5
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結論から言えば、想像に難くない状況になったと言わざるをえない。
「…………」
ジェマさんが帰ったあと。
少女と二人ぼっちになった室内で、今のところ会話らしい会話は生まれていなかった。
少女はベッドに横臥し、じーっとしているだけ。
僕は僕で、現状に陥った過程を思い返して溜め息をついている。
そもそも、彼女の身体を計測するにしたって――今週分はジェマさんがほとんど行ってくれたけれど――これからは僕一人でこなす必要があるかと思うと、今更ながら気が滅入る。
相手はまだ子供だし、服の上からだし、なんて譲歩で許諾したのが間違いだった。
子供だろうと着衣の上だろうと、相手は異性であり、それ以上に見も知らない他人である。
そんな子の体を隅々まで計測するなんて、冷静に考えると意味が分からなかった。どうして僕は簡単に頷いてしまったのだろう。
とは言え、既に引き受けた仕事だ。ぐだぐだと愚痴っていても仕方ない。
事実、時給に換算すれば割はいい。
次の計測も一週間後、最悪はその時に断念するか考えよう。
とりあえずは一週間、家賃の支払いをやり過ごすためだ。
ひとまず僕は、横になったまま動く気配のない少女になにをしたいか、訊ねてみることにした。
少女とコミュニケーションを取ること、それが共同生活の始まりになると思ったからだ。
「寝たい」
少女は答えてくれたが、その声はとても気だるげだった。とりあえず日本語は通じるみたいだ。
発音にどこかたどたどしさを感じるのは、外人訛りよりは年齢的な幼さが原因のように感じられた。
そういえば、初めて声を聞けた感動のせいで、肝心の要望を聞き逃してしまった。
改めて問い直してみると、少女はリプレイ映像でも見せるように眠たげな声で、
「寝たい」
と、無機質な三文字を言い並べる。
今だって半分寝ているようなものじゃないか、とは突っ込まなかった。一定の信頼を築けるまでは出過ぎた返答は控えるべきだろう。
そっか、と当たり障りのない返答をして、僕はその場に立ち上がる。
どうしたものか。別にこのまま寝てもらっても構わない。
むしろ昼寝でもして時間を潰してもらった方が都合もいい。相手をせずに済む。
だが本当に、それでいいのだろうか。とも思った。
どれだけの期間、この子と生活を共にするかは分からない。それこそ一週間も経たずに終わる関係かもしれない。
けれど万が一、僕が継続を決めれば長い付き合いになる可能性もある。夏休みいっぱいまで預かるなら二ヶ月弱、一緒に過ごしていくことになる。
であれば、コミュニケーションを放棄するのは適当な選択とは言えない。世間話すらできない同居人なんて気まずいだけだ。
最低限、打ち解ける努力はすべきなのだろう。
昔の僕なら考えられなかったことだ――少なくともジェマさんと出会うまでは、僕はどうしようもなくつまらない人間だったから。
家にも学校にも、言葉を交わせる相手はいなかった。家族と呼べる存在はおらず、友達も上手く作れなかった。
ちょうど今、ベッドの上で寝そべっている少女みたく、無関心を地で行くような瞳を晒していたと思う。
けど、今の僕は違う。
誰かと話せる幸せを知っている。
それはとても小さな幸いで、誰もが当然のようにこなしている日常だろうけど、必ずしも万人の当然ではないから。
つまり僕は、少女と話をしてみたかった。
果たしてそれが、自分のためか彼女のためかは分からない。
確固たる目的があるわけでもないけれど、それらしい理由をでっち上げるなら、この奇妙なバイトの秘密も聞き出せるかもしれないし、無駄に終わることはないはずだ。
悩んだ末、僕は冷蔵庫にアイスが残っていることを思い出した。
アイスが嫌いな子供なんてそうはいないだろう。女の子を食べもので釣る行為はジェマさんから咎められそうだけど、きっかけはなんでもいい。
僕は冷凍庫から取り出したカップアイスを卓袱台に置いた。
「なに、これ」
少女は上体を起こしてくれた。
しかし、なぜか首を傾げている。卓袱台に出されたアイスを前にして。
まさかこの子、アイスを食べたことがないのだろうか。その可能性は考えていなかった。
いや、日本のアイスを見るのが初めてなのかもしれない。
僕は蓋を開け、穏やかに波立つヴァニラ色のゲレンデにスプーンを突き刺す。これでアイスと認識してくれるだろう。
「……食べもの?」
少女は首を傾げたまま言った。
どうやらやはり――その可能性を信じるには、僕の常識が追いつかないところもあるが――この少女は、アイスと初対面らしい。
なんとも未知数な子だった。名前もなく、素性も不明で、おまけにアイスを知らない。
にもかかわらず、日本語をばっちり話せている辺りが更に奇妙だ。ここまで背景が見えてこない人間はジェマさん以来かもしれない。
ともかく、食べものかという問いに対して僕は頷き、仕方がないのでスプーンで少量のアイスをすくい、少女に食べさせてみることにした。いわゆる『あーん』を試みた。
少女はほんのわずか、警戒したそぶりを見せたものの間もなく口を開き、アイスを迎え入れた。
ぱくりと閉じられた口の中、アイスは恐らく舐め取られ、その証拠に引き抜いたスプーンの表面は銀一色を取り戻していた。
「冷え冷え、してる」
少女は独特な感想をこぼした。
日本語的に正しい感嘆かはともかく、口に合わないわけではなさそうだった。
「もっと、食べてみたい。ダメ?」
なぜか不安げな要望だった。僕は、もちろん食べていいよと快諾する。
彼女のために開けたアイスなのだから、彼女のためになくなることが正しい。
僕からの承諾を受け、少女はおもむろにスプーンを手に取る。冷たい湖の水面に触れる時のように、慎重な手つきだった。
シャク、と一山すくい、僕の様子をちらちらとうかがってから、ようやく口に運ぶ。
そんな動作が二口目、三口目と繰り返されていくうち、早く食べてしまいたい、けれどゆっくり味わって食べたい、という少女の気持ちの揺らぎが垣間見えて、僕は面白いと感じると共に不思議な気分を味わった。それはカブトムシの観察をする少年のような、稚い残酷さを孕んだ好奇心とよく似ていた。
「美味しかった」
少女は数分とかからずにアイスを平らげた。
随分と気に入ってくれたらしく、起伏の乏しい表情からも隠し切れない満足感が滲み出ている。ように見えた。アイスで打ち解けよう作戦はまずまずの成果が見受けられた。あとはこれに乗じて、会話を弾ませていけばいい。
次はなにを訊こうか、と沈思黙考に精を出した僕だったが、すぐに自らの過ちに気づいた。
なぜ僕は、少女への質問ばかり考えているのだろう。
僕はまだ自己紹介すらまともにしていない。それでは信用を得られるはずがない。
もしかすると、ある程度はジェマさんが教えているのかもしれないが、こういうことは自分の言葉で伝えるのが礼儀だろう。
僕の名前は宇佐見拓海で、歳は十九で大学一年生で……などと当たり障りのないステータスを公表し、僕は自己紹介を済ませた。唐突で強引な紹介ではあったが、少女は黙って聴いていてくれた。
これで多少は信用度も上がっただろうか。好感度ゲージ的なものが可視化されていたら楽だけど、それは三次元で期待できる仕様ではない。
「拓海……覚えた」
と、少女は言った。インプットした、みたいな言い方だった。
それから僕らは、お互いの個人情報を一つずつ、名刺交換でもするように教え合った。趣味だとか、食べものの好き嫌いだとか。
彼女の方はどの質問に対しても「別に」と答えていたから、全然交換にはなっていなかったけれど。
ただ、家族の話題になった時、少女の仕草にわずかな変化が見て取れた。
それまでループ処理のごとく単調に動いていた唇が、この時ばかりは言葉を溜めるように少しだけ震えたのだ。
「いない」
それは、お父さんもお母さんもということだろうか。
もしかして、親族とかも。
「見たことない。最初からいなかった」
伏し目がちに少女は答えた。
間違ってはいないのだろうけど、最初からいない、という言い回しは少し引っかかった。
親がいなければ子は生まれない、祖先がいなければ自分は存在しないのだから。最初からいなかったという表現は適切ではないだろう。この場合は、親や親戚らしき存在に会ったことがない、と解釈すべきなのだろう。
しかし、見たことがない、か。
風貌からして真っ当な人生を送っていないことは察していたけど、もしかすると想像を絶する波乱万丈具合なのかもしれない。
とりあえず、それまでの手順に従い、今度は僕の家族構成を語った。
母親がいないこと、父親とほとんど会わないこと。
親代わりのジェマさんに面倒を見てもらっていたこと、それらをかいつまんで少女に話した。
「拓海も、いないんだ」
母親はね。
父親もまあ、いないようなものだ。
「……寂しくなかったの?」
その問いを形作った声音は。
アイスをねだった時とは似て非なる不安を抱えていた。
僕は不器用に笑った。目を逸らしながら、未練がましい微笑を作って誤魔化した。
寂しくなかったと言えば嘘になるから。
適切な感情表現をするなら、これくらいのぎこちなさがちょうどいい。
「……そう」
少女はまた横になった。薄型テレビの画面にぼんやりと反射している二つの人影を一瞥してから、どこか安堵したように目蓋を閉じていた。
寝るのだろうか。なら僕はスマホでゲームでもしていよう……そう思ってポケットに手を突っ込んだ時、タイミングよくスマホが振動した。この震え方は電話だ。
画面を見ると、知らない番号だった。僕はおもむろに通話ボタンを押してスマホを耳に当てた。
『あ、宇佐見君? ハロォ。私だけど』
真っ昼間からワタシワタシ詐欺だった。
『もう。宇佐見君、分かっててとぼけているでしょう?』
呆れたように訊いてくる女性の声。ご明察です、としか言いようがなかった。
電話をかけてきたのはキャシー先生だった。
正確には外国語科目の教授の助手で、先生でもなんでもないネイティブスピーカーのお手伝いさんだけど。挨拶で気軽にハロォと言ってくる人は、僕の身の回りでは彼女しかいない。外国人と言えばジェマさんだけど、あの人は敬語がデフォルトだ。
それで、わざわざケータイにかけてくるなんてどうしたのだろう。
「
と、少し間があったのち、
「
明るいキャシー先生の声とは対照的な、ダンディズム漂う落ち着いた声が耳朶に響く。
外国語担当の冠城教授だった。
「ええと、宇佐見拓海君。君は補習だ。詳しくは掲示板を見るように。以上」
用件のみで、電話は即切れた。
僕は慨嘆した。少女はベッドの上で、かすかな寝息を立てていた。
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