昔々。

 ジェマさんが初めて僕の家にやってきた日。

「拓海様、いかがなさいましたか。ビー玉のように目を丸くされて」

 彼女は挨拶代わりのつもりか、僕のためにお昼ご飯を作ってくれた。

 十時頃から作り始めて完成が十二時半。

 昼食ごときでなにを二時間半もかかっているのだろうと思っていたが、その理由はすぐに分かった。

 ローストターキー。サンドウィッチ。ビーフシチュー。山盛りのカラフルなサラダ。

 テーブルに並べられていた献立を見て度胆を抜かれた。アメリカの感謝祭みたいなメニューだった。これでケーキまであったりしたらもはやクリスマスではないかと思った。

「ケーキもご用意しておりますよ。こちらに」

 そうして冷蔵庫を開けて見せられたのは、丁寧にチョコレートコーティングされたケーキで、小さな蝋燭まで立てられている。

 僕は軽く辟易した。いつからクリスマスは今日に移籍してきたのだろう。

「クリスマスではありません。本日は拓海様のお誕生日ですから。腕によりをかけてお作りした次第です」

 誕生日。

 確かに今日、僕は十二歳になった。

 けれど特別な感慨はなかった。そもそも誰かに誕生日を祝われた経験がない。

 正確には、思い出せる限りにおいてはだけど。

 母が元気だった頃は、きっと祝ってくれていただろうから。

「物心つかれて初めてのバースデーを祝う機会がいただけたことを、私は光栄に思います。さあ、冷めてしまう前に召し上がってください」

 彼女が席に座る。僕も操られたように向かいの席に着いた。

 少しずつ、僕の中で申し訳ない気持ちが湧いてきていた。それは罪悪感に似ていた。僕は喜びや嬉しさといった類いの感情を抱くことができずにいた。

 ただただ困惑していた。これだけのごちそうを用意してもらって、どんな顔を向ければいいのか分からずにいた。

 一つ確かだったのは、困惑するのが適切な感情表現ではないこと。

 だから僕は、素直にスプーンを持てずにいた。安易に手をつけられずにいた。

 誕生日ってなんだろう。歳を重ねることがそんなに凄いのだろうか。単なる数字だと思っていたのに。

 本来はこんなにも、祝われるべきことだったのか。

 じゃあ、どうして僕は、今まで。

「拓海様、いかがなさいましたか」

 耳元に息がかかって、僕は身震いした。

 気づけば、目の前に座っていたはずのジェマさんが、すぐ隣にまで来ていた。僕の顔を覗き込んでいた。

「召し上がらないのですか?」

 そう訊かれて、いっそうバツが悪くなって、僕は無理にでも手を動かした。スプーンを持って、ビーフシチューをすくおうとした。

 けれど口に運ぼうとしたところで、ジェマさんに止められた。優しく腕を掴まれて。

「拓海様、ダメです。お忘れになっていますよ」

 なにを、と僕は訊き返す。

 ジェマさんは「あら」とお茶目な具合に首を傾げ、

「いただきますをです。この国では、食前に手を合わせて、料理に変わった食材や食事に携わった方々に対する感謝を表すと聞きました。もしかして、知らなかったのですか」

 そんなわけはない。学校では毎日やっている。それなりに大きな声を出して。

 けれどそれは、あくまで同調行動。みんながやっているから自分もやらねばならないという、見えない圧力に従っての習慣でしかない。

 だから家では一度もしたことがない。ご飯の時間は一人だから。意味なんて考えたこともなかった。

「私は、素晴らしい行いだと思いました。神に祈りを捧げるのとはまた違って、どことなく禅の心を感じます」

 端的な感想を言うと、ジェマさんは僕の指を解くようにスプーンを取り去り、

「では、一緒にいただきますをしましょう。はい」

 ――いただきます。

 彼女と声をそろえた。

 何気ない一言なのに、どうしてか頬が熱くなる感覚があった。学校でやる時は一度も感じたことがない熱だった。

 けれどそのあと、僕に宿った微熱を更に助長させる時間が訪れる。

「それでは拓海様、あーん」

 あろうことか彼女は、僕から緩やかに奪取したスプーンでもう一度ビーフシチューをすくって。

 そのまま、僕の口元まで運んできたのだ。

「いただきますが言えたご褒美です。はい、お口をお開けください」

 ご褒美どころか、羞恥心を掻き立てる罰ゲームに思えた。

 だけど、上手く拒めなかった。

 それは彼女がまた、春の陽だまりのように温かな眼差しで見つめてきたからだった。僕は観念して口を開け、彼女からのご褒美を受け入れた。

 ごろっとしたお肉と少量のシチューが舌を這って、コク豊かな味が口内を満たしていく。

 噛めば噛むほど味がして、僕は夢中になってその一口を味わった。中々飲み込むまでに至らなかった。

「お口に合ったようでなによりです」

 ジェマさんは嬉しそうに言った。どことなく驚いているようにも感じられた。

「ですがまさか、涙を流されるほど感動されるとは思いませんでした」

 彼女の言葉で、僕は頬に流れる妙な熱の正体に気づけた。

 涙なんて、母がいなくなった時以来だった。

 悲しみ未満、あくび以上の微妙な量だったが、雫は確かに頬を伝っていた。

「普段は、ベビーシッターの方がお料理をされているとうかがっていましたが、今日はいらっしゃらなかったみたいですね。急なご予定でもあったのでしょうか」

 僕はかぶりを振った。うちに来るベビーシッターは料理らしい料理をしない。

 週に何度か、レンジで解凍できるおかずやご飯を持ってくる。洗濯なんかもその時いっぺんに済ませて、やるべきことをやったらすぐに帰っていく。言葉もほとんど交わさない……彼らがそんな風になってしまったのも、僕が邪険にしてきたせいだけれど。

「そう、ですか」

 僕の話で、ジェマさんはちょっとだけ瞳を揺らしたように見えた。

 僕はそれを快く思わなかった。どうしてそんな顔をするのだろうと思った。

 そんな顔をされたらまるで、僕は。

「大丈夫です、拓海様」

 温かな感触が僕の上半身を包む。

 ジェマさんが抱きついてきたのだった。それはあまりに唐突な抱擁だった。

「今日からは、私がいますから。毎日、温かいご飯をお作りしますから」

 くすぐったい声だった。僕は反射的に彼女を引き剥がした。

 それからスプーンを奪って、またビーフシチューを食べ始める。今度は自分の手で。

 ジェマさんはその場に屈んだ状態で、しばらくは満足げに微笑んだまま僕の食事を眺めていた。

 

 

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