14
再び囚われの身としてアジトに戻ると、先ほどの静寂を余さず喰らい尽くしたかのような騒音が響いていた。音の正体は、ラジオから大音量で流れている音楽と、それに合わせて歌っている兵士たちの奇声だった。
耳を塞ぎたかった。しかし手錠をかけられていたためにできなかった。私はラルフの背後に隠れるようにして歩いた。
「おい、傭兵」
ふと、汚いしゃがれ声がラルフを呼び止める。
群青の鉄柱に腰かけていたドレッドヘアの兵士が、服に零してもお構いなしといった具合に酒の瓶を傾けていた。
「新入りか? 見ねえ女だ」兵士が私を指差す。
「上玉だろう。まだガキだが」
ラルフは飄々と答えた。兵士の不埒な笑みを真似るみたいに。
「まあ、夜の楽しみが一つ増えたぐれえかな」
含みのある嘲笑を見せ、兵士は手にしていた瓶を隣の柱に投げつけた。
「それはそうと、なんでその上玉を連れ歩いてんだ。俺らがいねえ間に味見でもしてたんじゃねえだろうな」
ガラスの砕ける音、わずかに怒気を孕んだ兵士の声。
そのどれにも臆することなく、ラルフはやはりあっけらかんとした態度を作り、
「まさか。ラーマ油の運び場を教えてやっていただけだ」と軽やかに笑った。
ラルフの誤魔化しは、実際に川原で聞かされた話の一つでもあった。ここに捕らえられた少女は兵士の妻となり、家事に相当する働きを迫られると聞いた。
妻となる儀式は捕らえられた夜に催されるらしいが、それらについて私が心配することはなにもない、と彼は言っていた。
今夜にはもう、このアジトも吹き飛んでいるはずだからと。
「ふん、相変わらず傭兵様はクールなこった。面白くねえ」
身の入っていない罵声のあと、兵士はふと通りかかった少年兵の腕を掴んで抱き寄せ、唇を奪った。
それはあまりに突飛な行いだったが、よく見ればその少年兵は、全身に弾帯を巻きつけた小柄な兵士は、少年ではなく少女だった。
私と同じ年頃の少女――いや、もっと正確に言うならば。
私と同じ学校で学んでいた、白人の女の子だった。
兵士との長いキスを終えると、彼女はバンダナの隙間から流れる艶やかなブロンドの髪を揺らし、切れ長の凛々しい瞳を私に向けた。
「ジュリエッタ……」
彼女の声は、酷く冷めたもののように感じられた。青い目は槍先のように鋭く私を捉え、今にもこちらの喉元を貫きそうな、小柄な体には似つかわしくない凄みさえ漂わせていた。
身と心臓を震わせながら私も、カタリナ、と彼女の名を呼んだ。
彼女――
何度かみんなと遊ぼうと誘ったこともあったが、彼女はいつも突き放すような態度を取ったり、機嫌を悪くしたり、両親の都合でこの国へ来てしまったことをヒステリックな具合に八つ当たりしてくるような、気難しい女の子だった。
だからこそ、私は目の前に広がる光景を認めるのに時間を要した。
私たちを嫌悪していた彼女が、全身に銃弾をまとい、銃口から剣を生やしたアサルトライフルを細腕で抱え、黒人の兵士とキスを交わしている。
一瞬にして流れ込んできた現実が、眼球の裏で熱く火花を打つようだった。
どうして、カタリナが……。
「あなたこそ、もうとっくに死んだと思っていたのに」
不自然に赤く血走った瞳をしながらも、カタリナは狂いなく銃剣を私の喉元に突き立ててくる。
大胆かつ精微な動きに、私は恐怖よりもまず彼女の経緯を悲しんだ。あるいはそれは、自分自身を憐れむことと同義だったのかもしれない。
きっと彼女も、数多の死と向き合ってきたのだ。感覚的に私はそう理解した。
「士官の所有物に剣を向けるか」
こちらに向いていた刃をラルフが制する。
「なんの因縁があるかは知らないが、軽率な行動は控えてもらおうか、カタリナ上等兵」
「そいつは違うな」
ドレッドヘアの兵士が傍らでほくそ笑む。
「上等兵じゃねえ、カタリナ准軍曹だ。この女は今日、政府軍を軽く五、六人は殺って特進したのさ。昨日の訓練でも一番手際よく殺せていたしな」
ごく自然と殺したというワードが出ても、私は既に驚けなくなっていた。
今のカタリナはもう、私のよく知る白人の同級生ではない。
返り血を浴びることが勲章の、一人の兵士。
殺しをためらう兵士などいないのだから。
「ねえジュリエッタ。訓練って、なにするか想像できる?」
突きつけていた銃剣を下げる代わりか、カタリナは私の顔を覗き込むように近寄ってくる。
「あてがわれた捕虜をいかに速く殺せるか競うのよ。切っ先で喉を貫いて、
私の体でシミュレーションするように彼女は説明する。私はなんの反応も返せなかった。
見かねたカタリナは、それまでの妖しい笑みから一転して不機嫌になり、
「やっぱり私、あなたのことが嫌い。いつもそうやって、偽善に満ちた目ばかりして!」
ほとんど距離を取らないまま器用に右足をたたみ、私の体を蹴り飛ばした。
私は地面に叩きつけられ、空っぽだった胃の底から痛みが湧き上がった。嗚咽混じりの咳が砂埃を立ち上がらせた。
「くくっ、あまり壊し過ぎるなよ。使いものにならなくなる……」
ドレッドヘアの兵士の、冷笑気味な忠告がかすかに聞こえた。
カタリナは追撃してくることはせず、わざとらしく不満げに鼻を鳴らし、
「ジュリエッタ、あなたは優しい子だったわ。でもね、だから死ぬのよ。それがこの世界の真実だもの。精々そうやって、地べたを這いつくばって、有意義なおもちゃにされるのを待つのね」
私は、なにも言い返せなかった。
うずくまったまま、悠々と去っていく彼女を見送って、それから助けを乞うようにラルフを見上げた。
彼はどこか申し訳なさそうに顔を背けていた。
再び倉庫に幽閉された時、手足は拘束されなかった。逃走の意図がない者には不必要と判断されたのだろうか。どちらにしても今の私が逃げ出すことはできないし、無理をする理由もなかった。
先ほどに比べ、中は閑散としていた。
私以外にいたのはほかに一人――例の、下腹部が奇妙に膨らんだ女の子が横たわっているだけだった。
よく見れば彼女の手足にも、行動を制限するものは見当たらなかった。きっと私とは違う理由で、ここからの脱出を諦めているのだと思った。
また話しかけられるのが嫌で、初めのうちは離れた場所に座っていた。
けれどすぐ、異変に気づいた。女の子は静かに、声を押し殺すように泣いていた。
彼女の傍まで近寄って、私は声をかけた。月並みの心配を向け、女の子の体を揺すったが、その手は強く振り払われた。
途端、弱々しかった嗚咽が激しさを増し、ついに彼女は声を上げて泣き始めた。耳を塞いでうずくまり、ここにはいない誰かに怯えるように体を震わせていた。
私はなにもしてあげられなかった。彼女を見えない恐怖から救う手立てはなかった。
ただ彼女が泣き止むまで、傍にいてあげようと思った。
するとたまに、女の子は私の手を曖昧に握って、
「ごめんね、ごめんね……」
と何度も繰り返して、最後には決まって、男の子の名前を添えた。
きっと大切な人の名前なのだと思った。私は黙ったまま彼女の手を握り返して、彼女の安堵を誘った。次第に彼女は深い眠りへと沈んでいった。
静寂を取り戻した倉庫の中で、私はカタリナの言葉を思い返した。
優しいから死ぬ、それがこの世界の真実――。
この戦火の中、誰かを殺さずして生き延びる術はない。カタリナの言葉を解釈し、それに対して理解は及んでも、信じたくはなかった。
優しいことが足枷だと言うなら、誰がこの女の子をあやしてあげられるだろう。泣き喚く彼女の手を包んであげられるだろう。
灯火のような温もりを握ったまま、私は希望の執行を待った。
うんと長い時間が経った頃、倉庫の扉が開いた。こぢんまりと燃えるトーチを手にした、ラルフが姿を見せた。外はもう暗いのだろう、私は疲弊気味に微笑んで彼と目を合わせる。
けれど、炎で照らされたラルフの顔色は芳しくなかった。
私の腕を掴んで引き上げると、どこか悔しそうな声で「来てくれ」と呟き、
「予定より部隊が遅れている。もう少しだけ辛抱してくれ」
私は快く頷けなかった。
しかし選択の余地もなく、ラルフに連れられて倉庫をあとにした。何時間も触れていたはずの女の子の温もりも、外気の温度に触れるともう覚えていられなかった。
中庭では、この世の終わりみたく盛大なボンファイヤーが焚かれていて、大勢の兵士たちが気勢を上げていた。
「まずは右からだ。妻にしたい奴、貢ぎものと体を持ってこい」
集いの中心にいる赤帽の兵士が煽り立てる。
その兵士の足元には、新たに捕らえられたらしい二人の黒人の少女がへたり込んでいた。
片方は私よりも年上の子で、もう片方は私よりも年下に見えた。顔立ちが似ているから、きっと姉妹だ。
別の兵士が少女らの前に姿を見せる。昼間に見たドレッドヘアの男だった。
男が幼い方の少女に金色の鎖をかけると、取り囲んでいた兵士たちが歓声を上げる。それから少女はシャツを引き裂かれた。膨らみかけの胸と小さな乳首が露わになって、周囲がまたどっと色めき立つ。同時に、姉の少女が悲鳴を上げて男にすがりついたが、赤帽の兵士に蹴り飛ばされていた。
妹の少女も甲高い声を響かせて抵抗していた。けれどもすぐにドレッドヘアの男が少女のスカートを引きずり上げ、少女の小さな体躯にのしかかる。
ほんの数分、少女も蹴るなり引っ掻くなり抗おうとしたが、間もなく短いサイレンのような叫喚が立ち上ったのち、ついに声すら消え失せて、あとはもう、下半身を晒した男が一方的に腰を振っているだけだった。
一方、姉もその場にうずくまり、傍らで妹と男の行為を呆然と見つめていた。頬には大粒の雫が流れていて、近くで燃え盛る炎のせいか、血の涙に見えるほど赤く煌めいていた。
「次はこいつだ。妻にしたい奴、貢ぎものと体を持ってこい」
再び赤帽の兵士が叫んだが、今度は誰も反応しなかった。
しかしそれは、救いではなかった。
「誰もいねえか。連れていけ」
兵士の命令で数人の少年兵たちが前に出て、少女の体を運んでいった。
少女は最後まで妹の名を叫んでいた。だが返事はなかった。
「次はそいつだ。ラルフ、出せ」
ぎろりと視線を向けてきた赤帽の言葉通り、ラルフは私の身を火柱の前に突き出す。
「妻にしたい奴、貢ぎものと体を持ってこい」
私は激しく抵抗した。
妻になんてなりたくない。声を振り絞って訴えた。
「なぜだ。兵士の妻になれば守ってもらえる。敵からも、他の男のレイプからも。住む場所も、飢え死ぬ心配もなくなる」
赤帽の兵士は心底、不思議そうに首を傾げた。赤く充血した瞳が私の体を凍りつかせた。
「てめえも見ただろう。選ばれなかった女は、さっきの奴みたいに倉庫へ逆戻り、奴隷扱いだ。いつ死ぬかも分からねえ、誰の子を孕むかも知らねえ。そんな地獄に比べりゃあ旦那のいる生活は、戦争の中じゃ最も安全な楽園の一つだ」
楽園――耳を疑った。
これ以上の地獄なんかあるものか。私は懸命にかぶりを振って現実を拒んだ。
彼らは聞く耳を持たなかった。何人かの兵士たちが私を妻にしたいと近づいてくる。みんな下品な笑みを浮かべていて、ぞっとするほど冷たい眼差しをしていた。
嫌だ――イヤだ。
死よりもおぞましい未来を覚悟した、その時だった。
「待て!」
そう声を上げたのは、兵士らの間に割って入ってきたラルフだった。
「その女は俺が拾ってきた女だ。貴様らの慣わしで言えば、最初の選択権は俺にあるんだろう?」
「ほう? 滅多なことを言うじゃないか傭兵。あんたはいつもその権利を放棄していたはずだが?」
赤帽の皮肉めいた反論に、ラルフは「気が変わったんだ」と強気に返答し、
「そいつは俺のお気に入りだ。たとえば親の敵をほかの奴らに殺られたら、誰だって気が滅入るだろう。そういう気分だ」
「……そこまで言うなら、まあいいだろう。あんたに譲ってやってもいい」
だが、と赤帽の兵士は声を荒げ、
「貢ぎものはあるのか? 村を襲ってもピアス一つ奪わないあんたに」
「心配には及ばない」
ラルフは胸ポケットから銀色のロケットペンダントを取り出し、私の首にかけた。
「これでこいつは、俺のものだ」
その瞬間、周囲の兵士たちがお決まりのように湧き上がる。
それを遮るように赤帽の兵士が「まだだ、まだだ」と叫び散らして黙らせ、
「ルールに従うってんなら傭兵、分かってんだろうな。あんたがなにをするべきか」
「……ああ」
重苦しい声で頷くと、ラルフはくずおれていた私を押し倒し、服を剥ぎ取る。
裸を晒された私は、それから悲鳴を上げる間もなく口を塞がれた――彼の唇によって。
一瞬の出来事だった。唇を離すと、ラルフは私の体にのしかかって胸元をまさぐり、同時に耳元で小さく囁く。
「なるべく抵抗して。歯を食いしばるんだ」
その声は震えていたが、指示は冷静だった。
私は言われた通り、抗おうと身を振った。なぜこんな演技をしなければいけないのか分からなかった。しかしこの時は、彼の言葉を信じる以外になかった。
やがてラルフの、やけに熱い手荒なものが太ももの間にぶつかって、刹那、ぐいいと突き上げられて、私の体が二つに裂かれた。
目の前が眩んで、私のためだけの暗闇を取り寄せて、視界が現実から離れかけて――。
わずかな意識にすがりつくように彼の熱い体を求めた。指の骨が折れるそうになるくらい抱き締めた。
兵士たちの喚き声も、ぱちぱちと鳴る火花の声も消えて、ラルフの荒い息遣いだけが聞こえてくる。
しばらくして、聞き覚えのある音が世界に混じり始めた。それは泣き声だった。誰かがさめざめと泣いていた。声を喉の奥に押し詰めたような、嗚咽のような声だった。
それが誰の泣き声なのか、私だけが知らずにいた。
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