9
♦
あの頃、僕はジェマさんとの距離を測りかねていた。
僕は自分が分からなくなっていた。母が死ぬ前とあとでは、まったく違う人間になったようにさえ感じていた。
父はなにも言わず仕事へ出ていき帰ってこない。ベビーシッターの人たちも最低限にしか接してこない。
それが普通だと思っていた。他人とはそういうものだと。
深く関わり合うものではない。同等の感情を共有したりはしない。
違和感を覚え始めたのは、小学校で同級生を眺めていた時。
授業参観で親が見にきていて、それに対して妙に張り切る子や、逆に気恥ずかしそうにしている子や、どこかふて腐れる子もいた。彼らに共通していたのは、普段とは違う一面を晒していたこと。なにかしら感情の変化を見せていたこと。
僕だけが、変わらずにいた。
僕を参観しに来た人はいなかった。母も父もいないのだから当然だった。
不便はなかった。生きていける。生活に支障はない。
けれどその感情は、フラットなものではなくなっていた。いつしかマイナスに思い始めていた。
なにも問題はないはずだった。家で一人の時は思いもしなかった。
ただ、教室にいる同級生を見て、僕は感覚的に相対性を理解したのだと思う。
幸せとは絶対的な価値ではなく、比較されるものだと。
自分よりも多くの幸福を持つ同級生たちを見て、僕は自覚し始めていたのだ。
自分は不幸なのかもしれないことを。
それを決定づけたのは、食事中に目にした、ジェマさんの表情だった。
僕の日常を聞いて、わずかに揺れた彼女の瞳。
脳裏に焼きついて離れなかった。幼いなりに僕は察してしまった。
この生活の異常さを。決して一般的な日常ではないことを。
自分の不幸を。
「拓海様? いかがなさいましたか」
ジェマさんが家にやってきた日の夜。
予期せぬ声が僕の部屋に入ってきた。
僕は思わず顔を向けた。濡れた視界に、メイド姿ではない、パジャマ姿のジェマさんが見えた。
白衣のように真っ白なパジャマは、彼女の褐色の肌をより際立たせていた。
「こんな時間まで起きて。怖い夢でもご覧になったのですか」
彼女は分かりやすく子供扱いするように言った。それからベッドに腰を下ろし、僕の隣まで寄ってくる。嗅いだことのないシャンプーの芳香が漂ってきた。
僕はかぶりを振った。ジェマさんはしばらく言葉を持たなかった。ただジッと僕の隣にいて、それだけだった。
時計の針の音を数えて、百五回目の時に僕が訊ねた。
――けれども本当の幸いは、一体なんだろう。
「『僕、分からない』」
ジェマさんはぼんやり言った。
「宮沢賢治、銀河鉄道の夜ですね。お好きなのですか」
僕は頷かなかった。それが答えだった。
彼女も本当は分かっていたのだと思う。好きだから言ったのではないことを。
「幸いとはなにか、それは世界中で最も難しい問いの一つです。ただ、あえて定義づけるのであれば、私は他者からの愛情ではないかと思います」
愛情。
僕が訊き返すと、ジェマさんは「そうです」と微笑み、
「孤独では、自らが本当に幸いかを見極めることは困難です。他者の存在によって基準が作られます。私は、自らになんらかの適切な愛情を与えてくれる存在がいるか、それが大切だと考えています。親からの愛、友人からの愛、恋人からの愛、種別は問いません。愛情の有無が重要です」
僕は反対しなかった。
それは恐らく正しい。だから僕は不幸せだ。
友人も親もいない。愛情をくれる他者なんかいない。
「いいえ、拓海様は幸せです」
彼女は否定した。僕は顔を上げた。
ジェマさんは僕を見ていなかった。机の上のぼんやりとした照明を見つめていた。
「私は早い頃に両親を亡くして、縁あって克己様と知り合いました。その時に拓海様の話を聞きました。母を失い、父親である自分もまったく家に帰れない、だから一緒にいてあげてほしいと。それは少しばかり不器用な形かもしれませんが、しかし確かに、拓海様は愛されていますよ」
彼女も、僕と同じ。
寂しくはなかったのだろうか。
僕と同じように、自分は不幸なのだと悩んだことはなかったのだろうか。
「寂しくなかったかと問われれば嘘になりますが、私は今、幸せになりたいと考えています」
ジェマさんは自然と潤ませた瞳で答えた。
「そのために、拓海様を愛したいと考えています。時に友人のように、時に家族のように。拓海様が感じている寂しさを少しでも和らげられるように」
どうして、そこまで言ってくれるのだろう。
彼女にとって、僕は赤の他人でしかないはずなのに。
「今日からは違います。もう友人であり、家族ですから。拓海様が望まれるなら、私はご友人のようにも、母親のようにも振る舞います。それがお互いにとっての幸いたりうるのではないでしょうか」
僕はやはり戸惑った。なにを求めればいいのか分からなかった。
なんらかの適切な愛情、と彼女は言った。
それは親、友、恋人などから与えられると。
彼女は僕にとって、どれでもないように思えた。裏を返せばどれにでもなりうる存在と言えた。
この頃の僕がなにを望んだか、なにを望んでいたか、それはあまりに明白で、思い出すのは気恥ずかし過ぎた。
「あら……」
僕はジェマさんに抱きついた。
昼間は拒んだ体に、今度は自分から手を伸ばした。
温かくて、柔らかくて、血を分け合った肉親のように、いいにおいがした。
「誰だって、一人にはなりたくないものですから」
ジェマさんも僕を抱き締めた。温もりがいっそう深いものになった。
時を刻むような心地よい心音を聴きながら、僕は眠りに落ちていく。
意識が途切れる最後まで、温もりは僕のそばにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます