13
工場跡のような建物に連行され、私は大きな倉庫の中に投げ飛ばされた。手足を枷で拘束され、身動きが取れなくなった。
扉が閉じられたあと、体をよじらせて壁際まで移動したが、逃げ出せる公算はなかった。そのうち、行動を起こす気力もなくなって、感じられる時間は、倉庫内を漂う陰惨な空気によって、少しずつ緩慢になっていった。
暗闇に目が慣れ始めた頃、倉庫の中に自分以外の人間がいることに気づいた。
みんな、私と同い年くらいの女の子ばかりだった。誰一人まともに目蓋を開いておらず、何人かは虚ろな眼差しで私を眺めていた。あるいは、魂でも抜かれたようにぐったりと倒れていた。
服も、ほとんどの子がぼろぼろで、なにもまとっていない子もいた。そういう子は代わりに、遠目でも分かるほど体中、青い痣や赤い擦り傷の痕で身を染めていた。
「どこから来たの?」
灰色の静寂を破ったのは、私の近くでうずくまっている女の子だった。衣服の大部分が引き裂かれていて、全身のほとんどを肌蹴させている。
なにより奇妙だったのは、ほっそりとした体と幼い顔にはおよそ不釣り合いなほど膨らんだ下腹部と、その部分を大事そうに擦りながら微笑む空虚な瞳だった。
私が自分の村の名前を答えると、女の子は酷くどうでもよさそうに「そう」と返事をして、
「ここはとてもいいところよ。きっとあなたの村よりも。とても優しくしてくれるし、みんな平等だから」
不気味なほど穏やかな声だった。私には信じられなかった。奴らは私の両親を、村のみんなを殺したのだから。
彼女の全身を苛む傷だって、奴らからの仕打ちによって生み出されたはずだ。
「ううん。これは、あたしが悪かったの」
彼女は小さくかぶりを振った。床に頬をこすりつけるように。
「初めから、受け入れていればよかったの……だから、私のせいなの」
浮かべられた微笑みからはやはり、人間らしい温もりは感じ取れなかった。私は彼女の声に耳を貸さなくなった。
やがていくらかの時間が経過した頃、不意に、扉の外から物音がして、倉庫内に一筋の光が重たい音を伴って広がった。
中に入ってきたのはラルフ中尉だった。彼は私の手足に取り付けられた枷を取り外し、
「来なさい」
と耳打ちして、私を立ち上がらせる。
その命令もやはり英語だった。親が子を導くような穏やかさを感じた。
ラルフ中尉のあとをついていく。工場の敷地内に人影はなかった。
代わりに、横たわる酒の瓶や弾薬、テーブルに散らばった娯楽物なんかを見かけた。どうやらここは反乱軍の根城らしかった。
彼以外の兵士が見当たらないのは気がかりだった。けれど訊ねるわけにはいかなかった。私はまだこの上官に対する警戒を解いていなかった。
「今は、ほとんどの兵士が出ているんだ」
私はどきりとした。彼は私の心中を見透かしたように、振り返ることもなく答えていた。
「残った数人の少年兵と僕で、この砦代わりの廃工場を守っている。ようは留守番だ」
なぜ、そんなことまで教えてくれるのか。
私の問いに、彼は「この先に川がある。そこで話そう」と答え、工場奥の森に繋がる深くはない崖を飛び降りる。
この瞬間、私は一時的に解放された。
今、きびすを返して走れば、逃げることもできたかもしれない。
けれど、私はそうしなかった。
残っている少年兵たちに見つかるリスクや、ほかの兵士らの帰還に遭遇する可能性を考えたわけではない。
「大丈夫だ。安心して下りておいで」
崖の下で、私をエスコートするために腕を伸ばしている彼を目にして。
物騒な格好には似合わない紳士的な振る舞いを見て、少しだけ信じてみたくなったから。
彼が言った――戦争を終わらせてみせるという言葉を。
私たちは小川のほとりで並んで座った。
彼は内ポケットから取り出した煙草に火を点け、一口喫んで、どこか安心したように煙を吐いた。
「ここでは
私は頷いた。それから、思い出したように自分の名前を答えた。
彼は「へえ」と感心したように相槌を打ち、
「ジュリエッタか。イタリア車と、ベートーヴェンを思い出すな」
私は思わず訊き返した。
「いや、知り合いに変わった人がいてな。アルファロメオに乗って、ベートーヴェンの月光をよく聴いていた……なんでもあのピアノソナタは、ベートーヴェンが恋をしたジュリエッタという女性に贈った曲らしくて、そういう話をつい何ヶ月か前に聞いたばかりだったんだ」
言い訳のようなラルフの言葉に、私は父がよく弾いてくれていたメロディーを思い出した。
同時に、瞳の奥に生まれた熱をぎゅっと堪えた。
「率直に言おう、ジュリエッタ。僕は君に、この内戦を生き抜いてほしいと考えている」
改めて語調を強めた彼の瞳は、静謐で、確かな実直さを宿していた。
「今、この国では二つの勢力が争っている。一つは政府軍、もう一つは反乱軍だ。反乱軍はこの国の重要資源である貴重鉱石の採掘所を制圧し、隣国を介して鉱石を密輸することで軍費を調達している。採掘所の人手や兵士をまかなうために働ける男や少年少女をさらって、従わない者は殺すか、少なくとも両腕を切り落としている。そうすれば、政府に投票できなくなるとでも考えているのだろう。ふざけた話だ」
燻らせている紫煙に、彼は重い溜め息を吐き混ぜる。
私は改めて彼の立場について問い直した。
つまりあなたは、政府軍側の人間、いわゆる
「いや、僕は政府軍の人間じゃない。そもそも政府軍の内情も、反乱軍とさほど大差がない。村から子供たちをさらって兵士にしたり、健康的な女をとらえて奴隷のように使ったりしている。そうしたどんな行為も、彼らは反乱軍を根絶やしにするために正当化しているが、僕から言わせれば正義とはほど遠い――だからもしも、この不毛で醜い争いに終止符を打てるのは、政府軍でも反乱軍でもない、第三の勢力だと思っている」
第三?
私が訊き返すと、ラルフは凛々しく頷いた。
「僕はこの内戦を終わらせるために結成された部隊に所属している。反乱軍は少年兵を増員することで兵力を得たが、政府軍とは違って兵士たちを――特に、少年兵たちを統率できる人材に乏しかった。だから反乱軍は、密輸ルートの伝手で他国の傭兵を雇っていた。僕はそこを経由して潜入した。今のところ、反乱軍は他国から来た人間が諜報員だとは考えてもいない。政府軍以外の勢力が秘密裏に動いてる情報さえ掴めていないだろうからね」
それからも、ラルフは内戦の現状をつまびらかに話してくれた。
十二歳の私には、難しい話のいくつかは理解できなかった。
しかし彼の言葉尻に滲み出ていた嫌悪の念は、幼い私でも同調するのにたやすかった。
「奴らにとって君のような年頃の子は使い勝手がいい。洗脳とドラッグで簡単に操れるし、場合に応じて兵士にも奴隷にもできる。特にここの奴らは下種だ。とらえてきた少女を儀式と称して犯し、それぞれの兵士に妻としてあてがう。正気の沙汰とは思えないよ。反吐が出る」
彼は眉間に寄せていた皺をいっそう歪ませた。
当時の私は、
間を置くように深く煙草を吸ったラルフに、私はかねてから不思議に感じていたことを訊いた。
なぜ、私に生き延びてほしいのか。
「君が英語を話せるからだ、ジュリエッタ」
私は、彼が耳打ちした時のことを思い出した。
思えば彼は、あの時から妙にこだわっていた――私が英語を理解できるかどうかに。
「君の両親、どちらかは恐らく英国人だろう。それも北欧系の」
私は驚いた。彼の言う通りだった。
母が英国の生まれで、祖父母はノルウェーからの移民と聞いている。
「その事実は、君に生きてほしい理由とは無関係だが、なんとく気になったんだ。君の発音がね」
正解したことが嬉しかったのか、ラルフはそれまでの険しかった相好をふっと崩した。
「基本骨子は綺麗過ぎるくらいの
それはともかく、と彼は咳払いを挟んで、
「このアジトの座標は、既に衛星電話で仲間に伝えている。早ければ今夜中には殲滅できるだけの部隊が送り込まれるはずだ。ただし少年兵はなるべく助け出せと言われているから簡単にはいかないが……ひとまず僕が時間を稼いで、君を逃がす。ここで得た情報を託して」
言わば保険のようなものだ、と彼は説明した。
ラルフ自身が部隊と合流できなかった時のための。
「内戦の状況はすべて手帳に記している。だがそれらは英語で、酷く端的に書いている。この国は公用語こそ英語だが、小さな子ではまだ民族語しか話せない。だからジュリエッタ、これは君にしか託せない希望なんだ。もしもの時は、君が部隊と合流して実情を伝えてほしい」
希望。
その大袈裟な物言いに、私は恥ずかしさから目を逸らしかけた。
けれどもラルフの、森に横たえている清流よりも青く澄んだ瞳は、どこまでも静かな純粋さを宿していた。吸い込まれてしまいとも思えた。
この行き場のない望みが現実逃避なのか、あるいはもっと別の感情なのか、知る由はなかった。
ただ、鳥のさえずり、木々を小さく揺らす風、それら全てに、これまで感じていた恐怖は隣り合わせていなかった。
「それにしても、ここは気持ちのいい森だ。戦場とは思えない。君もそう思わないか?」
私は曖昧に頷いた。私にとってはこういう景色は、ほんの数日前まで日常に過ぎなかった。決して砂漠のオアシスなどではないはずだった。
「昔、休暇でノルウェーに行ったことがある。知り合いの医者に勧められてね。草原の広がる田舎町で、森の奥に小さな湖畔があった。なんとなくその時のことを思い出したよ……気候なんか百八十度違うはずなのに、不思議なものだ」
ラルフは独り言のように呟いた。それから上着の襟元からロケット付きのペンダントを取り出し、左手でぎゅっと握り締めていた。
それはなに、と訊こうとした私だったが、それよりも早く彼が「ジュリエッタ」と私を呼び、
「せっかくだから、小川で顔でも洗ってくるといい。今のままじゃ気持ち悪いだろう」と促した。
確かに私の体は汚れていた。汗と泥でべたついて、爪の奥まで砂が詰まっていた。
「大丈夫。もし奴らが戻ってきても、僕といる限りは安全だ。だから安心して行ってきなさい」
ラルフは諭すように言った。その言葉に持ち上げられたみたいに私は腰を上げて、おもむろに小川まで歩いた。
小川の水はとても冷たくて、差し込む日差しできらきら光っていた。私はまず手を洗って、それから腕の泥をそぎ落とした。本当は裸になって全身を浸したい気分だったが、ラルフの前でそんなことをするわけにはいかなかった。
私は何度も顔を洗って、髪についた泥も丁寧にすすいだ。その次は足を綺麗にしようと思って、小川の中に素足を浸した。
ひんやりとした感覚が全身を駆け抜けて、私は思わず頬が緩んだ。けれどすぐに恥ずかしくなって、思わずラルフを見た。
彼はまだ煙草を燻らせていて、私を眺めながらなにかを懐かしむような笑みを浮かべていた。
「思えば、あの時の僕も眺めているだけだった。湖畔の脇に座って、煙草を吹かせて……今と同じように、とても穏やかな時間だった」
私は、彼の言葉がやけに気になった。
その時もラルフは、誰かと一緒に湖畔を訪れていたのだろうか。その優しげな眼差しの先には、ほかの誰かが彼に笑いかけていたのだろうか。
「そうだね……そうだったかもしれない。そこは僕にとって、遠い理想郷のような世界だった」
彼の言葉は終始、私ではないどこかへ向けられているみたいだった。彼の語る理想郷に私もいつか行ってみたいと思ったが、そんな希望を口にすることはできなかった。私はまだ汚れている足をばしゃばしゃと動かして、残った泥をすすいだ。
話の接ぎ穂を失った私は、半ば思いついたように一つだけ彼に訊いた。
この戦争は、もうすぐ終わるのかと。
「いずれ、終わりが来ると思いたいが」
思いのほか、ラルフは慎重な気配を漂わせて、
「『死骸を抱いて歩くなら、手は冷たい方がいい』」と、長い英文を諳んじた。
「戦場でよく聞く諺だよ。けれど言葉ばかりが一人歩きして、誰が生み出したのか、どんな意味が込められているのかは誰も知らない……なあ、ジュリエッタ。君ならどう解釈する?」
私は、少し考えてから、感じ取ったままの意味をラルフに伝えた。
すると、彼は少しだけ驚いたように目を丸くして、
「驚いたな……そういう解釈をしたのは、僕が知る限りでは君で二人目だ」
と、どこか嬉しそうに言う。
私には、そう考える以外にないと思ったから、驚かれたのは意外なことだった。
「果たして僕は、冷たいままでいられるのか……今回ばかりは自信がないな」
自身の手先を見つめながら呟くラルフ。私以外に誰がそういう解釈をしたのかは、彼はとうとう教えてくれなかった。
ほどなく、ラルフの指に挟まれた煙草から、長くなった灰が首を斬られたように落ちていった。
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