16
ラルフの言葉に突き動かされてから、どれだけの時間が経過したかもう分からない。
私はひたすらに森の中を進んだ。
走って、駆けて。
視界の端で木々がどんどんと後ろに倒れていくように、どこまで続くか分からない暗闇の中を逃げた。
「止まれ! 撃つぞ!」という兵士の怒声を背後に連れながら――。
ラルフのもとから逃げる途中、私は川で水浴びをしていた少年兵に見つかった。木葉の陰や茂みに紛れながら必死に逃げたが、どうしても振り払うまでには至れなかった。少しずつ、少年兵の足音が近づいている。
私はいっそう息を荒くしながら、可能な限り足を速めた。
次第に、私の体は悲鳴を上げ始めた。
ついには太い木の根に足を引っかけ、その場に転倒してしまう。
すぐに起き上がって駆け出そうとしたが、体のすぐ近くを銃弾が掠め、私は身動きを封じられた。
「お前、どうやって逃げてきた。中尉は、どうした」
追いついた少年兵も息を弾ませていた。
銃口を介した質問、けれど私はなにも答えず少年兵を見つめた。
「答えろ。死にたいのか!」
更に声を荒げた彼に、私は手帳を胸に抱きながら、すすり泣くように問うた。
――どうして、争うの。
政府軍も反乱軍も、どっちも間違ってる。
こんなこと、誰も望んでいないのに。
「黙れ。俺たちは国のために戦う、誇り高き戦士だ。腰抜け政府軍共をやっつけてやるのさ」
違う。あなたたちは戦士なんかじゃない。
だってそうでしょう? 国のために、国の民を殺すなんて矛盾しているわ。
ただの人殺しよ。
とびきり野蛮な、人殺し。
やっつけてやるなんて、正当化するために刷り込まれた建前。
利用されているだけだって、どうして気づかないの。
「俺は政府軍に親を殺された。あいつらこそ人殺しだ」
あなたたちだって、私のパパとママを殺した。
なにが違うって言うの。
あなたの親を殺した政府軍と、私の親を殺したあなたたちと。
私には、分からない。
「うるせえ!」
少年兵は一喝し、自動小銃の引き金に指をかける。
「もういい。ぶっ殺してやる。あの世でパパとママに会える幸せを噛み締めろ」
体を竦ませた私は、祈るように涙塗れの視界を閉じた。
次の瞬間、一発の銃声が森の中に響く。
しかし私に痛みはなく、目蓋を開いた先では、少年兵の体が倒れているだけだった。
「――脅威の無力化を確認。例の少女は無事です」
状況を理解できないでいると、反乱軍とは明らかに違う身なりの、軍服をまとった兵士たちが森の奥から現れた。
そのうちの一人が地に伏した少年兵に近寄り、見慣れない機械に報告めいた言葉を吹き込んでいる。
一瞬、警戒心を取り戻した私だったが、彼らの言語が英語であることに気づき、私は訊ねた。
もしかして、ラルフの。
「やはりそのようだな」
メンバーの中で唯一、銃を構えていない男性が私の前に跪く。
「ラルフからの連絡は受けている。よく生きていてくれた」
渋みのある声と共に微笑んで、彼は私の頭をそっと撫でた。
その瞬間、堪えていた熱が頬を伝い始める。
全身が震えたが、それはこれまでの恐怖とは真逆の感情による震え、挙動に思えた。
「私の名はカツミ・ウサミ。ここからずっと遠い、東洋の国の出身だ」
簡単に自己紹介をする男性。
すべてが何気ない声音で形成されていたが、私にとっては、一生忘れられない自己紹介になるような気がしていた。
私はカツミたちに連れられ、森を抜けた先に停まっていた人員輸送用の車両まで向かった。
その間にラルフから預かった手帳を手渡し、その中身についてと、ラルフがまだ反乱軍のアジトに残っていることを話した。
早くしなければ彼の命が危ないことも。
「確かに、君を逃がすところを見られているとなると、あまり悠長に構えている暇はなさそうだ」
カツミはすぐに回りへ指示を与えていた。ほかのメンバーは静かに頷き、またアジトを目指し進んでいった。
「αチーム、βが作戦を開始。援護を頼む」
カツミは耳から伸びている黒い機器に向かって指示を出している。きっと遠い仲間と連絡を取り合うための、電話のようなものだろう。
指示を出し終えると、カツミは輸送車両のドアを開け、
「私が声をかけるまで車の中にいなさい。じきにすべて終わる」
私は考えることもなく頷き、車両の助手席側に乗った。足を畳んで、リスのように身を丸くして座った。
カツミはドアを閉めると、再び例の機器にぶつぶつと呟き始めていた。私は何度も瞬きをしたのち、車窓に広がる暗い空を見上げていた。
夜なのに、まったく眠いとは感じなかった。全身の傷痕が一斉に目を覚ましたみたく痛み始めて、不思議だった。それまでは痛みなんてほとんど感じていなかったのに。
本当は今すぐにでも、アジトに戻らなければいけないと考えていた。
ラルフが一人残ったことが気がかりで、痛みなんて気にしている場合ではないと思った。ただ、体の芯を燃やすような、下腹部の違和感には中々慣れなかった。
いくらかの時間が私を不安にさせた頃、運転席側のドアが開かれ、カツミが乗り込んでくる。
「α、βから制圧完了の報告が来た。これから向かうから、もう少しちゃんと座った方がいい」
言われるがまま姿勢を正すと、車は物凄いスピードで荒野を走り始める。
森を迂回しても数十分とかからずアジトの正面に到着し、私たちは車を降りた。
私が乗っていた車両のほかにもいくつかの車があり、中には装甲車もあった。
アジトの廃工場からはたくさんの炎と煙が立ちのぼり、陥落の様相を呈していた。何人かの兵士たちが担架で運び出されていて、中には反乱軍の少年兵や倉庫に閉じ込められていた少女たちも混じっていた。ほとんどが血まみれで重傷だったが、なんとか息はあるようだった。
そうして最後の担架がこちらへ近づいてきた時、私はハッと息を呑んで駆け寄った。
誰よりも多くの傷を負い、瀕死の状態で運ばれてきたのが――ほかならぬラルフだった。
横たわる彼にすがり、私は何度も彼の名を呼んだ。担架を運んでいる一人が「あとにしろ」と私を遠ざけようとしたが、それを制するようにラルフが片手を上げ、
「もう、いい……ここで、下ろしてくれ」
と、苦しそうな声を絞り出す。
運んでいた二人は戸惑ったが、なにかを諦めたように担架を置いた。
ラルフはふっと、幻想ように輪郭の淡い微笑を浮かべ、
「君が……生きていて、本当によかった」
私は呆れた。
こんな状態になっても他人の心配なんて。
こんなに、ぼろぼろなのに。呼吸だってまともにできていないのに。
「いいんだ……僕は元々、死ぬつもりで、この戦争に参加した……無意味な死にならなくて、よかった」
どうして。
死ぬつもりだったなんて、そんなこと言うの。
約束したのに。絶対に死なないって、生きて再会するって、そう言ってくれたのに。
私はちゃんと生き延びた。なのにあなたは死ぬって言うの?
あの約束は、嘘だったと言うの?
「再会、できたじゃないか。嘘なんかじゃないさ」
ラルフは薄らと笑って言った。私はぶんぶんとかぶりを振った。
「ああ、そうだな……こんなのは、詭弁だ。僕はもうじき死ぬ、初めから分かっていたことだ。君を逃がした時から……救われる可能性なんてなかった。だから、僕は嘘つきだ。最初から、破ると分かっていて、約束した……幻滅したかい?」
頷いてやりたかった。
あなたはとんだ嘘つきだって、そう言ってやりたかった。
だけど、私にはできなかった。ラルフは私のために嘘をついたのだ。
彼と別れることを恐れ、いつまでも立ち尽くしていた私を逃がすために。
叶えられない約束をしてでも、私に生き抜くための希望を与えようとした。
そんなラルフの優しさが、今だけは私から冷静さを奪い去った。私は嗚咽のような声で彼を責め続けた。
どうして担架を止めたの。治療を受ければまだ助かるかもしれないのに――。
「自分の体のことだ。分からないわけがない……それに、僕なんかより、救うべき命はたくさんある。輸血パックも点滴も、すべて有限だ。
それより、今は君と、話がしたい」
そこまで言って、ラルフは重たい咳を吐いた。
血が飛び散って、私の頬にまで飛んできたが、私は拭ったりしなかった。眉一つ動かさなかった。
ラルフは荒くなった息を鎮めることもできないまま、それでも言葉を持とうとしていた。
「幻滅してくれて、構わない……僕は、君が感じている以上に酷いことをした。だから、なにも悲しむ必要なんて、ないんだ」
嫌。
そんなの、嫌。
あなたがいなければ、私はずっと前に死んでいた。あの妊婦と一緒に殺されていた。
命を上回る罪なんて、命以外には決してない。
あなたが私を、あなたの手で殺しでもしない限り、私があなたへの恩を忘れるなんて絶対にない。
だから――生きて、ラルフ。
私はあなたに報いたい。望みがあるのなら叶えてあげたい。たったそれだけのことなのに……。
ラルフの手を握り、私は必死に叫んだ。
もう一度だけ、嘘でもいいから、生きるって言って。そう約束して。私を抱き締めて、ジュリエッタって、そう呼んで……。
「分かった……なら、これが僕の、最後の嘘だ」
彼の手のひらは信じられないほどひんやりしていて、握り返してくることもなかった。
「ジュリエッタ。僕は必ず、生きてみせる。この傷を治して、自分の力で立てるようになって、いつかきっと、もう一度君と……」
衰弱で揺れているラルフの瞳。
それでも、彼は閉じかけた目蓋の奥で私を見つめていた。
「生き延びて……君のような子供たちを、穏やかに過ごせる世界に……ねえ、ジュリエッタ、そこはきっと、どこよりも美しい世界だ。綺麗な森と、湖と、少しの小鳥のさえずりと……温かな日だまりがぽつぽつあって……いつか僕も、そこへ行けるかな……?」
ええ。きっと行けるわ。
その時は私もついていく。決して、あなたを一人にしないから。約束するわ。
だからラルフ、あなたも……。
「ああ、約束……君の嘘も、
それから彼は、一言も話さなくなった。
完全に目を閉じ、けれども微笑みは失わず、安堵したように眠っていた。
私はラルフを強く抱き締めた。
幼かった瞳はこの時、もう視界を曖昧にさせるだけの涙すら枯れ切っていて、代わりに頬を伝ったのは、鉄のにおいに満ちた彼の温もりだけだった。
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