僕が小学六年生の時。

 誰にも祝われるはずがないバースデーに、ジェマさんは僕の家にやってきた。

「はじめまして。ジェマ・ノエル・アーレイスと申します。今日からこの家のハウスメイドをさせていただきます。宇佐見うさみ拓海様、どうぞよろしくお願いいたします」

 幼かった僕は当惑していた。

 それは当然だった。普段ほとんど使われない呼び鈴が鳴ったかと思えば、玄関先に外国人のメイドさんが立っていたのだから。

 当惑の次に、僕が抱いた感情は怪訝だった。新手のセールスマンかなにかではと思っていた。

「セールスマンではありません。そもそも私は見ての通り女ですから、仮に拓海様のご想像が正しければセールスウーマン、あるいはセールスレディとなるでしょう。拓海様は英語が苦手のようですね」

 メイドさんは柔和に微笑んだ。

 この頃、僕は感情の起伏に乏しい子供だった。

 しかしこの時ばかりは、不機嫌を露わにしていた。

 突然の来訪にもかかわらず、あまりにあっけらかんとした態度で接してくる彼女が気に入らなかったのだ。

 第一、僕はまだ小学生だったのだから。英語のミスなど指摘されたところでどうしようもない。

 様々な理由から、彼女の第一印象は最悪だった。

「それでは拓海様、上がらせていただきます。お昼はまだでしょうか、そうでしたら私がお作りいたしますが」

 重たそうな木製のトランクケースを持って、彼女はごく自然な具合に上がり込んでくる。

 わけが分からなかった僕は抵抗を示した。

 いきなりハウスメイドなんて言われて信じられるわけがない。

「あら、克己かつみ様からお聞きになっているとばかり……なるほど、拓海様の困惑も納得です」

 彼女はまた穏やかに笑って言った。

「私は克己様の命で、拓海様のお手伝いをするよう頼まれて参ったのです。不束者ではございますが決して怪しい者ではございません。ですので、これからどうぞよろしくお願いいたします」

 克己とは僕の父親の名前だった。

 知る人物は限られている。ましてや相手は外国人だ。父は海外で働いている人だから逆に真実味がある気もした。

 しかし僕は、歓迎しなかった。

 彼女の優しい眼差しが目の毒だった。生前の母を思い出すようだったから。

 当時の僕は一人でいることに慣れ始めていた。一人ぼっちに安堵していた。

 大切な人はいずれいなくなる。そのことを母親の死で思い知った僕は、誰かと深い関わりを持つことを強く拒絶していた。

 だから、初めはジェマさんを受け入れようとしなかった。追い返そうとさえ考えた。

 けれど。

「では、私は死にます」

 彼女はトランクケースを開け、木箱に入っていた真新しい包丁を取り出し――、

 その切っ先を自らの喉元に突き立てた。

「この包丁は拓海様に手料理を振る舞うために、この国で新調したものです。しかし拓海様のお手伝いができないとなれば無駄になってしまいます。なので自害のために使わせていただきます。そうすれば無意味ではありませんから」

 それは脅しでも虚言でもなく――本気。

 そう感じられるほど彼女の瞳は、どこまでも純粋な覚悟を宿していた。

 僕はとっさに、自死のために用いられようとした刃を引っ叩いて落とした。

 彼女を救おうとしたわけではない。目前に現れようとした死を拒絶したのだ。

 けれど皮肉にも、彼女はまた母を彷彿とさせる眼差しになり、

「拓海様は、お優しい方なのですね」

 拾った包丁を木箱に戻しながら、どこか嬉しそうに言った。

 僕自身、自分の行動に違和感を抱いていた。これほど衝動的に手が出たのは初めてだった。

 もしかして、彼女は知っていたのだろうか。僕の過去を。

 あるいは、他人の死に敏感になっている、幼い心への踏み込み方を……僕はそんな風に勘繰ったが、それは分からないことだった。

「私が使ってもいいお部屋については克己様からうかがっておりますので、ひとまず荷物を二階に運びますね。お昼はそれからお作りしますので」

 再びトランクケースを持ち、何事もなかったように廊下を進もうとするジェマさん。

 そんな彼女のエプロンを掴み、僕はケースを奪おうとした。重たそうだから、二階まで持っていってあげようと思った。

 それは少しばかり、酷いことを言って追い返そうとした引け目もあったのかもしれない。

「あら、紳士的なのですね。それではお言葉に甘えましょうか」

 そうして手渡されたケースは、小学生だった僕にはあまりに重くて、一人では持つのがやっとなほどだった。持ったままでは一歩動くのにも苦労した。

 結局、二階まで運ぶのに彼女の手を借りる破目になって、僕はいたずらに男としてのプライドを自傷しただけに終わった。

 ただ、一緒に二階まで運んでいた時に垣間見えたジェマさんの表情は、心の底から喜んでいるように見えた。その顔を、僕はなるべく見ないように努めた。

 

 

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