大学を出たあと、本屋や家電量販店にぶらぶらと立ち寄った。結局、アパートに帰り着いたのは日が暮れようかという頃になった。

 部屋に入ると、ベッドの上で少女が伸びをしていた。ちょうど今しがた起きたのだろうか。僕は、ただいま、と言ってみた。

「お腹、減った」

 少女は呟くように言った。日本語は流暢だが日本式の挨拶には慣れていないみたいだった。

 僕は少女に『おかえりなさい』という言葉を教えた。『ただいま』と言われたらそう返すのだと教示した。

「…………」

 少女はしばらく無言だったが、最終的には頷いてくれた。なんだか仕方なく了承したみたいな間があったが、僕は気にしないことにした。

 その後は少女の望み通り夕食作りに励み、生姜焼きを主菜にしたメニューを完成させた。

 我ながら完成度が高い。普段あまり作らないけど結構美味しそう。完璧な出来映えじゃないだろうか。

「……?」

 少女は同調してくれた。思い切り首を傾げられた。感動の共有を行うには日が浅過ぎたらしい。

 僕は料理を盛った二人分の食器を卓袱台に並べた。

 少女の視線は生姜焼きにではなく、皿の脇に置かれた箸に注がれていた。川を泳ぐマグロでも見たかのように怪訝な眼差しで見つめていた。

「ペンシル?」

 書けません。

 日本語ぺらぺらなのに箸は知らないみたいだった。

 見た目からすれば自然ではあるが、なんだか中途半端な知識に思える。普通、日本語を覚える段階で日本の文化とかも学びそうなものなのに。

 僕はいただきますの前に、箸の使い方をレクチャーしてあげた。

 片手で持ち、親指人差し指中指を上手く使って動かすこと、おかずは先っぽで挟み、ご飯は小さな塊をすくうようにすることなど、手本を見せながら解説に努めた。

 見よう見まねで、生姜焼きを一枚、箸でぎこちなく挟む少女。

 次の瞬間、

「あ」

 べちゃり。

 生姜焼きは見事に一回転、ひっくり返って少女の顔面に張りついた。

 肉片は間もなくヌメリと滑り落ち、への字に口を曲げた少女の、たいそう不満げなご尊顔が露わになる。

 僕は堪えた。笑いを。不意に込み上げてきた当然の感情を。押し殺す努力をした。

 笑うな。噛み殺せ。お腹の奥へ突き返せ。我慢々々……。

 無理だった。僕はバカみたいに笑った。高笑った。

「…………」

 少女は泣きも怒りもしなかった。エラーを出したロボットみたくフリーズしていた。

 力の入れ具合をミスったんだよ、と原因を教えながら、僕はタレまみれになった少女の顔をウェットティッシュで拭いてあげた。このままではせっかくの綺麗な顔が台無しだ。

「……ごめんなさい」

 落ちた生姜焼きを手で拾う少女。そこはかとなく落ち込んでいるようにも見える。

 あまり表情を変えない少女だけど、案外、僕が思っているよりも素直な性格なのかもしれない。僕は軽く笑い飛ばして少女の頭を撫でる。それから彼女が拾った生姜焼きをもらい、僕の分と交換した。

「それ、落ちたやつ」

 日本には三秒ルールというしきたりがある。バスケットボールにおける反則が語源らしいけど、とにかく三秒以内なら食べても大丈夫だと教えた。

 それよりも。

 やっぱり箸は難しいだろうか。まあ預かるにしても夏休みいっぱいだろうし、無理に覚えてもらうほどでもない。

 代わりにナイフとフォークを用意する。ご飯も茶碗から平皿に移し替える。これで多少は食べやすくなるだろうか。

「いいの? さっきので、食べなくても」

 別に、それほど問題ではない。人には人の乳酸菌があるように、扱い慣れている道具は人それぞれだ。イチローも他人のバットは絶対に触らないらしいし。違うバットの感覚が残るのが嫌とかで。

 それに、早く食べないと、せっかくの手作りが冷めてしまう。

「うん」

 一つ頷き、少女はフォークで生姜焼きを突き刺す。

 そのまま食べそうな勢いだったので、僕はとっさに待ったをかけた。

 動きを止めてくれた少女に、僕は『いただきます』について力説する。

 この子がどこの国の出身かは分からないが、この調子だと日本式の食前の習慣も知らないのだろう。言わば命を与えてくれる食べものに対して、あるいは食事に携わった全ての人たちに感謝を示す行いだ。

「拓海、いつもそんなこと、考えながら食べるの」

 いや、そこまで過度な思い入れはない。逆に食べにくくなる。

 僕の投げやりな説明に、少女は目をぱちぱちさせたが、ほどなくして、

「いただきます」

 と手を合わせてくれた。

 それを見届けて、僕も一緒に食べ始めた。

 少女が食事に割いた時間は五分程度だった。先ほどの苦闘が嘘みたいだ。

 僕も箸を速めた。彼女の速度に感化されたわけではない。

 食べ終わってからずっと僕を見つめてくる彼女の視線が、むず痒かったのだ。

 飼い主から命令を待つ犬のように忠実で、けれど静かな奔放さを持つ猫のように穏やかな瞳で見つめてくるのである。食事中の姿をまじまじと見られて喜ぶ阿呆はこの部屋にはいない。

 ごちそうさまについては特に強要しなかった。ごちそうと呼べるほどたいそうな料理も出せていないし、調理した本人がその言葉を求めるのは気が引ける。

「美味しかったよ?」

 称賛をくれた少女。なぜかきょとんとした瞳だった。

 なんだろう。食べ終わったあとに虚しく流れた空気を察したのだろうか。感想を要求されたと思ったのだろうか。

 だとすれば恐縮だったが、悪い気もしなかった。手料理を食べてもらい、端的ながらも感想をもらえたことを嬉しく感じた。

 実家でジェマさんと過ごしていた六年間、僕は料理を施される側だった。その逆はありえなかった。

 感謝の気持ちを忘れたことはなかったし、なんならジェマさん感謝祭でも開いて労うことも考えたが、実際に催したことはなかった。手料理を振る舞われる従者などいません、と丁重にお断りされる未来が見えていたから。

 ともあれかくもあれ。

 この手の賛美を受けたのは初めてだ。ありがとう。今度はもっと気の利いたコメントとメニューを考えておくよ。

「…………」

 少女はまたきょとんとしたのち、

「楽しみにしとく」と答えた。

 素っ気ない返答でプレッシャーをかけられたが、やはり悪い気はしなかった。

 父性か母性か、あるいは新婚気分の新妻に近い喜悦なのか。どれにしたって大学生の僕には相応しくない情愛に思えた。

 食器を片したあとは、今後生活していく上での必要事項を話し合った。お風呂とかトイレとか寝床とか。

 特段、留意する問題はなかった。風呂とトイレは別々だから普通に使ってもらって構わない。

 寝床はベッド一つしかないが、幸いにも彼女はトイレの小窓からでも脱走できそうなほどの細身だ。僕一人では広過ぎて持て余していたマットレスだったから、むしろちょうど良く有効活用できるだろう。

 ベッドを譲る気はなかった。僕は予備の敷布団を持っていない。加えて、フローリングに雑魚寝できないタイプの人間である。安眠は失いたくない。

 少女に入浴を促すと、「先にいいの?」と言いたげな顔を向けられた。僕はどちらでもよかった。思春期真っただ中の女子を持つ家庭だと、父親が入ったあとの湯船なんて浸かりたくない、でも自分が入ったあとの湯船に入られるのも嫌だ、なんてわがままに苦難するらしいけど、この子はそんなこと歯牙にもかけないだろう。もちろん僕も気にしない。

 そもそも夏場は湯を張らない。なおのこと議論の必要はない。

「服、どうするの」

 盲点だった。

 今のところ、少女の衣類は着用中の黒ジャージのみだ。

 厳密には下着なんかもあるが、どっちにしろ着替えの準備はできていない。

 大は小を兼ねる理論で、部屋着は僕の服で間に合わせるとしても、下着はそうもいかないだろう。僕が困る。

 今日だけは我慢してもらって、明日にでもジェマさんに相談しよう。

 少女に保留の旨を伝え、今日のところはひとまずお風呂に入ってもらった。

 少女の洗濯物は別のかごに移し、代わりにあまり使っていなかったスウェットシャツとステテコを用意する。

 スウェットシャツは彼女の華奢な上半身を隠すには充分だろうし、ステテコは紐を縛ればずり落ちない。歩行の安全性は保障できないがそこは妥協してもらおう。

 僕はベッドに身を投げた。天井に向けて大きく息をつく。

 子供の世話も楽じゃない。いや、今日の行いが世話と呼べるかは疑問だが、激動の一日ではあった。この疲労感に乗じて眠ってしまいたい。

 だがダメだ。確か少女がなに食べたのか記録しなければいけない。

 おやつにアイス、夜は生姜焼き定食……。

 面倒だ。後回しにする。今はとにかく寝たい。

 心地よい気だるさの中、僕は不思議と覚えていた充実感について考えた。

 ――ジェマさんも、こんなことを考えたのだろうか。

 他人と暮らすこと、自分より年下の子供の面倒を見ること。

 気苦労の中に垣間見えるささやかな幸い。寂寥の忘却。

 僕はたぶん、いつかの寂しさを覚えていない。

 涙まみれの笑顔に抱き締められた記憶が、幼かった孤独を緩やかに溶かしてくれたから。

「拓海」

 儚げな声。真上から降ってきた。

 目蓋を開く。少女が四つん這いで僕に覆い被さっていた。ほのかに漂う熱気とフレグランスで、風呂上りなのは明白だった。

 少女は長袖のスウェットシャツを着ている。僕が用意したものだが、明らかにぶかぶかで袖から手が出ていない。

 おまけに服の繊維が不自然に偏っていて、鎖骨辺りまであられもなく晒している。

「これでよかったの?」

 少女が膝立ちになり、全身を見せてくる。

 ステテコもだぼだぼで、紐の結び方も甘いせいか中途半端にだらんとしている。

 ――明日からは、もっと上手くやれるだろう。

 少なくともこの子が着る衣服くらいは、そろえてあげられるはずだ。

 薄っぺらな自信と共に言い訳して、とりあえず僕は、少女が穿いているステテコの紐をさっと解き、縛り直してあげる。

 ――この時。

 もう少しだけ注意力を働かせていれば、気づけていたかもしれない。

 露わになりかけていた少女の下半身に、いくつかの青痣がひしめいていたことに。

 

 

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