第3章 胡蝶の夢 ―Summer Daydream―

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 次の四字熟語を英語に訳しなさい。


 一期一会

 獅子奮迅

 四面楚歌

 侃々諤々

 烏兎匆々


 僕はシャーペンを投げつけたくなった。問題用紙の裏面に記載されていた最後の問題を目にして。

 こんなの誰が分かるんだ。ていうか烏兎匆々ってなんだ。日本語の意味すら分からない。

「はい、そこまで。回収する」

 冠城教授の無慈悲な宣告が室内に響く。

 僕はハッと時計を見上げた。時間は充分に残していたはずなのに……。

 そう心中で愚痴っている間に、僕の答案用紙はまもなく連れ去られていった。





 補習が始まってから二週間が経っていた。けれど夏休みはまだ終わっていない。大学の夏休みはとても長い。

 僕は無事、予定されていた補習のカリキュラムすべてに出席し、最後の確認テストこぎ着けていた。

 ちなみに、僕が補習で大学へ行っている件は、ジェマさんには内緒だった。

 しかしアスミがちくったりでもしたのか、ジェマさんは再び僕の部屋を訪れて、

「ほかならぬ英語で落第とは……私はとても悲しいです。克己様に顔向けできません」

 と嘆いていた。それは確認テストが行われる今日の朝のことだった。

 僕は必死に弁解した。決して落第したから補習ではないことを。あくまで後期やそれ以降を見越した予防線的措置なのだと。

「それでも、拓海様の英語の成績が悪いことには変わらないでしょう。せっかく大学へ通えるのですから、もう少し真面目に勉強していただかなくては困ります」

 彼女は自分のことのように頭を抱えてくれた。ジェマさんは優しい人なのだ。

 まあ誰にだって欠点はある。向き不向きがある以上それは仕方がないことだ。人は海辺の美しい貝殻をすべて拾うことはできない。

「他人の金言を言い訳に利用するのはおやめください」

 口元にチョップされた。歯茎が痛い。

「大体、拓海様は以前からなにかの分野に秀でていたことなどなかったではありませんか。高等学校までは知識の詰め込みでパスされてきたかもしれませんが、そんな誤魔化しは大学では通用しませんよ。勉強のやり方を改めなければ」

 唐突に、しかし必然的に始まった説教。

 こうなったら彼女は長い。大学の夏休みより長いかも分からない。

 僕は適当な具合に相槌を打ちながら、視線だけをアスミに向ける。

 アスミは少し前から魔法少女もののアニメにはまったらしく、今もテレビの前に座って「♪、♪」とOP曲を小さな声でハミングしている。

 相変わらず滅多なことでは表情を変えない子だけど、アニメ鑑賞中は頬が柔らかくなる瞬間が多くなるみたいだった。そういうのが分かってくると和むというか、安心できる。彼女も普通の子供のように、笑うことができるのだなと。

「拓海様、ちゃんと聴いていますか?」

 僕はハッと視線を戻した。

 ジェマさんは笑っていた。同時に、またチョップの手を構えていた。

 恐ろしくなって、僕は思わずアスミの方へ助けを求めた。

「よしよし?」

 アスミは僕の頭を撫でてくれた。なぜか疑問符付きで。

「あら拓海様、口ではなく頭部をご所望でしたか。ただ私とて主に仕える身分ですから、ご主人様の御頭みぐしを叩くことにためらいを覚えるのは当然ではあるのですが、しかしそうせがまれては致し方がありません。これも拓海様のため、心に鬼を住まわす想いで渾身の一撃を叩き込ませていただく所存でございます」

 むしろ先ほどよりも状況が悪化した気がした。

 アスミ、すました顔して実はジェマさんの回し者だったわけか。小癪な奴だ。

 いや冷静に考えれば、アスミを連れてきたのはほかならぬジェマさんだ。端から小癪もなにもない。

 などと冷静に自省した頃には、メイド渾身の一撃とやらが僕の頭に振り下ろされていた。マジで痛かった。たんこぶができたらどうしてくれると言うのか。

「そんなことより拓海様、今日は仕事の件で参ったのです」

 僕の訴えはそんなことで流された。僕は涙目のまま泣き寝入りするしかなかった。

「アスミとの生活はどうですか。特に変わったところはございませんか?」

 おかしな質問だと思った。

 アスミの様子については、最初に指定された報告書にまとめてEメールで送っている。それは当然ジェマさんに宛ててだが、彼女は報告書を見ているわけではないのだろうか。

「いえ、私も確認しておりますよ。しかし毎日の報告書は、アスミがなにを食したかと体調面だけでしょう? 週ごとの報告は身体測定のみですし」

 では、ジェマさんはどんなことが知りたいのだろう。

「私が訊きたいのは、二人での生活のことです。アスミのことではなく、拓海様ご自身のことでも構いませんよ」

 ジェマさんにそう補足され、僕はようやく合点がいった。しかしそういうことが知りたいのなら、報告書の様式に組み込んでおけばいいのにとも思った。

「いえ、これはクライアントが求めていることではなく、あくまで私的な質問ですから。特段仰りたいことがないのでしたら、無理にとは言いませんので」

 僕は両腕を組み、この二週間のことを振り返った。

 アスミについての印象は、初日に抱いた時からさほど変化はない。無口で風変わりで、どこか浮世離れした感じがある少女。それらが今更揺らぐようなことはなかった。

 それもそのはずだ。僕は積極的に彼女との距離を縮めようとか、そんな風には考えていなかった。

 教えなければいけないことがあれば教えたし、欲しいものがあれば買え与えることもした。だけど僕の方から、アスミが喜びそうなことをした試しはなかった。いや、実際には無意識にしていた可能性もあるが、見ての通りアスミはあまり表情を変えない。喜んでくれたのかどうか、推し量ることは難儀だった。

 思い返すと、なにか楽しいおもちゃを買ってあげたり、楽しい場所へ連れ出したりすることもなかった。僕も補習に行く必要があってなにかと忙しかったし、なによりアスミが、そういう類いの望みは口にしなかったからだ。彼女からの要望は大抵、食事のメニューだとかアイスが食べたいとかだった。

「それでも、要望を言うことはあったのですね?」

 ジェマさんは念を押すように訊いてきた。僕は不思議に感じつつも素直に頷いた。それから、アスミは僕の作った焼きチーズカレーを好いてくれたことや、カップに入ったアイスクリームをよく食べることを伝えた。

「なるほど……興味深い事実です。アスミが自分からなにかを望むことは、あまりないようでしたから」

 ないようだった、という語感からして、ジェマさんもアスミについて詳しいわけではないのだろうか。例のクライアントから聞いただけとか。

 そもそも、アスミはどこから来た子で、これまでどういう生活を送ってきた子なのだろう。その辺りは一緒に暮らしていてもまるで想像がつかない。

「拓海様。女の子は多少、謎に包まれている方が魅力的に映るものですから」

 ジェマさんは誤魔化すように言った。多少というか、ほとんどすべてが謎に包まれているけれど。いつになったらベールを脱いでくれるのだろう。

「とにもかくにも、アスミとの生活は良好のようでなによりです。その調子でもうしばらく、あの子の面倒を見ていただければ幸いです」

 ジェマさんは深々と頭を下げた。僕は苦笑しながら頭を掻いた。

 それからふと、アスミへ視線を向ける。彼女はまだテレビの画面に釘付けだった。ひょっとするとニュース番組でも見てやしないだろうかと思ったが、画面に映っているのは先ほどと同じ魔法少女もののアニメだった。

 ――ああ、そういえば。

 アスミについて、僕はジェマさんに報告しなければならないことがあった。

「はい、なんでしょうか」と、ジェマさんが訊き返してくる。

 実は三日前、奇妙なことがあった。真夜中、僕はトイレに行きたくなって目を覚ました時のことだ。

「あら、めずらしいですね。一度お眠りになったら朝まで……下手するとお昼までお休みされてしまうほど寝つきのいい拓海様にしては」

 まあ、確かにめずらしい。けれどそういう日もある。就寝前にアスミとアイスを食べたりしたからその影響かもしれない。

 ともかく、僕は真夜中に目を覚ました。それからトイレで用を済ませて、ベッドに戻った。

 その時、ようやく異変に気づいた――ベッドにアスミがいなかったのだ。

「目を覚ました時には、お気づきにならなかったのですか?」

 起きてすぐは寝ぼけていたから気にしなかったのだと思う。トイレに行ったあとは少しだけ頭が冴えたから、アスミがベッドにいないことに気づけたのだ。

 いや、考えてみると、あの子は部屋のどこにもいなかった。トイレは僕が使っていたのだから行けるはずがない。わざわざクローゼットの中に隠れるとも思えない。

 気が動転しかけていた頃、アスミはキッチンの方から姿を見せた。

 僕は酷く驚いて、彼女になにをしていたのか問い詰めた。

 だけどアスミは、なにも答えないままベッドに倒れて、そのまま眠っていた。

 僕も眠かったから無理に追及はしなかったけど、あれは結局どういうことだったのか、今でも分からない。アスミに聞いても、『記憶にない』としか言わないし……。

「…………」

 僕の言葉に対し、ジェマさんはしばらく黙ってなにかを考えていた。

 しばらくして彼女はアスミの方を向き、

「アスミ、拓海様の仰った件について、本当になにも覚えていないのですか?」と訊いた。

 それはどこか義務的な問いかけにも感じられた。

「記憶にない」

 やはりアスミは、そう答えただけだった。

 ジェマさんは「そう」と淡泊に言って、

「もしかするとアスミは、夢遊病の症状が出ているのかもしれませんね」

 夢遊病……睡眠中に起き上がって徘徊する病気だっただろうか。

 確かに、それならアスミの記憶にないことも合点がいく。

 だけど……。

「まだなにか、気になることが?」

 ジェマさんが不思議そうに訊ねてくる。僕は思わず、いやとかぶりを振った。そうしなければいけないような、夢遊病であると納得しなければならないような空気を感じ取ったから。

 しかし、疑念は深まるばかりだった。

 あの夜、アスミの気配は部屋のどこにもなかった。あの子は確実に消えていた。

 いくら夢遊病で、キッチンや玄関の辺りまで徘徊していたとしても、トイレまで行った僕が彼女に気づけなかったのはおかしい気がする。僕が寝ぼけていたことを差し引いたとしてもだ。

 とすると一つ、仮説が生まれる。

 ――あの時アスミは、部屋の外に出ていたのではないか。

 そう考えれば、僕が気づけなかったことも不思議ではない。

 事実、今朝僕が玄関のドアを確認した際、妙な点があった。

 僕は家の中から戸締まりをする時、鍵をかけると共に必ずチェーンロックまでしている。昨晩も記憶の限りでは、いつものように二つのロックをかけたはずだった。

 が、今朝見た時、チェーンロックはかかっていなかった。

 もっと言えば、チェーンロックだけがかかっていなかった。ドアロックの方はちゃんと鍵がかかっている状態だったのだ。

 もしこれが両方ともかかっていなければ、僕が鍵をかけ忘れただけと考えてもいいように思う。

 けれど片方だけ閉めてもう片方は閉めないということは、僕の習慣にはない。忘れる時は両方ともかけ忘れる。それが僕だ。

 つまりあのドアのチェーンロックは、僕以外の何者かによって外された可能性が高い。

 では一体誰に――それが可能な人物は、アスミ以外にいないと言っていいだろう。

 もしアスミが外へ出て、帰ってきた際にチェーンロックをかけ忘れたか、あるいはなんらかの意図があってかけなかったのであれば辻褄が合う。

 仮にアスミが夜中、本当に外へ出ていたとして、その目的がなんなのかは分からない。自分の意思で出たのか、ジェマさんの言う夢遊病による症状なのか。そもそも夢遊病とは外にまで出てしまうようなことがあるのだろうか。その点については僕もよく分からない。

 真の問題は危険な時間帯、真夜中に外へ出ていた可能性があるということだ。どうしたって例の事件が脳裏をよぎる。

 彼女が自分の意思で外出したのであれば理由を訊く必要があるし、夢遊病の症状ならばそれなりの処置を施すべきだろう。どちらにしても不安ではある。

 だが、僕が不安に感じていることは、もっと別の部分にもある。

 巷で起きている例の少女連続怪死事件――『セーラー服事件』は数日前、四人目の遺体が発見されていた。

 その日付は、アスミが夜な夜な起きていた日の、翌朝のできごと――。

「拓海様、いかがなさいましたか?」

 不意に、ジェマさんが僕の顔を覗き込んでくる。

 僕はまた、なんでもないと言ってかぶりを振った。それから大学へ行くための支度を始めていた。


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