22
三人のカップやグラスが空になった頃、僕らはアイスクリーム店をあとにした。それから近くにある大型ショッピングモールに立ち寄り、アパレルショップを中心に見て回った。
「アスミちゃんってどうしてジャージなんて着ているの? もっと可愛らしい洋服の方が似合うのに」
そうアドバイスしながら先生はいくつかの洋服をアスミの体に当てていたが、当のアスミは関心がなさそうだった。試着を勧められても決して頷くこともない。
アパートでもパジャマかあのジャージ姿だし、よほどあのジャージが気に入っているのか。あるいは着替えたくない事情でもあるのか。どちらにせよ、先生も無理強いはしなかった。
それからもウィンドウショッピングに終始し、気づいた時にはもう夕刻を迎えていた。
ショッピングモールを出た僕らは、大学までの帰路を並んで歩いている。先生はずっとアスミと手を繋いでいて、時折たわいのない雑談に興じている。話しているのはほとんど先生だったが、アスミも満更ではなさそうに相槌を打っていた。
こうして眺めていると、二人は仲のいい姉妹のようだった。肌の色は違うもののどちらも似たような金髪だし、似ていないこともない。なんて生粋の日本人である僕だからそう感じるだけかもしれないが、とにかくこの二人が手を繋いで歩いている光景は微笑ましいものだった。
大学の前まで来ると、先生は「そろそろお別れね」と切り出し、
「私は一度、慶士郎さんのところへ戻るわ。まだ研究室だと思うから」
少しだけ名残惜しそうに笑って、アスミと手を離していた。
「宇佐見君のおかげで望みが叶ったわ。それ以外にも色々と付き合ってもらっちゃって、本当にありがとうね」
いやいや。とんでもない。
望みが叶ったのは僕だって同じなのだから。アイスを一つや二つ奢るくらいどうってことない。
「宇佐見君の望みがなんだったかは分からないけど……あんまり気前がいいのも考えものよ? 宇佐見君は一人暮らしなんだから、お金は計画的に使わないといけないわ」
予想外の方向で釘を刺されてしまった。
確かにアスミを預かり始めてから、財布の紐も緩み始めている気がする。気をつけておかないとまたジェマさんになんと言って詰られるか分からない。
と、僕が内省に励んでいた時。
「…………」
ずっと黙っていたアスミが、不意に先生のシャツの裾を弱く握り、
「またね」と小さく言って、先生を見上げていた。
先生は少しだけ驚いていたが、すぐに柔和な微笑みを浮かべて、
「ええ、また一緒に遊びましょうね」
と、アスミの頭を撫でるのだった。
アスミがどういう心境かは分からないが、しかしよくやってくれたと賞賛したい。おかげでまた遊びに誘う口実ができた。子供頼りというのは少々情けない話ではあるけれど。
それから僕は、先生と二、三言葉を交わしたのち、大学の正門前で別れた。先生は大学の中へと戻っていき、僕とアスミはまっすぐ帰路に着いた。
帰り道、僕はアスミにいくつか質問してみることにした。まず、あの店のアイスクリームはどうだったか。
「美味しかった。また食べたい」
アスミは率直に答えてくれた。本当にそうならもっと天真爛漫にアピールしてくれてもいいのだが、まあ今になって始まったことでもない。
僕はよかったね、と答えつつ、キャシー先生の印象についても訊いてみた。別れ際に『またね』なんて言っていたくらいだし、印象がいいことは分かり切っているけれど、なんとなくアスミが先生をどう評するのか気になったのだ。
けれどアスミは、
「いい人」
とだけ答えて、それきりだった。
たとえ好印象でも感想が淡泊なのは、それはそれでアスミらしい気もした。
かと思えば、
「拓海は、あの人のこと好きなの?」
突然、大谷翔平ばりの剛速球を投げ込んでくるアスミ。
僕は激しく狼狽した。うぅむと言葉を濁したが、すぐにハッとなった。
アスミが友達的な好きと恋愛的な好きを区別するだろうか。この場合の『好きなの?』は、僕が考えているよりも軽いレベルで訊いてきているのではないだろうか。
ならばこの場は、単純に頷いておけばいいはずだ。変に思われないためにも。
「頷くのに、なんでそんな考えたの?」
案の定、不思議がられた。考え込む手順があっただけでもう不自然だったらしい。
ふと空を見上げると、だいぶ陽が傾いていた。真夜中にはまだほど遠い時間帯だが、夜のとばりが落ち切るまでには帰った方がいいだろう。
僕はアスミの手を取り、心持ち早足で帰路を歩き始めた。アスミはなにも言わず僕の歩調に合わせるのだった。
帰宅後。
アスミと晩ご飯(帰り道で買った弁当屋のチキン南蛮定食)を食べたのち、僕はお風呂に入った。どちらが先に入るかは大体日替わりで、今日は僕が先の日だった。
体を洗い終えてから湯船に浸かり、僕は今日のことについてぼんやり考え込んだ。
たった一日で色々なことがあった気がする。最も幸いなことは補習が終わったことだが、キャシー先生と遊べたことも捨てがたい。学外まで一緒にアイスを食べに行った学生なんて僕ぐらいだろうし、これは割と自慢できる。自慢できそうな学友はいないけれど。
あとは、アスミ。思わぬ闖入だったけど、キャシー先生も楽しそうにしていたからよかった。夢遊病についてはまだ不安が拭えないが、こればかりは僕一人でどうこうできる問題ではない。近いうちにジェマさんとよく話し合おう。
キリのいいところで思考回路を止め、ふひーと一息ついてリラックス。
とその瞬間、不意に浴室のドアが開いた。
「どうしたの?」
――それはこっちの台詞だ。
浴室に入ってきたのはアスミだった。目を見開いて驚愕を表現している僕に対し、彼女の目はいつも通りきょとんとしたものだった。
「拓海の背中、流してあげようと思って?」
なぜか疑問形で言いながら、アスミはおもむろにバスチェアへと腰を下ろす。
流すもなにも、僕はもう体は洗い終わっているが――と突っ込みながら、僕はアスミの裸体に釘づけになっていた。
率直に言うと、傷だらけだった。
健康的に焼けたブルネットの彼女の肌には、広範囲に渡って青痣や切り傷が確認できた。ちょっとした怪我とか、そういう軽い程度ではない、尋常ではないように思えた。
「別に、なんでもない」
アスミは明確な答えをよこさなかった。本当に、大したことがないように答えるだけだった。
ことがことだけに僕も追及しづらかったが、しかし気にはなる。浅はかな想像力かもしれないが、一番に浮かんだのは虐待による傷ではないということ。
そういえば、彼女が初めて僕のもとへ来た時、僕は彼女をスラム街辺りから連れてきたのでは、なんて感じていた。まさか本当にそういう出身の少女か、あるいはマンホールチルドレンとかなのだろうか。劣悪な環境で育った子供みたいな。
でもそれでは、流暢に日本語を話せることの説明がつかない。実は生まれも育ちも日本で、日本語しか喋れない外国人とか? で、日本で虐待された子供であるとか。
ますます混乱してきた。のぼせてきているのも相まってか、頭が上手く働いていない気がする。
「じゃあ、拓海が洗って」
いや、なにが『じゃあ』なのか。僕の背中を流しに来てくれたのではないのか。
普段の僕なら冷静にお断りできていたかもしれないが、今回ばかりは混乱でそれどころではなかった。言われるがまま僕は彼女の髪を洗ってあげた。
「ちょーきもちいい」
棒読みの感想だった。北島康介のものまねならもっと気合いを入れてほしいものだ。
考えてみると、アスミの裸体を見るのはこれが初めてだった。お風呂は一緒に入ることがなかったし、部屋の中では彼女は必ず服を着ている。それも大抵、長袖長ズボンの黒いジャージ姿か寝巻き姿だし、肌の露出が少ない服ばかりだった。今思うと、傷痕が見えるリスクを避けたかったからではないかとも考えられる。
だとしたら、なぜ今日になって一緒にお風呂?
まったくもって謎だ。
「ジェマが、日頃の感謝がうんたらかんたらって」
その辺りの疑問には答えてくれた。
けれどうろ覚えのようで、感謝の念はあまり感じられなかった。結局僕の方が洗わされているし。
彼女の髪に絡んだ泡を流し終え、次はもちろん体を洗うわけだが、それはさすがに気が乗らなかった。小さな女の子だから、という以前に、傷痕や青痣だらけの肌が気になって、僕は触れることすらためらっていた。
お風呂から上がると、部屋にはジェマさんの姿があった。さも実家のリビングにでもいるようにくつろいでいた。
と言っても、彼女の場合は正座がスタンダードだから、ほかの人が見たらくつろいでいるようには見えないだろう。付き合いの長い僕だからこそ分かるものがある。
ジェマさんは風呂上がりの僕とアスミを見て、にんまりと目を細め、
「あら、一緒にバスタイムですか。すっかり仲よくなられて」
わざとらしく声を弾ませている。
なんの真似ですかと追及しようと思ったが、それよりも僕は、卓袱台に置かれているノートパソコンが目についた。
僕の持ちものではない。ジェマさんの私物だろうか。
「ええ、私のラップトップです。連絡を取るために使用していました」
連絡って、誰に。
僕の疑問に、けれどジェマさんは答えてくれなかった。彼女はアスミに視線を向け、
「それで、首尾は」
「ジェマの言う通りだった」
「そう。じゃあ、拓海様を拘束して」
端的に命じ、その場に立ち上がるジェマさん。
あまりに普段通りの雰囲気だったために、僕は彼女の言葉に混じった非日常的要素を掴み損ねていた。
拘束して――という言葉を。
が、気づいた時にはもう遅かった。
僕の視界は一瞬のうちに急降下し、体はうつ伏せの状態で床の上に倒されていた。長時間クーラーの風のもとにあったフローリングの床は驚くほどひんやりしていて、風呂上がりの火照った体にはあまりに冷た過ぎた。背筋がぞくりとした。
いや、それは単純に温度の問題だけではないかもしれない。
僕は明確な恐怖を感じていた――ほとんど痛みを感じさせることなく僕の体を組み敷き、今まさに僕の背にまたがっている、アスミに対して。
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