っちまうとは恐れ入った。見事な銃捌きだったぞ。細腕の割に連射の反動を堪えるだけの力もある。立ち姿も堂に入っているし、なにより――その冷めた目つきがいい」

 兵士の手のひらは分厚くごつごつしていた。その岩肌のように硬い感触は舐めるように私の肩から腕へと滑り落ち、最後には私の手を取っていた。

「『死骸を抱いて歩くなら、手は冷たい方がいい』――戦場でよく聞かされる言葉だ。どういう意味か分かるか?」

 私が答えるよりも早く、兵士は醜悪に微笑み、

「常に冷酷であれってことだ。誰かを殺る時はな」

 私の耳元でそう囁いた。幼子に絵本を語り聞かせるような、優しげな声だった。

「戦場では、ためらう気持ちがない奴ほど生き残れるんだ……お前もその一人だぜ、きっと。なにせこれだけ残虐に殺っておいて、平然としていられるんだからな」

 兵士の言葉で、私はもう一度、目の前に転がっている死に向き直った。

 血だまりの中に伏す肉塊には、もうどこにも、あのターコイズブルーの眼差しが見当たらなかった。命乞いも耳障りな呼吸も失せていた。足元に転がるおびただしい数の薬莢が、かつて人間だった肉塊が受けた苦痛のすべてを私に教示していた。





 ――……眠りから目を覚ました私が最初に見た光景は、トラバーチン模様が刻まれた大理石の天井だった。じっくりと目を凝らすと少しだけ黄ばんでいるのが分かった。新しくは、なさそうだった。

 私はベッドの上に倒れていた。誰かの手によって寝かされていたみたいだった。周りは白いカーテンに囲まれていて、ベッド脇には輸液用のパックが引っかけられたスタンドが立っていた。パックの先から伸びたチューブは私の左腕に繋がっていた。

 どこかの病室だろうか、と私はイメージしたが、確信を持つことはできなかった。眠る前に自分がなにをしていたのか、思い出そうとしても頭痛がするばかりで、記憶には靄がかかったみたいだった。

 しばらくすると、前方のカーテンがシャッと開かれた。現れたのは看護服に身を包んだ若い黒人女性で、私と目が合うなり彼女は血相を変えて去っていった。しばらくすると戻ってきて、今度は別の女性も一緒だった。その女性も黒人だったが、身にまとっていたのは看護服とは似て非なる白衣だった。

「目が覚めたのね。よかったわ」

 安堵したように言いながら、白衣の女性はベッド脇に立って私を見下ろした。口ぶりや佇まいから医者だろうかと思ったが、だとすればなぜ、医者が私の身を案じているのかは分からなかった。

「大丈夫? まだ焦点が定まっていないようだけど」

 その問いかけに、私はどう頷けばいいのか分からなかった。

 具合はあまりいいとは言えなかった。頭痛がして、少し熱っぽい気もした。全身に倦怠感があるせいで起き上がりたいとも思わなかった。

「私の名前はアマンダ、ここの医師よ。辛いところ申し訳ないんだけど、ちょっとテストをさせてもらうわね。名前を言ってみてくれるかしら」

 私は素直に、カタリナ・メイ・アークライトと答えた。その声は自然とか細くなった。

 続いてアマンダは、生年月日や出身地、好きな本のタイトルなどを訊ねてきた。私はそれらの質問すべてに答えたのち、こんなことになんの意味があるのか問いただした。

「戸籍データとの照合という意味もあるけど、一番はあなたの精神状態の確認ね。結構多いのよ、記憶が混乱して、自分が誰なのか一時的に分からなくなってしまう子って」

 アマンダはいたずらっぽく微笑む。その隣では、看護服の女性がクリップボードになにかを書き込んでいた。

 嫌な気分になった。まるで、観察されているみたいだ。

 私は、彼女たちが何者なのかを問うた。続けざまに、どうして私はここにいるのか、ここは一体どこなのかを問いただした。

「何者かなんて、なんだか仰々しく訊ねるのね。まるで大人みたいだわ」

 はぐらかすように答えるアマンダ。

 私がキッと目つきを鋭くすると、彼女は「ごめんなさいね」と軽い謝罪を済ませ、

「カタリナ、あなたは目覚める前のこと、どれくらい覚えてる?」

 質問に質問で返されることは、私にとって好ましい会話ではなかった。普段であれば容赦なく怒鳴っていただろうけれど、この時ばかりはそうできず、私は口を閉ざした。アマンダからの言葉を待った。

 彼女は、「あなたは兵士だったのよ」と告げた。

 私は自然と目を瞑り、記憶にかかった靄の中を意識のみで歩き始めた。

 ――あの時、私は暗い森の中にいた。誰かに銃を向けていた。

 誰だ――私は、誰と相対していたのか。

 地に伏し、悲愴感に苛まれた面持ちで私を見上げた、薄褐色の肌に雨合羽をまとった少女。銀色の髪を乱れさせ、恐怖に震え切った青い瞳を向けてきた彼女の名前は――ジュリエッタ。

 ――そうだ。

 私はあの子を、ジュリエッタを前にしていた。

 彼女を殺すために――銃を向けていた。

「思い出したようね、自分がなにをしていたのか」

 私は両目を開けた。

「カタリナ、あなたは反乱軍の兵士で、アジトからの脱走を図った民間の少女を殺そうとしていた。しかし私たち組織の人間のショック弾によって気絶させられた。これが、あなたが眠る前に起きたことの全容よ」

 アマンダは優しく語りかけるように言った。

 彼女の話は恐らく正しい。私はジュリエッタを殺そうと銃の引き金に指をかけたが、殺せたという実感は残っていない。けれど私の銃とは違う銃声が森の中に響いたことは、かすかに覚えている。

 愕然とした。私は失敗したのだ。

 ジュリエッタを殺し損ねただけでなく、政府軍に捕らえられて、銃を奪われてしまった。恐らくあのアジトも、私がいた部隊ももう……。

「アジトがどうなったかについては、あなたの想像通りよ。あなたのいた部隊は殲滅した……いいえ、反乱軍そのものも、もはや時間の問題でしょうね」

 どういう意味、と私は問い詰めた。鋭い声を出したせいか、看護服の女性は身を震わせておののいていた。

 しかしアマンダは動じず、わずかに口角を上げただけだった。

「あなたたち反乱軍が根城にしているほかの拠点、それら大半の座標を把握したわ。外部からの傭兵として反乱軍に潜入していた仲間によってね」

 傭兵――私は真っ先に、あのラルフという中尉の存在を思い出した。

 ジュリエッタを逃がそうとしていた張本人だ……私はぎゅっと唇を噛み締め、ベッドのシーツに鋭く爪を立てた。

「それだけじゃないわ。近いうちに、この内戦は終わりを迎える。反乱軍側の降伏でね」

 悔しさを露わにする私をよそに、アマンダは話を続けた。

「あなたたち反乱軍は貴重鉱石の採掘場を占領し、それを隣国へ密輸することで軍費を調達していた……けれどもう、そのルートは国連が封鎖した。密輸で私腹を肥やしていたバイヤーや先進国の企業も特定され、重い刑罰が課せられることも決定した。見せしめとしてね。取り引きできる相手がいなくなった以上、反乱軍はもう軍資を捻出する術がない。降伏は目に見えているわ」

 私はふっと、シーツに込めていた力を緩めた。

 そこまで分かっていながら、なぜ彼女たちは、私を生かしておくのだろう。生け捕りにして情報を聞き出そうというわけでもないのなら、さっさと殺してしまえばいいのに。

 利用価値のない捕虜を治療するなんて、バカげた話だ。

「カタリナ。さっきからあなた、一つだけ勘違いしているわ。私たちは政府軍じゃない……だから、あなたの敵というわけじゃない、むしろ味方になりたいと思って、あなたの目の前にいるのよ」

 アマンダはその場にしゃがみ、私と目線を合わせてくる。

 私は、彼女の言葉が上手く呑み込めなかった。政府軍じゃない? 味方になりたい……?

 当惑する私に対し、アマンダはこれまでで最も穏やかな笑みを向け、告げる。

「ここは『LLUVIAジュビア DE ESPERANZAエスペランサ』――『希望の雨Rain of Hope』という意味が込められた組織直轄の、リハビリセンターよ」


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