20
さりげなく押しつけられた雑用(教務課まで鍵の返却。遠いから結構だるい)を済ませたのち、僕は冠城教授の証言を信じて図書館へと赴いた。
館内をそれとなく隈なく歩き回った僕だったが、キャシー先生の姿は遂に見出せなかった。教授め、まさか僕を騙したのだろうか。今度会ったら本当にシャーペン投げつけてやる。
これ以上は図書館にいても仕方ないので帰ろうかと思ったが、医療系の本棚の傍を通った際、ふと睡眠に関する本が目に止まった。
中を開いて目次を見てみると、『睡眠時遊行症(夢遊病)』という項目を見つけた。示されていたノンブルに合わせてページを開き直すと、夢遊病に関する基本的な症状などが載っていた。
眠っているはずなのにベッドから起き出し、なにかしらの行動を取る障害。部屋の中をうろつくだけのこともあれば、着替えをしたりお風呂に入ったり、家を出て車の運転をすることもあるという。本人は眠っているはずなのに。
そう考えると、アスミは自分の意思ではなく、夢遊病のせいで外へ出た可能性もあることになる。チェーンロックの件も、アスミが無意識の中でかけ忘れたか、本人はかけようと試みたが失敗した場合もありうるだろうか。ドアのロックはつまみを回すだけだがチェーンロックはそうもいかない。どちらにしても、アスミが『記憶にない』と言う限り確かめようはないけれど。
読み進めていくと、有病率というものが載っていた。一般的には子供に多いらしく、尤も頻度が高いのは十二歳前後だという。それと子供のうちは、どちらかと言えば女児に生じやすいのだとか。
改めて調べてみると、アスミが夢遊病を罹患している可能性は高いように思えてきた。ジェマさんもなんの根拠もなしに言ったわけではなかったのか。
原因は断眠、鎮静薬の服用、睡眠サイクルの乱れ、ストレス……などと書かれているが、どれもピンとこないものばかりだった。上二つはまずないだろう。睡眠サイクルはよく分からない。僕が大学に出ている間、アスミがなにをしているのかを僕は知らないし、仮に昼寝ばかりしているとすれば、少しくらい睡眠サイクルとやらが乱れていてもおかしくはないだろう。ストレスについては……これもよく分からない。アスミは基本的に表情を変えないから、なんらかのストレスを抱えていたとしても僕に見分けることはできないと思う。
ページの後ろの方には、疾患者が経験した具体的な症例が記されていた。夜中に起き出してパンを食べていたとか、部屋の中で部活の練習を始めていたとか、寝たまま学校まで歩いてしまっていたとか……。
最後には、殺人を犯したケースまで記されていて、僕は度肝を抜かれた。
殺人――不意に、僕の頭に例の怪死事件のことがちらついた。
僕は本を閉じ、元の位置にそっと戻した。
いくらなんでも考え過ぎだろうか。ベッドから起きて、外へ出て、わざわざ人を殺しに行くなんて……。
第一、夢遊病患者に意識はないのだから。あの事件のように、不可解な証拠を残していくことなんてほぼ無理だろう。今の僕にできることはアスミを病院に連れて行って、夢遊病かそうでないかをはっきりさせることくらいだ。帰ったらジェマさんに相談してみよう。
図書館を出た頃にはもう昼の十二時を回っていた。今日はアパートにジェマさんがいるし、僕が昼飯を作りに戻る必要もないだろう。学食へ寄ってなにか食べてから帰ろう。
キャンパス内には食堂やカフェテリアなど、七つの食事スポットがある。
その中から僕が好きなチキン南蛮定食がある食堂へ向かうと、見覚えのある見目麗しい白人女性を見つけた。
間違いない、キャシー先生だ。どうやら昼食中で、うどんを食べているらしい。
食堂内はクーラーが効いているけれど、なにもこんな猛暑の日に眼鏡を曇らせるほど熱いうどんを食べてなくても……なんて余計なお世話はさて置き。
キャシー先生を見出せて嬉しくなった僕は、偶然を装ったふりをして彼女のいる席まで近づいた。
「あら? ハロォ宇佐見君。そんなにダッシュしてきて、どうしたの?」
普段と変わらない軽やかな笑みで挨拶してくれたキャシー先生。仲のいい弟を可愛がるようなとびきりチャーミング笑みだった。
僕はなぜか荒くなっていた息を整えつつ、どうも、偶然ですねと笑顔を向けた。
「偶然って、明らかに私めがけてダッシュしてきたように見えたけど……」
ちょっと躓いて、体勢を立て直すのに十メートルほどかかっただけです、と僕は言い訳した。
先生は「ふぅん?」と視線で撫でてくるように小首を傾げた。仕草と表情のギャップが男心をくすぐる。
今日は補習では話せなかったけど、思わぬチャンスが巡ってきたと言っていいのかもしれない。
僕はごく自然に、相席してもいいかを彼女に訊ねてみた。
先生は深く考える間もなく頷いてくれた。僕は素早くチキン南蛮定食を買ってきて、先生の向かいの席に座った。
「今日は確認テストだったわよね。補習の成果は出せたのかしら」
僕は大いに首肯。
とはいかなかった。補習には毎日きちんと出たが、残念ながら英語力が上がったようには実感できなかったのだ。
とは言え、とりあえず教授のOKはもらえたことを話すと、キャシー先生は「お疲れ様」と流暢に言った。
「補習、頑張って来ていたものね。慶士郎さんもそこを評価してくれたのよ」
もはや補足するまでもないと思うが、慶士郎さんとは冠城教授の下の名前である。
この二人がどんな関係なのか、様々な憶測が学生間で飛び交っているものの、明確な答えは誰一人知らない。
その辺りのことはうかがってもいいのだろうか。
「うーん、なんと言ったらいいのかしら。私が元々、慶士郎さんのお家で家庭教師をしていたことがあって、その縁で今もお付き合いしているって感じね」
お付き合い。
それはつまり男女の関係とかそういう……などと野暮な事情にまで立ち入ろうとすると、キャシー先生はどこか余裕のある笑みをこぼし、
「飛躍させ過ぎよ。そもそも慶士郎さんは結婚していたもの。言ったでしょう、家庭教師だって」
なるほど、冠城教授の子供さんの家庭教師だったわけか。
子供がいるのなら結婚しているに決まっている。なにか複雑な事情でもない限り。
それからしばらくは、互いに昼食を胃袋に収めつつたわいない雑談に興じた。
普段の講義からよく言葉を交わすことはあったが、大抵イングリッシュオンリーだったので、こうして日本語のまま日常的な会話をすることは新鮮だった。
「ふふ、講義中もこれくらい饒舌に話せるといいのにね。宇佐見君、文法を無視して単語だけで会話しようとしてくるから」
からかうような口調で言うキャシー先生。両脇にそっと指を立てられたようなくすぐったさを感じた。
自慢ではないが、僕は英語がとても苦手だ。
そんな僕でも頑張って、講義中でもキャシー先生と話がしたいから、知っている単語を繋げて必死に意思の伝達に努めているのである。
「嬉しいことを言ってくれるのね。でも私のためなんかじゃなくて、できれば宇佐見君自身のために勉強してほしいわ。こんな世の中だし、英語はきっとあなたの役に立つ日が来ると思うわ」
根拠希薄な理由ではあったが、彼女の笑みにはどうしてか納得させられるだけの説得力を秘めていた。あるいはただ、僕が見蕩れてしまっただけかもしれないけど。
これ以上の英語の話題は分が悪いと思い、僕は話頭を転じることにした。
冠城教授について、気になることがあったのだった。キャシー先生に訊けばなにか分かるかもしれない。
「慶士郎さんについて気になること?」
首を傾げる先生に、僕は教室でのできごとについて話してみた。
二週間前のことは先生も覚えているはずだ。補習の件で僕は大学に来て、その際に教授からおかしなことを言われた。ついでに忠告もされた。
そのことが偶然か否か、巷で起こっている怪死事件を連想させるというか、予期していたようにも聞こえて……。
「ああ……あの時のことね。私も覚えているけど、その事件のこととは関係ないと思うわ」
どうして、そう言い切れるのだろう。
僕が首を傾げると、先生は少しだけ困ったような顔になり、
「ちょっと説明が難しいんだけど……慶士郎さんって、時々そういうことがあるのよ。ある一つの事柄について話したあと、いきなり全然関係ない話題に移ったりとか」
冠城教授の、癖ということだろうか。
「慶士郎さんがと言うより、IQの高い人に多い傾向みたいよ。頭の回転が速いから自分の中だけで話を処理してしまうのでしょうね」
仮にそうだとしたら、あの時の教授はどんなことを考えていたというのか。
一応訊いてはみたが、教授は『ここで話すようなことではない』なんて言っていた。なにか後ろめたいことでもあったのだろうか。
「そういうわけじゃないわ……ただ、そうね。あの人はあまり自分のことを話したがらないから。特に、家族のことはね」
キャシー先生は少しだけもったいぶるように、水の入ったグラスに口をつけた。
僕は彼女が飲み終わるのを待った。決して続きを急かしたりはしなかった。
「実は、二週間前のあの日……正確にはその次の日だけど、娘さんの誕生日だったのよ。きっと慶士郎さん、そのことで頭がいっぱいで、いつもより少しだけぼんやりしていたのでしょうね」
だから、僕に対してあんな問いかけをしたと?
なんだか腑に落ちない。そもそも子供の誕生日だからって、それだけでぼんやりしてしまうような人にも思えないけど。
「そうね、ただ、あの時が最初の誕生日だったのよ……娘さんが亡くなって、最初の」
僕はハッと言葉を失った。
キャシー先生は寂しそうな笑みを浮かべ、続ける。
「去年の十二月にね、病気で亡くなられて……元々、あまり体の丈夫な子じゃなくて、小学校にもほとんど通えていなかったの。慶士郎さんは、そういうことを話すのが億劫だったのかもしれないわね。とても私的なことだから……」
僕はしばらく、なにも言うことができなかった。
不意に、二週間前の冠城教授の様子が脳裏をよぎった。教授はどこか上の空で、ずっと考え事をしているみたいだった。元々ちょっと変わった人だから不思議に思わなかったけど、亡くなった娘さんのことを考えていたのだろうか……そう思うと、言いようもない申し訳なさが僕の中で募った。
そういえば、キャシー先生は教授の家で家庭教師をしていたと言っていた。
もしかして、先生が教えていた子というのも。
「ええ、宇佐見君の想像通りよ。病気がちで学校に通えない娘さんのために、慶士郎さんは私をあてがったの。ホームスクーリングなんて言ったりしてね、アメリカでは割とポピュラーな形式なの。一応、小学校にも籍だけは置いていたんだけど……」
そんな話は余計かしらね、と先生は付け加えた。
「なぜ慶士郎さんが、あなたの知り合いに少女がいるかどうかを訊いたのか……その真意は私にも分からないけど、ただ、慶士郎さんが巷で起こっている事件を予期していたとか、そういうことはないと思うわ。むしろああいう年頃の女の子が亡くなっていることに、慶士郎さんは酷く心を痛める側の人だと思うから……」
僕は深々と頷いた。
僕だって別に、なにか教授を疑っていたわけではない。犯人かもしれないなんて一ミリも考えてやしない。ただ少し、事件を予言するような言葉にも思えたから、気になっただけだ。
さて、少女に関する質問が単なる偶然だったとしたら、その後の警告はどういうわけなのだろう。
最近、この辺りの夜は物騒だからとかどうとか。
「あれは大学からのお達しね。廃ビルの近くで物騒な子たちに絡まれた人がいたみたいだから注意しましょうって……掲示板にも貼られていたと思うけど、宇佐見君は見ていないの?」
やっぱりそのことか。掲示板では見ていないが、大学のSNSアカウントで似たような注意書きは目にした。
とすると結局、冠城教授の予言めいた警告はただの偶然だったのか。キャシー先生の話を鵜呑みにするならそういうことになる。
それにしても、どうして先生は、僕に冠城教授の秘密を教えてくれたのだろう。
教授自身が話したがらないようなことなら、普通は黙っていそうなものなのに。
「それは……そうね、慶士郎さんには、申し訳ないことをしたと思うわ。私の口から話すべきことではなかったかもしれない」
だけどね、と先生はめずらしく表情を硬くし、
「どうしても、我慢できなかったの。偶然とは言え、あんなおぞましい事件と紐付けられるなんて……だから知っておいてほしかったの。あの時の慶士郎さんがどういう心境だったのかを。そうしたら宇佐見君、考え直してくれるかなと思って」
ジッと、僕を見つめてくるキャシー先生。
彼女の透き通った青い瞳を、この時ばかりはまともに見ることができなかった。すみませんでした、と僕は頭を下げた。
「いいのよ、そんな……気にしないで。私だってべらべらと慶士郎さんこと話しちゃったし。このことはお互い、水に流しましょう。ね?」
先生が茶目っ気たっぷりに微笑む。
僕を気遣ってのことだろうが、そうと分かっていても笑みを向けられることは嬉しかった。キャシー先生の笑顔は無敵だなと改めて実感した。
だが、これだけでは僕の中に募った申し訳なさは消えない。
せめてなにか、先生に形あるお詫びがしたかったので、僕はデザートをおごりますと提案した。
「え、いいわよそんなの。ほんと、そんなことしてもらうほどのことでもないから」
案の定、二つ返事では受け入れてくれないキャシー先生。
しかし僕も引き下がらなかった。もはや謝罪が目的よりも、できるだけ長く先生と一緒にいる口実を作りたいだけな気もしたが、そんなことはおくびにも出さず提案を続けた。
すると、先生は「そこまで言うなら」と観念したように苦笑し、
「ここのカフェじゃなくて、ちょっと、付き合ってもらってもいいかしら」
――というわけで。
僕は本日限りの、キャシー先生の観光ガイドに就任する運びとなった。
ほどなく大学を出た僕らは、今日も変わらず炎天下を形成している太陽のもとを十五分ほど歩き、デパートや飲食店が集中する市街地を訪れた。さして都会でもないが、夏休みだけあって人通りはそこそこ多い。
欲を言えば、もっと辟易するくらい混雑していればと考えてしまう。
そうすれば自然に、はぐれそうだから手を繋ぎましょうか、とか提案できたのに。
「ワオ、今日は人がたくさんね。はぐれないように気をつけないと」
奇跡が起きた。
中途半端な人混みを見かねてか、キャシー先生の方から僕の手を取ってきたのだ。
こんな暑さなのに、先生の左手は汗一つかいていなかった。想像以上にすべすべしていて、でもちゃんと柔らかくもあって、心地のよい感触だった。緊張で僕の方が手汗を噴き出しそうだった。
ちょうどその頃、僕らが目指していたお店が目に入った。僕はせっかくのミラクルを十秒と保たずに手放し、あのお店ですよね、などと言って誤魔化した。
先生は振りほどかれた手など気にも留めず、
「あ、そうそう。前から来てみたかったのよ」と嬉しそうに微笑んだ。
先生が行きたがったお店は、誰でも知っているアイスクリームのチェーン店だった。
「何度か慶士郎さんを誘ってみたこともあったんだけど、甘いものは苦手だからって言われてね。でも、一人で来る気にもなれなくて」
と先生は話していたが、その気持ちは分からないでもなかった。店内は中高生が多いし、大人一人ではちょっと入りづらい雰囲気がある。僕もどんなアイスがあるのか多少の興味は持っていたが、入店したことは一度もない。
だが、今日はキャシー先生と二人だし、なにも臆することはない。
さっそく入りましょうか、と店の自動ドアまで近づこうとしたその時、
「――ちょっと待って」
突然、先生が声色を硬くした。
どうしたのだろう。先生は血相を変えて振り返り、早足で歩いていく。僕も急いであとを追った。
「そこの、お店とビルの間の路地、誰かいるわ」
誰か、とは?
「大学を出た時くらいからずっと、私たちを尾行してきていた誰かよ」
信じがたい言葉だった。先生の思い違いではないかと思った。
しかしそうでなかった。
その尾行者は、確かに存在していた。先生が向かった路地の陰に。
けれどそれは、悪漢や変質者の類いではなかった。
華奢な体躯、季節外れの黒いジャージ姿、束ねた金髪を隠すように被っているスポーツキャップ。
「…………」
路地の影に潜んでいたのは、アスミだった。
アスミは、怪訝な面持ちのキャシー先生を見つめたのち、視線を僕へと移し、
「拓海、お腹減った」
と、無感情な声で言った。
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