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結論から言うと、なんとも不思議な状況になってしまった。
ひとまず僕らは、件のアイスクリーム店内へと入り、それぞれお好みのアイスと飲みものを注文して席に着いた。僕はチョコレート系のシングル、キャシー先生はあずきが入ったやつと抹茶のダブルを注文していた。分かりやすく日本っぽいのがお好きなようだった。店内はクーラーが効いていてとても涼しかったため、飲みものは僕も先生もホットコーヒーにした。
当然だが、アスミの分も僕が奢った。彼女はヴァニラ系ばかりをトリプルで頼み、今まさに僕の隣で「はむ、はむ」と一心不乱に食べ進めている。飲みものはアイスカフェオレだが、未だ口をつける気配は見受けられない。アイスが第一と言わんばかりだ。
「ねえ宇佐見君、訊きたいことが山ほどあるんだけどいいかしら?」
僕の前に座っているキャシー先生が訝しそうな声で言う。僕ではなくアスミの様子を眺めながら。
質問するのは構わないけど、早く食べないとアイスが溶けてしまうんじゃないだろうか。
「外の炎天下ならともかく、お店の中なら早々溶けないと思うわ」
先生の言い分は尤もだった。僕はそれもそうですね、とぎこちなく笑った。
「それで、この子……アスミちゃんは、宇佐見君とはどういう知り合いなの?」
僕は答えに窮した。
どう説明したものか。バイトのことは他言無用らしいし、ここはとにかく誤魔化すしかない。
そう、僕は以前、アメリカでホームステイをしたことがあって、アスミはその時にお世話になったお宅の子供で、わけあって夏休みの間だけ預かっている。という体でいこう。
「冗談でしょう? 宇佐見君がホームステイしていたなんて、そんな語学力があるとは思えないわ」
数秒で看破された。僕の英語力はそこまで酷いのか。
なにかほかの言い訳を、と考えていると、
「ホームステイは本当。拓海は、英語、下手だけど」
思わぬ援軍。なんとアスミが話を合わせてくれたのだ。
さっきから脇目も振らずにアイスを食べているくせに、まさかこんな風に空気を読んでくるなんて。意外と気が回る子なのだろうか。
「ワオ……宇佐見君、あなたって中々に謎の存在ね」
とはキャシー先生の言葉。NYメディアがマー君を謗る時のような評価だった。
困惑気味ではあるもののどうやら信じてもらえたみたいだ。幼い子の言葉には信憑性を上げる不思議な効能があるらしい。
それで、アスミはなにをしに来たのだろう。さっきはお腹減ったとか言っていたが、まさかまだお昼ご飯を食べていなくて、それで大学まで僕を捜しに来たら見当たらないから、市街地まで捜索に来たとかいうオチじゃないだろうな。
「お昼ご飯は、食べてない」
アスミはか細い声で答え、僕のチョコレートアイスをジッと見つめていた。
よく見ると、彼女のカップはもう空になっている。
「アスミちゃん、お昼まだだったの? それならアイスじゃなくて、もっとちゃんとしたご飯の方がよかったんじゃ……」
心配そうに言うキャシー先生。
僕は大丈夫ですよと答え、自分のカップをアスミの前に差し出す。アスミはなんの遠慮もなく僕のアイスも食べ始めた。
そんな様子を見て、キャシー先生は「ふふ」と微笑み、
「アスミちゃんも、アイスが好きなのね」と言って、抹茶アイスを口に運んでいた。
確かにアスミはアイスが好きみたいだけど、それがお昼ご飯というのはどうなのだろう。ジェマさんに知られたら色々と小言を言われそうだ。報告義務があるからバレることは確定的だけど。
というか、ジェマさんはなにも作ってくれなかったのだろうか。それを期待して意気揚々と先生とのデートに繰り出していたのに。
その辺りのことをアスミに訊いてみると、
「ジェマは、仕事に行った。拓海が出かけたすぐあとに」とのことだった。
そういえばジェマさんって、こっちに来てからは一体どこでなにをしているのだろう。アパートにはたまに顔を出してくれているし、まさかその度に実家から通っていることはあるまい。とするとどこかのホテルにでも宿泊しているのだろうか。
それと仕事ってなんだろう。そもそもジェマさんは、僕がこっちで一人暮らしを始めてからもずっと実家に住み着いている。奉仕する相手がいないのだから故郷に帰るなりすればいいのにと思ったが、ジェマさん曰く『そう気軽に帰れる故郷ではないのです』とのことだった。
実家に居残ることは父も了承しているらしい。まああの人もごくまれに帰ってくることもあるし、家を守ってくれる人がいてくれた方がいいと思ったのだろう。僕だってたまに帰った時に実家がほこりだらけだったら嫌だし、ジェマさんが管理してくれているなら安心するところではある。
だからこそ、ジェマさんがこっちに滞在してなにをやっているのかまったく想像がつかない。僕がアスミを預かっている件となにか関係があるのだろうか。
その辺の事情も訊いてみた僕だったが、
「さあ?」
アスミは首を傾げただけだった。
ちなみに、僕からもらったアイスもすでに平らげていた。こんなに食べて、お腹壊さなきゃいいけど。
「なんだか、不思議な光景ね。宇佐見君が外国人の女の子と、こんなに仲よく話しているなんて」
何気なそうに言うキャシー先生。彼女もすでに自分のアイスを食べ終えていた。
「それだけにミステリーね。どうして宇佐見君の英語があんなに酷いのか……」
まだ言いますか、それ。
「ごめんなさい。私、謎解きとか結構好きだから……それはそうと、私の自己紹介がまだだったわね。私はキャサリン・ガルシア。みんなからはキャシーって呼ばれてるわ」
それから先生は、僕との関係性についても説明していた。と言っても僕がときめくようなワードは一切なく、単に講師と学生という関係であるという紹介だった。なにも間違っていないし紛うことなき事実だが、所詮は教え子の一人としか思われていないのだなと思うと少しだけ寂しい気もした。
「それでねアスミちゃん。ちょっと私から質問してもいいかしら」
「なに?」と、アスミが先生に目を向ける。
「アスミちゃん、宇佐見君に用事があったのなら、どうしてすぐに声をかけてくれなかったの?」
その問いかけに、僕は違和感を持った。
アスミは市街地まで来て僕を捜していて、それでたまたま、あの路地まで来ていたとかではないのだろうか。
「それは違うわ、宇佐見君。私言ったでしょう? 尾行している人がいるって……」
――『大学を出た時くらいからずっと、私たちを尾行してきていた誰かよ』
アスミと遭遇する前、先生は確かにそんなことを言っていた。
けど、アスミが僕らを尾行していたかどうか、それも大学からずっとなんて、そんなことは先生がそう言っているだけに過ぎない。なにかの思い違いではないだろうか。
「いいえ。間違いなく大学の時から気配があって、それはこのお店に来るまで一度も途切れなかったわ。私ってそういう勘は鋭い方なのよ、上手く説明できないんだけど……そういう感覚って宇佐見君は分からない?」
そんなこと言われても。少なくとも僕はなにも感じ取れなかった。漫画じゃあるまいし、気配を察知できる能力なんて持っているわけがない。
そういえば昔、ジェマさんも似たようなことを言っていた気がする。彼女はかくれんぼにめっぽう強くて、僕がどこかに隠れてもすぐに見つけ出していた。ジェマさん曰く『拓海様の匂いで分かります』とかなんとか。
いや、気配と匂いじゃ全然違うか。ジェマさんは結構な抱きつき魔で、僕はよくその被害にあっていたから、先生の言う気配云々とはまた異なるベクトルの能力なのだろう。
話を戻すけど、今の先生の言い分は根拠に乏しい。きっぱり言い切られたから無駄に説得力があるような気もしたけど、改めて考えるとやはり、アスミが僕らのあとをつける理由なんて……。
「あと、ついてきてた。拓海たちの」
――しかし、あっさりと。
アスミはそう答えた。尾行していたことを認めた。
僕は、にわかには信じがたかった。
「どこからついてきてたの?」と先生が訊ねる。
「大学の、門の前から」アスミはすぐに答えた。
「じゃあ、そこから市街地まで、私たちのあとを追っていたのね」
「そう」
頷くアスミを見て、僕は困惑を隠せなかった。
だったらなぜ、アスミは。
「それじゃあアスミちゃん、最初の質問に戻るわ。どうしてすぐ、私たちに声をかけなかったの? 尾行するようなことをしたの?」
問い直すキャシー先生。
アスミは、今度ばかりは少しだけ考えるように俯き――。
そして、控えめに先生を指差した。
「あなたが、いたから」
その声からは、いかなる感情も省かれていた。
「私が……?」
ゆえに先生は、アスミの言葉が解釈できずに困惑した様子だった。
アスミのフラットさに慣れている僕は、恐らくこういう意味ではないかと補足を試みた。つまりアスミは、大学の前まで来て僕を見つけ、一度は声をかけようと思った。しかし僕は先生と歓談しながら歩いていた。そのせいで人見知りしたか、あるいは話の邪魔はよくないと気を遣ってしまった結果、なんとなくあとをつけるようなことになってしまったのではと。
僕の補足に、先生は少しだけ考え込むようなそぶりを見せたのち、
「……そういうことだったのね。そう、それなら仕方ないわよね」
と、最終的には納得してくれた。
「宇佐見君に会い来たのに、知らない女性が傍にいたら、声をかけにくいものよね。このくらいの歳の子なら特に」
まあ、アスミが人見知りするような玉かと考えてみると違和感もあるが、声をかけにくかった理由はほかにもあるだろう。それこそ本当に気を遣ったのかもしれないし。
それにしてもアスミ、昼食について深く考えていなかった僕にも落ち度はあるが、だからってわざわざ大学まで来なくても。電話でもしてくれればよかったのに。
「電話、持ってない」
アスミがそれとなく答える。
そういえばそうだったし、そもそも僕も番号を教えていないから電話のしようがなかったのか。
とは言っても、勝手に部屋を出てくるというのも……あれ? 戸締まりはどうしたのだろう。まさか無施錠のまま来ちゃった?
「合鍵、持ってる」
アスミがまたそれとなく答える。
電話は持っていなくてなぜうちの合鍵は持っているのか。いや、きっとジェマさんの仕業だろう。あの人なら一つや二つ隠し持っていそうなものだし、それをアスミに渡していたことは充分考えられる。
しかしよく一人で大学まで来たものだ。お腹が減っていたからとは言え、その行動力にはまったく感心させられるが、褒められた行為とは言いがたい。
ただでさえ今この界隈は物騒なのに、一人で街なかをうろつくなんて。悪い奴に誘拐でもされたらどうする気なのか。
「ふふ。宇佐見君、随分とアスミちゃんを心配しているのね」
先生がからかうように口を挟んでくる。
「とりあえず、夜の外出を控えれば大丈夫じゃないかしら。アスミちゃんはまだ子供だし、夜更かしすることだってないんでしょう?」
もちろんそうです――と返答したいところだが。
アスミに限って言うと、快く頷けない懸念事項が一つだけある。数日前に兆しを見せた夢遊病のことだ。
「夢遊病って、アスミちゃんが?」
少しだけ目を丸くする先生。
僕はそうですと頷き、数日前の夜中に起きたことをかいつまんで説明した。
もちろんまだ確定ではないし、仮にそうだったとしても室内をうろつくぐらいなら大した問題ではない。
心配なのは、外へ出てしまっている可能性があるということだけど、まだ確定ではないし、あまり大っぴらに話すことではないだろう。
しばらく僕が黙り込んでいると、先生が「どうかしたの?」と心配してくる。僕はなんでもないです、と答えて誤魔化した。
「多くの場合は、そう心配することでもないわ。アスミちゃんくらいの歳の子なら、割とよくあることだから」
そうなんですか、と僕が相槌を打つと、先生は「ええ」と物憂げにはにかみ、
「子供の頃、私も夢遊病の症状が出ていた時期があったの。私のは中々治らなくて何度かお医者様に診てもらったけど、そんなに酷くなければ放っておいても治るらしいわ。特に子供の間は」
うーむ。経験者がそう言うのであれば、あまり心配し過ぎてもよくないのだろうか。
というか軽くスルーしてしまったが、まさか先生まで夢遊病持ちだったとは驚きだ。なにが原因だったのだろう。
「原因はよく聞かされなかったけど、ただ、『子供の間は誰にだって起こりうるから安心して』って言われていたわ。きっとそういうものよ……宇佐見君だって、そうだったかもしれないでしょう?」
僕?
いや、そんな話は聞いた覚えがない。眠っている間のことだから自分としては確かめようもないけど。
「確かめようがないから言ってるのよ」
先生にしてはめずらしく、揚げ足を取るような言い回しだった。
けれどその声は、僕を責めているわけではなさそうだった。
「夢遊病って言っても症状が軽かったら、せいぜい自分の部屋の中を歩き回るくらいよ。そんなの、ほかの部屋の人は気づけないでしょう? 大きな物音でも立てない限り……だから夢遊病かどうかなんて、誰かと一緒に寝ている人か、部屋の外まで出て誰かに目撃されるくらいの症状の人でもないと、自分だけじゃ分からないものよ。そうじゃない?」
だいぶ極論のような気もするが、しかし上手い反論は見つからなかった。
確かに、寝ている間にちょっと動き回ってベッドに戻るとかだったら、もし発症していても誰にも気づかれない。寝相が少し酷い人みたいな感じか。
そういう風に考えると案外、誰だって一度くらいは経験している病気なのかもしれない。自分で気づいていないだけで。
「そうね。私たちは結局、自分の意識の中だけで生きていて、でも眠っている間はその意識を失う。それがなければなにも感じられないと分かっていながら、私たちはなんの疑いも持たずにほとんど毎日眠りに就く――それってなんだか、とてつもなく怖ろしいことのようにも思えない?」
怖ろしい? と僕は訊き返した。
「明日もまた、今日と同じように目覚められるか分からないのに、私たちは簡単に意識を手放すのよ。そういうことを、宇佐見君は不安に感じたことはない?」
穏やかに目を細めたまま訊ねてくる先生。僕は、どうでしょう、と苦笑を浮かべた。
先生の言う不安にはっきりと同調することはできなかった。けれど彼女が言わんとすることはなんとなく分かる気がした。
母が死んで間もない頃、僕は現在よりもうんと早く就寝していた。それは子供だったからという理由も当然あったかもしれないが、大して眠くない日でも早く眠りに就いていた。
きっと、すべてが夢であってほしいと願っていたからだろう。母が死んだことも、父が帰ってこないことも、家に独りぼっちでいることも。
もしも夢であるなら、早く寝て早く起きれば、いつか醒める日が来るかもしれないと。幼いなりの、必死の現実逃避だった。
先生の言う意識とは、現実と言い換えることもできるかもしれない。先生は意識を安易に手放すことが怖ろしいと言った。逆に当時の僕は、早く手放してしまいたいと思っていたのだろうか。もしも永遠に意識から離れ、永い夢の中で母と再会できていたとすれば、それは現実で言うところの死を迎えていたことになるのだろう。
永久に意識を手放すこと、すなわち永遠の眠りが死であるなら、僕らの毎日の睡眠、短い時間とは言え意識を手放していることは、常に小さな死を経験していると言っていいのかもしれない。
そしてその小さな死が、いつ本当の死に繋がるかは分からない。それが先生の言う不安の正体ではないだろうか。
「そうね、そうとも言えるかもしれない。だけど私が不安に思っていることは、死に繋がってしまうかどうかだけではないの。現実での意識を手放したことで始まる、もう一つの曖昧な現実についても言っているのよ」
やけに持って回った言い回しに思えた。僕は正直にハテナマークを浮かべた。
現実での意識を手放す、というのはつまり眠ることだから、それで始まることと言えば……夢?
「
先生は得意げに笑った。英語が不得意な僕だが、肯定されたことはなんとなく分かった。
だが納得はいかない。夢は現実とは対極にあるものだ。眠っている間に見た夢は、どれだけ現実に近いものだろうと現実にはならない。
「普通の夢ならそうね。だけど私たちがさっきまで話していたのは、普通の夢のことではなかったはずでしょう?」
――ああ、そうか。
普通の夢なら、自分の頭の中だけで完結する。どんな夢を見ようと、それは泡沫のように、現実にはなにも残さない。
しかし、僕らが先ほどまで話していた病――夢遊病なら、その限りではない。
「当人は夢の中にいながら、けれど現実の中を歩く。そういう矛盾も、私にはとても怖ろしいことのように思うの。眠っている間に自分がなにをしでかすか分からないなんて、恐怖以外のなにものでもないじゃない? 部屋の中を歩くくらいならいいけど、酷い夢遊病は、本当になにをしてしまうか分からないらしいから……」
先生の言葉で、僕は図書室で読んだ本の内容について思い出した。
夢遊病の症例。酷いケースでは家の外へ出て、なんらかの行動を起こしてしまうものがいくつかあった。
その中で最も深刻なことが、他人を殺めてしまう行為――いわゆる殺人。
もしも自分が重度の夢遊病で、知らぬ間に人殺しをしていたとすれば。それはもう、怖いなんてものではないだろう。
「殺人はちょっと、深刻に考え過ぎのような気もするけど……そうね、人によってはそういうことも、あるのかもしれないわね。なにをしでかすか分からないんだから、可能性はゼロじゃない」
独り言のように言って、先生はカップに残っていたホットコーヒーを啜った。返答に困った僕も、彼女を真似たようにカップに口をつけた。
ふとアスミに目を向けると、彼女もグラスを傾け、異様にちびちびとカフェオレを啜っていた。
同時に、その目線はずっと、目の前にいるキャシー先生に向いていた。
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