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 両腕は背中に回され、手首は引っつけられたように動かせない。頭部もしっかり押さえつけられているため、僕は起き上がることができないでいた。重心を支配されているような感覚だった。

「面白い比喩表現ですね。拓海様は他者から重心を支配されたご経験があるのですか。それは存じませんでした」

 軽やかに揚げ足を取ってくるジェマさん。

 というか、そんな経験があってたまるものか。これは言わば、走馬灯のよう、という表現が使われている小説と同じ。本当に走馬灯を見たことがある作家なんていやしないだろう。

「こんな状況でも拓海様は冷静ですね。あるいは動揺のし過ぎで現実逃避に陥っているのかもしれませんが」

 言い得て妙だった。

 僕は突然取り押さえられた。ジェマさんの指示を受けたアスミによって。

 狼狽えて当然の展開ではあるが、僕が特に抵抗もせずに平然といられるのには、相応の理由がある。

 それは――信頼。

 恥ずかしながら僕は、病的なほどジェマさんを信頼している。

 僕を貶めるためにこんなことをしたのではないのだろう。きっとなにか理由があるはずなのだ。そうに違いない。

「相変わらず、拓海様は私をときめかせるための口車がお上手ですね」

 いや、単なる本音なのだけど。

「お察しの通り、これは正当な理由があってのことです。拓海様を愛しているからこそ拘束したのです。理由もきちんとお話しさせていただきます」

 部分的に切り取ったらちょっとヤンデレっぽい台詞だと思った。

 まあここで言うジェマさんの愛とは、いわゆる家族愛のことなのだけど。

「ヤンデレって、なに?」

 頭上から降ってくるアスミの声。実に素朴な疑問だった。

 ツンデレの対義語、とか言ってお茶を濁そうかと思った僕だったが、アスミの場合はそのあとに『ツンデレってなに?』と訊き返してきそうなのでやめた。その話はまた今度ということで。

「拓海様を拘束したのは、私が不安だったからです」

 不安?

「ええ。ひょっとすると拓海様は、これから行う私たちの行為について快く思われないかもしれない。それを見越した上で先手を打たせてもらったわけです。ご理解いただけましたか?」

 完全にイエスとは答えづらい。

 というか、僕がジェマさんたちの行為を快く思わない? 一体なにをしでかすというのか。とんでもなく危険なこととか、あるいは二人して僕をいじめるとかでない限り、僕がジェマさんの行いに対して不快に思うことはないような気がするが。

「アスミと二人で拓海様をいじめる、ですか。それはそれで楽しそうではありますが」

 まあ冗談はさて置き、とジェマさんは含みのある笑みを見せて、

「拓海様のおっしゃる通り、私たちはこれからとても危険な行いに手を出さなくてはならないのです。なにせこれから、凶悪な犯罪者と対峙しなくてはならないのですから」

 自然と、僕の眉間に力が入る。

 犯罪者。しかも猟奇的まで頭に被るとは。およそ現実的な言葉には思えない。

 ――けれど一つだけ、思い当たる節があるとすれば。

「拓海様もご存知かと思いますが、現在この界隈で起こっている少女連続怪死事件……その犯人を捕まえに行こうと考えているのです」

 やっぱりか。

 凶悪な犯罪者と聞いて、今僕の頭に浮かぶのはその事件だけだ。

 しかし、いわゆる『セーラー服事件』は、自殺なのか他殺なのかまだよく分かっていない怪死事件のはず。

 にもかかわらず、ジェマさんは犯人の存在がいることを前提に話している。それもすでに特定しているような口ぶりだ。

 というかなぜ、ジェマさんがその事件に首を突っ込もうとしているのか。一体なんの関係があるというのか。

 ――ふと、僕の脳裏にこれまで感じていた疑問点が浮かび上がる。

『セーラー服事件』の第一被害者は、アスミを預かった翌朝に発見された。

 加えてアスミは、四人目の被害者が出た日の真夜中、外へ出ていた疑いがある。それが夢遊病による症状かどうかは判然としないが、タイミング的にはどちらも言いようもない怪しさが感じられる。

 こうした事実も、ジェマさんが事件に関わろうとしている理由に関係あるのだろうか。

「もしやと思いますが、拓海様はアスミが事件の犯人だとお考えになっていたのですか?」

 やや驚きながら訊ねてくるジェマさん。

 僕は曖昧にかぶりを振った。まったく疑っていないと言えば嘘になるが、いくらなんでもこんな小さな子が……という常識的な思考から、疑惑にすら昇華していなかったと言うほかない。

 だが先述の通り、タイミングの気持ち悪さについては不安に感じていた。犯人でないのならホッとするが、大の大人を簡単に組み伏せることができる腕前を見ると、それはそれでなにか不安に気持ちにさせられる。

 結局のところ、このアスミという少女は一体何者なのか――。

「そうですね、端的に言えば彼女は、『ネブリナ』です。と言っても、拓海様にはまだご理解いただけないでしょうが」

 ネブリナ。

 それは確か、アスミが元々呼ばれていた名前。

 ジェマさんは苗字のようなものと言っていたはずだが、本当はなにか別の事柄を差す呼称なのだろうか。

「実を言えば、私もネブリナなのです。そして『セーラー服事件』の犯人もその可能性が高かった……いえ、今となっては、可能性ではなく断定的になってしまいましたが」

 ジェマさんはどこか憂いのある笑みを浮かべ、話を続ける。

「私は元々、戦争孤児でした。祖国の内戦によって両親を亡くし、寄る辺を失った私を拾ってくださったのが、ほかならぬ克己様でした。克己様は当時、少年兵などの救出作戦を行う組織で指揮を執られていました。その縁で、私もしばらくその組織の庇護下におりました。そして十六歳になった時、かねてから克己様とお約束していた職務に従事することになった――それが、宇佐見家のハウスメイドになることです」

 およそ現実味の薄い経緯。突拍子もない告白。

 だが普段のような、軽薄なジョークを語る口調とはほど遠い雰囲気があった。僕は安易に口出すことができず、ただ黙って聞いていることしかできなかった。

「ネブリナ、こっちへ」

 ジェマさんがアスミを呼ぶ。

 背中に乗っていた重みが、すっと消えた。

「この子は言わば、私の同胞です。厳密には戦争孤児ではなく、救出された少女たちが産んだ望まれない子供の一人でしたが」

 望まれない子供……その理由を、僕は的確に想像することができなかった。

「内戦時、兵士たちによって捕らえられた少女たちの多くは、兵士に奴隷的役割を与えられて生かされていました。それによって子を孕む少女もおり、その多くは流産するか、幼い母親と共に死を迎えました」

 ジェマさんからの補足に、僕は愕然とする思いだった。

 淡々と語られる言葉、そこに内包された想像を絶する凄絶さに、僕はやはり言葉を失ったままだった。

「奇跡的に産み落とされた赤ん坊も、そのほとんどが脆弱なまま生を受けたせいか、生き残ったのはごくわずかでした。その一人が、今ここにいるアスミなのです。

 アスミを産んだ母親はまだ幼い少女だったため、アスミは組織の庇護下で育てられました。その後、私たちと同じようにネブリナとなったのです」

 僕の視線が真上にいるアスミに引き寄せられる。

 彼女に目立った表情の変化はなさそうだった。けれどどこか、悲しそうに俯いているように見えたのは、僕の心が感傷的になっているせいだろうか。

「拓海様は先ほど、この子の裸体をご覧になったでしょう」

 ジェマさんの言葉に、僕は小さく頷いた。

 アスミの幼い肉体に刻み込まれていた、いくつかの傷や痣の痕。ジェマさんが言いたいのはそのことだろう。

「一応断っておきますが、この子の傷はすべて訓練で負ったものです。組織に所属する少年は『ニエブラ』、少女は『ネブリナ』と呼ばれ、いくつかの訓練を受けることになります。生き抜くための手段として」

 ジェマさんは訓練がどういうものなのか、詳細には語ってくれなかった。

 僕も、わざわざ聞くまでもないことに思えた。目の前にいるアスミがなによりの証拠だろう。彼女はたくさんの傷痕を抱えているし、先ほどは僕の体をいとも簡単に組み敷くことさえやってのけた。

 今思えば、明らかに外国人である彼女が流暢に日本語を話せることも、なにか言語的な訓練を積んでいたからではとも考えられる。箸の存在を知らなかったのも、単に言語の習得しか経験していないからではないだろうか。普通の外国人が日本に興味を持って日本語を覚えるのとはわけが違っていたのだ。

「それで、ここからが本題なのですが」

 ジェマさんは話を改めるように、一度小さな咳払いを挟んだ。

「ニエブラやネブリナは、ある年齢を過ぎると組織の庇護下を外れ、その能力や適正に応じた様々な職務に従事します。難しく聞こえるかもしれませんが、ようは学校を卒業して就職するようなものだと思ってください。ある者は傭兵や特殊部隊、またある者は公共機関の捜査官、SPなどになる者もいます。表立って言えることではありませんが、この日本にもたくさんのニエブラ・ネブリナが職を全うしています。そうして身寄りのなかった者たちが、自らの力で自分が生きていくフィールドを見出し、社会に貢献していくのです。

 しかしごく稀に、なんらかの理由から犯罪に手を染めてしまう者もいます。その多くは戦争時に患った精神的疾患のフラッシュバックが原因と言われていますが……そういったケースが発覚した場合は、その近辺にいるニエブラ・ネブリナが対処することになっているのです」

 つまり、今回の『セーラー服事件』がそのケースだと言うのか。

 組織の人間が起こした問題だから、同じ日本にいる同胞のジェマさんたちが解決しなければいけないと。アスミと共に僕の部屋にやってきたのも、初めからそのためだったと――。

 いや、そうすると分からないことがある。

『セーラー服事件』の最初の被害者は、ジェマさんたちが僕のアパートを訪れた翌日に発見された。

 まさかジェマさんたちは、事件が起きることを予見していたとでも言うのだろうか。

「いえ、さすがにそんな能力はありません。私がアスミと共にここへ来た時は、私は別の任務を負っていました。アスミはその任務の関係で送られてきた子で、私がこの界隈で任務を遂行している間、どなたかに面倒を見てもらう必要がありました。それで拓海様に、秘密裏に手伝ってもらっていたわけです」

 じゃあ、あの身体測定や食事の管理は。

「どちらも、組織にいる間は行われていたことです。本来は私が行うべきことでしたが、任務遂行に時間を割く必要があったため、やむなく拓海様にお願いしていたのです」

 そういうことだったのか。

 とすると、ジェマさんはほかの目的があってこの街へ来たのに、たまたまネブリナが事件を引き起こしたからその対処に回る必要が出た、ということになるのか。

「その解釈で間違いはないのですが、しかし結果的には、私が初めに負っていた任務も達成することになりそうです」

 それは、どういう意味だろう。

「私が負っていた任務とは、アスミと共にある一人のネブリナを見つけ出し、会いに行くことでした……ここまで言えばお察しいただけるでしょうか」

 それは、つまり。

 事件を引き起こした犯人が、ジェマさんたちが捜していたネブリナだった……?

「その通りです。私もまさかとは思っていましたが……今日、確信に至ることとなりました。拓海様と並んで歩いていた容疑者を尾行し、アスミに監視させていたことで」

 尾行――その言葉で、僕は大きく目を見開いた。

 じゃあ、犯人のネブリナとは、まさか。

 僕の動揺をよそに、ジェマさんは卓袱台のノートパソコンを開き、画面を僕に向ける。

 そこには、見知った女性の肖像が表示されていた。

 僕が知っているよりも少しだけあどけなく、見る者をぞっとさせるほど凍った目つきをしていた。

「彼女が『セーラー服事件』の容疑者、通り名はキャサリン・ガルシア」

 ジェマさんはわずかに語尾を震わせたのち、女性のプロフィールを読み上げた。


「本名は――カタリナ・メイ・アークライト。

 私と同じ内戦を経験し生き延びた、ネブリナの一人です」


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