10

 

 

 

 

 なにかの終わりはなにかの始まりを意味していると思う。

「なでなで、なでなで」

 少女との生活初日が終了し、翌朝の開始。

 その朝は、耳元で囁かれた奇怪なオノマトペと共に迎えられた。

 予期せずして意識を覚醒させられた僕は、声の発信源が誰かを理解した上で、目蓋を開かずにやり過ごそうとした。

「なでなで、なで」

 しかし彼女は擬声音を発するばかりで、実際には頭を撫でてこなかった。そのおかしさから僕は目蓋を開けていた。

 それが罠とも知らずに。

「別に罠ではないのですが」

 やはりと言うか、ベッドのそばにいたのはジェマさんだった。

「拓海様を起こすには、正攻法では難しいと熟知しておりますから。しかしまあ、ここまで上手くいくとも思いませんでした」

 僕は手のひらの上で踊らされていたのか。無駄に策士な人だ。

 それはともかく、いくら鍵を所有しているからって、他人のプライベートを配慮しない不法侵入はどうかと思う。

「拓海様のお言葉には三つの誤謬がございます。一つ、私は拓海様の他人ではなく家族同然のハウスメイドであること。二つ、相手のプライベートに配慮した不法侵入など存在しないこと。三つ、合鍵を使って堂々と玄関からお邪魔しているので明らかな合法であること」

 朝は聴覚器官が暖機不充分で、ジェマさんの声が聞き取りにくい。おまけに視神経もふにゃふにゃで五感の大半が寝惚け気味みたいだ。

「さようでございますか。それでは、拓海様の小賢しいニューロンが早急に接続されることを願い、ご指摘させていただきますが」

 清々しい早朝を体現するような笑みで、僕の腹部を指差すジェマさん。

「随分、親睦を深められたようで」

 そこには、日なたでまどろむ猫みたいに体を丸めた少女が寝息を立てていた。僕のお腹を枕代わりにして。

 先ほどから異様な重たさを感じてはいたが、これは想定外の事態。

 この子、普段のクールさと違ってとんだ寝相の悪さだ。

「臥所の選定に難儀されることは想像に難くありませんでしたが、まさかベッドを共にすることで解決されるとは思いませんでした。豪気なご決断、感服いたします」

 明らかに心の中で笑っている言い方だった。僕は悪くない。たぶん政治が悪い。

 夏休みなのに早起きしてしまったが、ジェマさんの来訪を無下にするわけにもいかない。

 仕方なく僕は、眠り続ける少女をそっとどかしてベッドから降りた。トーストを焼くなどして簡易的に朝食の準備を済ませ、卓袱台の前に腰を下ろす。

「さて拓海様。うかがうまでもないことは承知の上で、形式上、あえて質問させていただきます。アルバイト、ご継続されますか?」

 それは僕が断る方に賭けているのだろうか。

「逆です。拓海様なら、必ずやその子の面倒を見てくださると信じて申した次第です」

 なんという過信。

 断られる方が自然な気がするのだけど。

「拓海様は、お優しい方ですから。それにきっと、その子と過ごして、拓海様なりに思うところがあったのではないですか」

 なにもかも見透かしたような問い方だった。僕は苦笑した。この人なら読心術くらい会得してそうな気もする。

 でも今回は、長年一緒に暮らしてきた女の勘みたいなものかもしれない。

「そういえば、なにに決めたのですか」

 その質問には即答できない。決めるってなにを。あの三匹の中からならフシギダネがいい。

「私はダイジョーブ博士ではありませんよ」

 作品違いも甚だしかった。

「ネブリナの名前は、なんにされたのかということです」

 互いにベッドを一瞥。少女は未だに安眠中だった。

 そういえば、この子は名無しのジェーンだった。それすら忘れていた。

「拓海様らしいですね。一日生活していて不便ではなかったのですか?」

 呆れたように笑うジェマさん。

 考えてみると特に不便はなかったけれど、これから何日も一緒に過ごすなら困ることもあるかもしれない。

 とは言っても、人に名前を付けた経験なんてない。しかも少女は外国人と来ている。一体どんな名前を与えるのが適切なのか、僕にはよく分からない。

「難しく考える必要はないですよ。面倒を見るのは拓海様なのですから、拓海様が呼びやすい名前を付けてあげればよいのです」

 そんな簡単に言われても、浮かばないものは浮かばないからしょうがない。呼びやすいって言うんなら日本的な名前が一番だけど、さすがにこの少女に花子とか明子とか付けるのはナンセンスだろう。

「確かにナンセンスですね。絶望的過ぎるネーミングセンスです」

 そこまで言うならジェマさんが付けてくれないだろうか。僕なんかよりよっぽど外国人らしい名前が思いつくでしょう?

「私が? この子に名前を与えてもよいのですか?」

 なぜか少しだけ驚いたように顔になるジェマさん。よいというか、そうしてほしいって言っているのだけど。

「そうですか……拓海様からそう言われては無下にもできませんね。仕方ありません。私がなにか考えましょう」

 ジェマさんは嬉しそうに微笑み、しばし目を瞑って黙考。

 しばらくして目を開き、

「では――アスミ、というのはどうでしょう?」と提案する。

 あんまり外国人らしくない名前だった。どっちかと言うと日本人っぽいというか。

 いや待てよ。これはジェマさんなりの外国人らしさを盛り込ませた名前ではないだろうか。少女の見た目が完全にI'm USAって感じだから、あえてそれを逆にローマ字読みにしてみたとか。

「拓海様の残念過ぎる英語力が露呈していることはさて置くとしまして、私はただ、宇佐見という苗字を拓海様の母音通りに並び替えてみただけですよ。拓海様が勘ぐるほど深い意味はございません」

 見当違いも甚だしかった。あとI'm USAは文法的におかしかったらしい。

「んぅ……」

 ふと、かすかな物音が立ったベッドに視線を移すと、少女が体を起こしていた。

 僕とジェマさんの会話が耳障りだったのだろうか。少女は眠たそうに目を擦りながら、呻きと疑問符の中間っぽい声を出している。

「おはよう、ネブリナ。あなたの名前、今日からアスミになったわ。拓海様もそう呼ぶと思うから、ちゃんと覚えるようにね」

「アスミ、アスミ……」

 唐突に名を告げられた少女は、まるで側頭葉に刷り込ませるように何度か呟いたのち、

「なんか、似てる」

 ぼんやりとした瞳で僕を見つめてくる。

「拓海と、音が」

 もしかして嫌だっただろうか。僕が名付けたわけではないけど、なんかごめん。

「ううん。別に」

 安穏とした許容。

 かくして少女の呼び名は、正式にアスミと相成った。

「それで、本日のご予定はお決まりでしょうか。せっかく参りましたので、よろしければなにかお手伝いいたしますが」

 と、ジェマさんからの提案。

 僕は黙考、と同時に安堵していた。

 今日は少女――アスミの服を買いにいく予定だったから好都合だ。僕は女の子が着そうな服に詳しくない。

 粗方のスケジュールを脳内でまとめ終えた僕だったが、それらを伝達するよりも先に、アスミが口を開く。

「パンツを買う」

 無機質ながら、静かな切実さを伴った声。

 ジェマさんは「ほう?」と含み笑いを浮かべ、横目で僕を睨む。

 アスミさんや。なに一つ間違ったことは言っていないのですが、こう、もっとさ。パジャマとか部屋着とか、無難な語彙はいくらでもあったのに。なにもここぞとばかりに、僕が謗られそうなワードを選ばなくても……。

 アスミのノーパンが露呈するのを避けるため、もとい話題を逸らすため、僕はリモコンでテレビを点けた。

 朝だからどこのチャンネルにしてもにぎやかだろう、という僕の予想は完全に裏切られる。

『――速報です。今朝未明、××ビル内にて、身元不明の少女の遺体が発見されました。遺体には私立××中学の学生服が被せられ、心臓部にはナイフが突き刺さった状態で発見されており……』

 随分とセンセーショナルな事件が報道されていた。

 僕はとっさにチャンネルを変えようとしたが、事件のあった場所がかなり近場で、思わず見入ってしまった。

 死んでいたのは十二歳、小学六年生の女の子。

 ナイフで胸部を刺されている、という情報から他殺かと思ったが、遺体からは遺書が見つかったらしい。

 とすると自殺か。それにしては変な事件だ。どうして小学生が中学の制服を持って死ぬのか。それに、ナイフで胸を刺して自殺というのも違和感が……。

 とにもかくにも物騒だね、と僕はジェマさんに同調を求めた。

「…………」

 ジェマさんはしばらく無言でテレビを見つめたのち、

「……夜更けの外出などは、控えるようにした方がよいかもしれませんね」

 似たようなことを、最近誰かからも聞いた気がした。

 ジェマさんはテレビ本体の電源スイッチを押した。ブツンと、画面が光を失う。

「そんなことより拓海様、アスミのパンツの話ですが……」

 彼女にしてはめずらしく、強引な話題転換に思えた。

 まあ女の子が死んだ話なんて、清々しい真夏の朝には似合わない世間話だ。アスミだってすぐ近くにいるのだから。

 このあと、結局アスミのノーパンは露呈し、僕を対象とした決して短くはない説教が開始されたことは言うまでもなかった。しかし昨今の睡眠学者の研究から、パンツを穿かない方が睡眠効率も上昇するらしいなんて反論を展開したところ、説教は更に長引いた。

 

 

 これが、アスミを預かることになった一週間前の出来事。

 今でも僕は、あの狭いアパートの一室で、彼女と生活を共にしている。

 果たして僕は、なんのためにアスミと一緒にいるのだろう。

 大よその見当はついている。お金のため。当面の生活費のため。

 今の日常を保つためにささやかな異常を受け入れた。見も知らぬ少女との同居を許容した。

 ではなぜ、未だに、僕はアスミと一緒にいるのだろう。

 今月をしのぐ程度には既に財布も潤っている。

 にもかかわらず僕は、新たなアルバイトを探すわけでもなく、ごく自然に、アスミのためにアイスを買いに出かけたり、夕食は焼きチーズカレーでも作ってあげようかななんて考えたり、すっかり彼女中心の生活を日常にしている。

『拓海様は、お優しい方ですから。それにきっと、その子と過ごして、拓海様なりに思うところがあったのではないですか』

 とは、いつかのジェマさんの言葉。

 なるほど憎らしいまでに、僕の心の移ろいを予測していたらしい。

 僕はたぶん、無意識に重ねているのだと思う――過去の自分と、あの少女を。

 だからこそ別れを惜しむ。半端な関係で終わることを拒んでいる。

 あるいは、どうしようもなく、思い上がっているのかもしれない。

 僕が心を開いてもらったように、与えてもらったように、抱きしてもらったように。

 いつか自分も、施す側になれるのではと、考えているのかもしれない。

 ――いや、考え過ぎか。

 きっと答えは、もっとシンプルで。

 たとえばそう、こうしてアパートに戻り、ドアを開け、彼女と目が合って。

「おかえりなさい」

 その言葉に、ただいまと返す。

 一人暮らしをしていたこれまでなら、必要とされなかった挨拶。見落としてしまいそうな小さな幸せが、今日も緩やかな時間の流れへと溶けていく。

 ――けれど、そのすぐそばで。

 点けっ放しのテレビが、また例の少女連続怪死事件に関する報道を流している。

 僕への出迎えを終えたアスミは、ベッドにぺたりと座ったまま、テレビの光をジッと見つめていた。

 このアパートに来た頃と同じような、無機質な瞳のまま。

 

 

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