15

 

 

 時間は、何度か折りたたまれてから切り取られた紙片のようで、記憶は、限りなく断片的に散らばっていた。

 体が感じうる現実感は少しずつ曖昧になって、確かに思い出せるのは、体の奥底に溜まった私以外の温もりの片割れと、それから、

「気絶したふりをするんだ。ぐったりして、目を閉じて」

 そう耳元で囁かれたラルフの言葉だけだった。

 視界が開けているかもおぼろげなまま目蓋を閉じると、彼は軽々と私の体を持ち上げて、

「気絶しちまったらしい。川にぶち込んで目を覚まさせてくる」

 どうやらこのまま、この場を去る算段みたいだった。

 地鳴りのような歓声を遠くに感じながら、私はラルフの歩数を数えていた。そうして段々と、ここではないどこかに乖離しかけていた意識がはっきりと空気を感じ取り始めて、彼が歩みを止めた頃には、私は自分の意思で彼の肩に腕を預けることができた。

 昼間に訪れた川の近くまで来ると、ラルフは私の体を下ろし、

「ジュリエッタ、これを着て」と、暗褐色の雨合羽を被せてくれた。

 その時に見えた彼の目は、もしかすると私以上に充血していたかもしれない。そう思ってしまうほど、今にも泣き崩れてしまいそうな脆さを感じた。

「確証があるわけじゃないが、もしも部隊が既に応援に向かっていれば、隊は必ず回り込んで裏を取る。だからジュリエッタ、君はこの森を進んで逃げるんだ。合流できたら、これを彼らに」

 小さな手帳を差し出し、彼は続ける。

「ほかのアジトの座標と、奴らが使っている合言葉を記している。奇襲に役立つようにね。民族語で書かれたものもあるから、君が訳して部隊に伝えてほしい」

 私は、手帳を受け取らなかった。彼の口ぶりに疑問を抱いたからだ。

 このまま一緒に逃げれば、あなたも部隊と合流できるかもしれないのに。

 どうして、ここに残る必要があるのか。

「理由はどうあれ、僕は君の純潔を踏み躙った。姦淫は神の戒めに背く行いだ。僕のような人間と一緒にいたら、君は神のご加護を得られないだろうから」

 そんなこと、ない。

 だってそうでしょう。私はどこも汚されてなんかいない。

 あなたを受け入れたのは、抱き締めたのは、私の意思がそうさせたことだから――。

 涙ながらに訴えたが、やはりラルフは頷いてくれなかった。

「罪悪感ばかりじゃない。僕にはまだ役目がある。若くして銃を持たされた子供たちを救い出さなければならない」

 ラルフは腰元のホルスターから拳銃を抜く。彼の眼差しには揺るぎない覚悟が宿っていて、暗に私の訴えを遠ざけたがっているようだった。

「部隊はきっと、アジト制圧のために見境なく殲滅を遂げる。武器と敵意を携帯していれば子供と言えど等しく脅威だ。無用な死を失くすために僕は残る。だから、すまない」

 ――謝ってほしくなんかなかった。

 一緒に来て。一人にしないで……。

 そんな気持ちは声になるより前に、彼の青い瞳に溶かされていく。

 どこまでも純粋な願いを宿した彼の目を、責めるだけの厚かましさを私は持ち得なかった。

 けれど頷くこともできなくて、私は黙ったまま立ち尽くした。

「……分かった。なら、約束しよう」

 ラルフはその場に跪き、私の手を取った。

 それから私を見上げて、かすかに微笑んだ。

「僕は絶対に死なない。必ず、生きて君と再会する。だからジュリエッタ、君も死なないでほしい。生き抜いてほしい。僕にとっての……いや、戦場にいるすべての兵士たちにとっての希望になってほしい。約束してくれるかい?」

 そうした問いかけに、私も少しだけ、笑ってしまいそうになった。

 二人だけの約束のはずなのに、ほかの兵士たちのことまで彼が言い始めたからだ。私みたいな子供には荷が重過ぎる期待に思えた。

 ラルフの手にぎゅっと力が込められた。私よりも大きくてごつごつしていて、ついさっきまで私を抱いていたからか、少しだけ熱っぽい気がした。

 私は彼との約束に頷き、手帳を受け取った。

「ありがとう」と、ラルフは安堵したように微笑み、私から手を離して立ち上がる。

 私は手帳を胸元に抱き寄せた。必ず、生き延びなければならない。そう強く思った。

 それから、彼の幸運を祈ろうとした、その時――。

 一発の銃声が辺りに響き、私の顔に生温かいなにかが飛び散った。

 鉄のような匂いが鼻孔をついて、すぐに血だと分かった。

「ぁがッ……!」

 気づくと、ラルフがその場に膝をついていた。左腕を押さえていて、彼が手にしていた拳銃も私の足元に落ちていた。

「――茶番は済んだかしら、裏切り者さんMr Traitor?」

 その声は、小高い崖の上から振り下ろされた。

 見上げた先では、アサルトライフルを構えたカタリナが私たちを見下ろしていた。

 

 

「まあ、裏切るもなにもないわよね。そもそもあなたは、よそ者の傭兵なんだから」

 吐き捨てるように言って笑うカタリナ。瞳孔が不自然に開かれていて、どこか狂気染みた笑みに感じられた。

「ラルフ、あなたがなにを企んでいるのかなんて興味ないけれど、ジュリエッタを逃がそうと言うのなら捨て置けないわ。そいつは、私の手で殺すって決めているんだから」

 銃口がはっきりと私に向けられる。

 私は、顔を流れる血を拭うこともせずにカタリナを見つめた。

 続けてラルフにも目を向けたが、彼は左腕を撃たれた痛みのせいか、顔をしかめて跼まったままだった。

「……そうよ、ジュリエッタ。私は、あなたのそういう顔が見たかったのよ」

 再び、カタリナの満足そうな声が木霊する。

「目の前の恐怖に立ち往生するような、そんな顔。今のあなたとなら楽しいお話ができそうだわ。ねえジュリエッタ、あなたもそう思わない?」

 そんな問いかけに対し、私は口を噤んでいることしかできなかった。

 今のカタリナは狂っている。昼間に会った時には感じなかった、彼女らしくない愉快さを露わにしている。

「まあ、なにを聞いたってもう無駄なことよね……どうせ、あなたはここで死ぬんだから。あなただってもう、希望もなく生きていくのは辛いだけでしょう? だからせめて、私の手で葬ってあげる」

 カタリナは愉快そうに微笑み、銃の引き金に指をかける。

 あれほど迎えを乞うていた死――それを果たしうる脅威を前にして、私ははっきりと恐怖していた。

 もう、死んだって構わないと思っていたはずなのに。

 どうして、今になって、私は――。

 手帳を抱いていた手にぎゅっと力を込め、私はすすり泣くように問うた。

 ――どうして、こんなことをするの。

 どうして、カタリナが銃を持たなければならないの。私に銃を向けなければならないの。

 どうして、誰かを殺さなければならないの。

「黙りなさい! ……なにも知らないくせに。戦うこともせず、ただ幸運なだけで生き抜いてきたくせに。あなたになにが分かるって言うのよ」

 少しだけ、カタリナは声を震わせて言った。

「殺さなければこちらが殺されるのよ? 誰も守ってくれやしない。あなたはそんなことも分からないの?」

 ――ええ、分からないわ。

 だってそんなこと、愚かな大人たちが始めた愚かな戦争のせいじゃない。

 それなのに、こんなのって、おかしいわ。

 あなたが私を、多くの罪のない人たちを殺すなんて、バカげてる。

「ッ……つくづくおめでたい子ね。あなたの綺麗事はもうたくさんだわ!」

 怒声を上げ、再び銃を構えるカタリナ。

 しかし撃つことはしなかった。彼女は私の足元に視線を下げると、新しい玩具でも見つけた子供のように、怖ろしいほど無邪気な笑みを浮かべた。

「あははっ、いいことを思いついたわジュリエッタ……その、足元に落ちている銃を拾いなさい」

 予想外の命令に、私はすぐに従うことができなかった。

 すかさずカタリナが「早くしなさい!」と急かしてきたため、私は手帳を左手に持ち替え、空いた右手で拳銃を拾い上げた。

 考えていたよりもずっと重くて、私の手は小刻みに震えた。

「ジュリエッタ、あなたに一度だけ、チャンスを与えてあげる。簡単なゲームよ、頭のいいあなたならすぐ理解できるわ」

 ゲーム。

 その言葉で、私は少年兵たちに殺された妊婦のことを思い出した。お腹の中にいる子供の性別を当てるゲーム、その犠牲となったあの妊婦――。

「その銃で、あなたがラルフを撃ち殺すの。そうすればジュリエッタ、あなたの逃走は見逃してあげる。約束するわ」

 その逆に、とカタリナは言葉を継ぎ、

「あなたがその銃で自害するなら、その傭兵を見逃してあげる。どう? シンプルでいいゲームでしょう?」

 カタリナの笑みは、あの妊婦を殺した少年兵たちと同じ類いのものだった。私は激しい怒りと共に彼女を見つめた。

「いい目つきね、ジュリエッタ。もちろん、私を狙うのも選択肢のうちよ。二人仲よく助かる唯一の方法でしょうしね……まあ、賢明な判断とも言いがたいけれど」

 牽制するように、カタリナがアサルトライフルの狙いを定め直す。彼女は、私からの発砲などまったく恐れていないようだった。

 徐々に、拳銃を持った左手が汗ばんでいく。いくつかの選択肢によって思考が支配されていく。

 ラルフを撃つなんてできない。だからと言って、カタリナを狙うこともできない。下手をすれば私もラルフも殺されてしまう。

 答えを出せないまま、時間だけが過ぎていく。

 そしてまた、昼間の妊婦のことが脳裏をよぎった――あの時は、私が決断できない間に殺されてしまった。

 きっと、今回だってそうなのだろう。答えなんて初めから決まっている。

「さあ、どうしたのジュリエッタ? まだ考える時間が必要? 本当はもう、答えなんてとっくに出ているのでしょう?」

 カタリナもすべて分かっていて、私にこんなゲームを要求してきている。

 私は目を瞑った。

 それからゆっくりと、自分の喉元に拳銃を突き立てる。

 カタリナの、息を弾ませたような笑い声がかすかに聞こえた。

 そうして、引き金に指をかけようとした時――、

「……ダメだ、ジュリエッタ。君は死んじゃいけない」

 ラルフの、荒い吐息混じりの声がした。

 それは静寂の水面に生じた波紋のように、緩やかに私の耳朶へと届いた。

「約束したじゃないか……必ず、生き延びると。君はそう言ったはずだ。あれは、嘘だったのかい?」

 ――私はハッと両目を見開き、ラルフを見た。

 彼は未だ跼まっていたが、顔を上げて私を見つめていた。瞳を痛みに歪ませながらも、確かな希望を湛えて私を見上げていた。

「僕との約束を反故にすると言うのなら、それでも構わない。君の、君自身の決断だ。僕がとやかく言えることじゃない」

 だが、とラルフは荒く息を継ぎ、

「死は選べるが、生は選べない。だからこそ価値がある……そのことを忘れないでほしい。僕が君に託そうとした希望を、その本当の意味を、もう一度だけ考えてほしい。君はこんなところで死ぬべきじゃない……そう、僕は思っている」

 ――希望。

 その言葉で、私は銃と共に握っていた手帳のことを思い出した。

 そうだ。私は彼と約束したのだ。

 この内戦を生き抜くと。

 そして、戦場にいるすべての兵士にとっての希望になることを。

 私は腕を下げ、地面に銃を落とした。

 ガチャンとした金属音が鳴ると、崖の上に立つカタリナが眉間に皺を寄せた。

「どういうつもり、ジュリエッタ?」

 その問いに、私は毅然と答えた――誰も撃たないことを。

 ラルフも、自分も、もちろんカタリナにも、銃を向けない。銃を持たないことを選ぶのだと。

 誰も殺さない未来を選ぶと、私はそう答えた。

「ッ……!」

 カタリナは強い舌打ちを響かせ、いっそう眼光を鋭くさせる。

「結局、あなたはいつもそう……善人ぶって、なにもかもが偽善めいていて。そんな生ぬるいことばかり言ってるから、あなたはここで死ぬのよ!」

 カタリナは一瞬だけ目を血走らせたが、また不自然なほど素早く薄い笑みを取り戻し、

「『死骸を抱いて歩くなら、手は冷たい方がいい』……英語がお得意なあなたなら意味は分かるでしょう?」

 それは、川のほとりでラルフが教えてくれた言葉と同じだった。

「冷徹でなければいけないのよ。あなたみたいに、綺麗事をのたまうだけじゃ生き残れないのよ……そのことを身に染みながら死ぬのね、甘ちゃんなMiss Naiveジュリエッタ」

 カタリナの顔から笑みが消える。激しい殺気が彼女の眼光から迸る。

 しかし、カタリナが引き金を引くよりも早く――アジトの方から、大きな爆発音が聞こえた。その衝撃の強さに私は総身を震わせる。カタリナもとっさにとアジトの方を振り返っていた。

 その刹那――私の足元で跪いていたラルフが銃を拾い、振り向きざまに崖の上へ向けて射撃する。

 その銃弾は見事にカタリナを捉え、彼女は崖下の草むらへと転げ落ちていった。

 あまりに一瞬の出来事で、私は声を上げる間もなかった。

 一つの大きな脅威だったカタリナが、私たちの前から消滅した事実について、私はどうしてか理解しがたく思えていた。私は酷く混乱し、彼女が落下していった草むらの方へ歩き出そうとまでした。

 が、その行動はラルフによって止められる。

 彼は私の前に立ち上がると、鬼気迫る瞳で「逃げろ!」と命じた。

「裏門付近のバリケードに仕掛けていたC4を爆破させた。どんちゃん騒ぎしていた兵士たちにも気づかれただろう。だからジュリエッタ、早くここから逃げるんだ!」

 私は、快く頷けなかった。

 ラルフは被弾している。今だって彼の左腕からは血が流れていて、止まる気配がない。あなたも一緒に逃げるべきだと、私は訴えた。

 が、ラルフも頷かなかった。

「いいから行くんだ、ジュリエッタ! もう時間がない……早く行け! ジュリエッタ!」

 顔をしかめ、いっそう声音を大きくするラルフ。

 同じ頃、アジトの方から何人かの声や足音が迫ってきているように聞こえた。崖下の私たちに気づいているかは分からないが、時間の問題のようにも思えた。

 私は再び、ラルフの目を見つめた。彼も私の目を見つめていた。


『――分かった。なら、約束しよう』


 ふと、彼と交わした約束のことを思い出した。


『僕は絶対に死なない。必ず、生きて君と再会する』


 ――ええ、信じるわ。

 私は踵を返し、森の奥へと走り出した。

 崖上から兵士たちの胴間声が聞こえたのは、走り始めてまだ間もない頃だった。

 

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