あの頃、僕はジェマさんとの距離を測りかねていた。

 僕は自分が分からなくなっていた。母が死ぬ前とあとでは、まったく違う人間になったようにさえ感じていた。

 父はなにも言わず仕事へ出ていき帰ってこない。ベビーシッターの人たちも最低限にしか接してこない。

 それが普通だと思っていた。他人とはそういうものだと。

 深く関わり合うものではない。同等の感情を共有したりはしない。

 違和感を覚え始めたのは、小学校で同級生を眺めていた時。

 授業参観で親が見にきていて、それに対して妙に張り切る子や、逆に気恥ずかしそうにしている子や、どこかふて腐れる子もいた。彼らに共通していたのは、普段とは違う一面を晒していたこと。なにかしら感情の変化を見せていたこと。

 僕だけが、変わらずにいた。

 僕を参観しに来た人はいなかった。母も父もいないのだから当然だった。

 不便はなかった。生きていける。生活に支障はない。

 けれどその感情は、フラットなものではなくなっていた。いつしかマイナスに思い始めていた。

 なにも問題はないはずだった。家で一人の時は思いもしなかった。

 ただ、教室にいる同級生を見て、僕は感覚的に相対性を理解したのだと思う。

 幸せとは絶対的な価値ではなく、比較されるものだと。

 自分よりも多くの幸福を持つ同級生たちを見て、僕は自覚し始めていたのだ。

 自分は不幸なのかもしれないことを。

 それを決定づけたのは、食事中に目にした、ジェマさんの表情だった。

 僕の日常を聞いて、わずかに揺れた彼女の瞳。

 脳裏に焼きついて離れなかった。幼いなりに僕は察してしまった。

 この生活の異常さを。決して一般的な日常ではないことを。

 自分の不幸を。

「拓海様? いかがなさいましたか」

 ジェマさんが家にやってきた日の夜。

 予期せぬ声が僕の部屋に入ってきた。

 僕は思わず顔を向けた。濡れた視界に、メイド姿ではない、パジャマ姿のジェマさんが見えた。

 白衣のように真っ白なパジャマは、彼女の褐色の肌をより際立たせていた。

「こんな時間まで起きて。怖い夢でもご覧になったのですか」

 彼女は分かりやすく子供扱いするように言った。それからベッドに腰を下ろし、僕の隣まで寄ってくる。嗅いだことのないシャンプーの芳香が漂ってきた。

 僕はかぶりを振った。ジェマさんはしばらく言葉を持たなかった。ただジッと僕の隣にいて、それだけだった。

 時計の針の音を数えて、百五回目の時に僕が訊ねた。

 ――けれども本当の幸いは、一体なんだろう。

「『僕、分からない』」

 ジェマさんはぼんやり言った。

「宮沢賢治、銀河鉄道の夜ですね。お好きなのですか」

 僕は頷かなかった。それが答えだった。

 彼女も本当は分かっていたのだと思う。好きだから言ったのではないことを。

「幸いとはなにか、それは世界中で最も難しい問いの一つです。ただ、あえて定義づけるのであれば、私は他者からの愛情ではないかと思います」

 愛情。

 僕が訊き返すと、ジェマさんは「そうです」と微笑み、

「孤独では、自らが本当に幸いかを見極めることは困難です。他者の存在によって基準が作られます。私は、自らになんらかの適切な愛情を与えてくれる存在がいるか、それが大切だと考えています。親からの愛、友人からの愛、恋人からの愛、種別は問いません。愛情の有無が重要です」

 僕は反対しなかった。

 それは恐らく正しい。だから僕は不幸せだ。

 友人も親もいない。愛情をくれる他者なんかいない。

「いいえ、拓海様は幸せです」

 彼女は否定した。僕は顔を上げた。

 ジェマさんは僕を見ていなかった。机の上のぼんやりとした照明を見つめていた。

「私は早い頃に両親を亡くして、縁あって克己様と知り合いました。その時に拓海様の話を聞きました。母を失い、父親である自分もまったく家に帰れない、だから一緒にいてあげてほしいと。それは少しばかり不器用な形かもしれませんが、しかし確かに、拓海様は愛されていますよ」

 彼女も、僕と同じ。

 寂しくはなかったのだろうか。

 僕と同じように、自分は不幸なのだと悩んだことはなかったのだろうか。

「寂しくなかったかと問われれば嘘になりますが、私は今、幸せになりたいと考えています」

 ジェマさんは自然と潤ませた瞳で答えた。

「そのために、拓海様を愛したいと考えています。時に友人のように、時に家族のように。拓海様が感じている寂しさを少しでも和らげられるように」

 どうして、そこまで言ってくれるのだろう。

 彼女にとって、僕は赤の他人でしかないはずなのに。

「今日からは違います。もう友人であり、家族ですから。拓海様が望まれるなら、私はご友人のようにも、母親のようにも振る舞います。それがお互いにとっての幸いたりうるのではないでしょうか」

 僕はやはり戸惑った。なにを求めればいいのか分からなかった。

 なんらかの適切な愛情、と彼女は言った。

 それは親、友、恋人などから与えられると。

 彼女は僕にとって、どれでもないように思えた。裏を返せばどれにでもなりうる存在と言えた。

 この頃の僕がなにを望んだか、なにを望んでいたか、それはあまりに明白で、思い出すのは気恥ずかし過ぎた。

「あら……」

 僕はジェマさんに抱きついた。

 昼間は拒んだ体に、今度は自分から手を伸ばした。

 温かくて、柔らかくて、血を分け合った肉親のように、いいにおいがした。

「誰だって、一人にはなりたくないものですから」

 ジェマさんも僕を抱き締めた。温もりがいっそう深いものになった。

 時を刻むような心地よい心音を聴きながら、僕は眠りに落ちていく。

 意識が途切れる最後まで、温もりは僕のそばにあった。

 

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