子供嫌いではない。むしろ大人より好きかもしれない。

 大人のように偏屈じゃないし、分かりやすいし、なにより小さいのがいい。場所を取らないのがいい。重くないのがいい。

 ここで言う場所や重さとは、物理的なことだけではなく、心理的側面も含んでいる。ようは扱いやすいから好きなだけだ。

 しかし。

 だからと言って、ジェマさんからの提案に対し、文句なく首肯できるかと言えばそれは違う。

 扱いやすいとは、ただ目的もなく相手をする場合に限ってのみで、生活を共にするとなれば別の話。

 そもそも誰かを居候させるなんて、アパートの契約的に問題があるのではないか。

「いいじゃないですかそんなこと。些末なことです。ほら、こんなに可愛いらしいのですから」

 軽々と少女を持ち上げ、自らの懐に収めるジェマさん。

 少女は未だルツェルン湖のように澄んだ瞳で僕を見つめている。ルツェルン湖がどこの湖だったかは僕もよく覚えていない。

 ともかくその、可愛いとかは関係ない。

 可愛さそのものは否定しないが、それは事態の収束になんら手を貸さない情報だ。

「拓海様、とある界隈において、可愛いは正義と呼ばれているそうですよ」

 違う。可愛いはメッキだ。

 いずれポロポロと剥がれ落ちていく。

「可愛げのない回答ですね。仰ることも分かりますが」

 少女の頭を撫でるジェマさん。

 さりげなく寝癖を直す母親のように優しい手つきだった。

「面倒を見ることに関しては、なにか特別なことを強いるわけではありません。この子と普通に生活していただくだけで結構です。無理に遊びに連れ出してあげる必要もありません。どのような扱いをされるも拓海様の自由です。アパートの契約は、まあ、夏休みの間だけ親戚を預かっている体で誤魔化せるでしょう」

 それは誰が誤魔化してくれるのだろう。

 その子が愛想よく大家さんに説明してくれるなら歓迎するが、それは少しも期待できそうにない。

 今のところ、少女は頬を蝋で固めたみたいに表情筋を微動だにしていないし、そもそも日本語が通用するかも訝しい容姿をしていらっしゃる。大家さんにおもねるどころか普通に挨拶できるかも怪しい。

「拓海様、他者を見かけのみで判断するのは愚者の行いです。このネブリナは確かに日本人ではありませんが、もしかしたら拓海様より明瞭な発音で寿限無を言い切ってしまうかもしれませんよ」

 そんなわけないだろう。

 と反論しかけたが、ここまで毅然と言われると安易に否定できない。

 わずかな期待を込めて、僕はネブリナと呼ばれている少女に視線を移す。

「……?」

 首を傾げられた。無表情のまま。

 やはりブラフだったらしい。僕は視線のみの不満をジェマさんに向ける。

「ご安心ください。寿限無など言えずとも会話に支障はありません。この子は一定レベルの日本語を習得しています。意思疎通は可能です」

 微分積分二次関数ができなくても生きていけますみたいな言い訳だった。

 そもそもそういう問題ではなく、その金髪碧眼の少女が日本語を習得しているか否かが最たる問題ではなく。

 僕が知りたいのは、どうしてこの子の面倒を見なければならないかということ。

 加えて――彼女の身体情報を定期的に報告するとかという、不可解な条件についてだ。

 先ほど、ジェマさんは『特別なことを強いるわけではない』と言ったはずだが、冗談じゃない。特別以上のなにものでもない。

 見知らぬ少女の身体測定を日常にした覚えはない。

「尤もな疑問です。面倒を見るだけならまだしも、後述した条件に関しては、さすがに一切の説明もなしでご納得いただけるとは思っておりません」

 では、納得できるよう説明を。

「しかしお断りいたします」

 僕は真顔になった。

 ここまで清々しい矛盾を目にしたのは初めてだった。

「理由は二つございます。一つはクライアントから他言を禁じられているから。もう一つは、そもそも拓海様にそんなことを気にされる余裕はないからです。拓海様は金銭的に困窮されており、近日中にまとまった収入を得る必要があります。しかしその見込みは現状、絶無――だからこそ、私が一つの救済措置として、とても簡単なお仕事をご紹介差し上げているわけです」

 つまり、理由は諸々の事情で話せないが、なにも考えず頷いておけば僕のためになると。

「私の心配も取り除けて一石二鳥、小皺も増えずハッピー尽くめです。拓海様が懸念されることはなにもないかと存じますが」

 懸念だらけだ。

 幼い子と生活を共にしたことがない、身体情報の報告というのがよく分からない、そこはかとなく危ないにおいが漂うなどなど。

「そのような経験をしたことがある方を見出す方が難儀です。それに、世の中には危なそうで実際はそうでもないお仕事なんて意外とあるものです。廃墟の一室で一週間寝泊りするだけとか、リストに記載された携帯番号にひたすらかけてワン切りするだけとか、指定された駅のコインロッカーにやたらと重い小包を運ぶなどなど」

 どれも犯罪のにおいがした。余計怖くなった。

「ともかく、まずは一日、お試しでも構いませんから。継続するか否かはそれから決める、ということでいかがでしょうか」

 一日だけ。お試しに。

 似たような謳い文句の詐欺を僕はいくつか知っているが、今回の紹介相手は誰あろうジェマさんだ。

 血縁で言えば紛うことなき他人、しかし一緒に過ごした年月を鑑みれば家族以上に信頼がある。無下にはできない。

 それに彼女の言う通り、現状を打破する術を僕は持ち合わせていない。

 当ても伝手もなく、明日になったらクーラーすら使えないかもしれない。この炎天下でそれは死を意味するほどの苦行。

 呑気にバイト内容を選んでいる場合ではないのかもしれない。

「そういった覚悟はもう少しばかり早く獲得していただきたかったですが、とりあえず承諾は得られましたので、今回は咎めないことにいたします」

 懐に抱えていた少女の手、その細い指先を器用に操るジェマさん。『お・と・が・め・な・し』と手話を披露。

 人形のように扱われている少女はちっとも表情を変えない。奇妙な光景だった。

「それでは、お待ちかねの条件に関する内容と、その方法についてご説明いたします。まずはこの子の体ついて、いくつかの部分を計測していただきます」

 流麗な動作で腰を上げるジェマさん。

 ついでに少女もその場に立たせ、マネキンでも使うように説明を始める。

「計測する項目は身長、体重、バスト周径、アンダーバスト周径、ウエスト周径、腹部周径、ヒップ周径、二の腕周径、太もも周径、ふくらはぎ周径、足首周径、それから一日の食事内容です。身長と各部分周径はこちらで用意したメジャーをご使用ください。体重は、壊れていないようでしたらお手持ちの体重計で充分です」

 僕は絶句した。

 身長体重はともかく、百歩譲ってバストウエストヒップまでいいとして、太ももやふくらはぎやら計測するとは何事だろう。

 疑問解消のために説明を受けているはずなのに、また新たな疑問が積もっていく。

 いや、平気で百歩譲るとか言ってしまったが、女の子のスリーサイズを計測した経験なんてない。それだけでも十二分に高いハードルだ。

「拓海様、ネブリナは子供なのですから。その程度でうろたえていては女性をリードするなんて夢のまた夢です」

 別に夢見た覚えはない。

「私は夢見ていますから。いつかちゃんと迎えにきてくださいね」

 それは遠回しなプロポーズですか。

「拓海様の浅はかなイマジネーションにお任せいたします。お恥ずかしいということでしたら、仕方がありませんから、ジャージの上から計測していただいても構いません。その際は服の厚みとして一センチ、計測数値からお引きください。身体の計測云々については以上です」

 続きまして、とジェマさんは無駄に少女を抱き寄せて言う。

「ネブリナの食事に関してです。身体情報の測定は一週間に一度行っていただきますが、ネブリナがなにを食したかは毎日毎食――朝昼晩の飲食物から三時のおやつまで正確に記録してください。材料までは必要ありません。大まかな料理名だけで結構です」

 懇切丁寧に説明しつつ、少女の唇を指で小突くジェマさん。

 一見、微笑ましい光景、しかし今の指示を聞いていると指を食べさせようとしている風にも見えなくもない。そんなわけはないだろうけど。

「…………」

 さすがの無表情デフォルト少女も困惑気味の様子だった。

 そりゃあそうだ。唇を弄ばれていい気分になるわけない。やめてあげた方がいい。

「嫌です」

 即答された。

「癖なのです。拓海様の頭を撫でるのと同じようなものです」

 性別が違うだけでかなりのふらつきが見られる癖だった。

「それでは拓海様、質問があれば今のうちにどうぞ。私とネブリナのスリーサイズ以外であればなんでもお答えいたします」

 ジェマさんのはともかく、その子のスリーサイズなら遠からず知ることになるのではないか。

 突っ込みはともかく、少女に関して一つ、大切なことを教えてもらっていない。

 それは、名前。

 ジェマさんは終始『ネブリナ』と呼んでいるが、それは名前なのか、あるいは苗字の類いなのか。

「苗字……ええ、そうですね。ネブリナとは、この子にとっては苗字のようなものかもしれません」

 歯切れの悪い返答。ジェマさんにしてはめずらしい。

 気にはなったが言及はせず、ならば名前はなんなのか訊ねた。

 日本人的な感覚で申し訳ないが、なんとなく『ネブリナ』は呼称としては扱いづらい。

 もっとこう、アリスとかキティみたいに発音しやすい名前だと助かる。

「あまり推奨はしませんが、お望みでしたらアリスやキティと呼ぶことも可能です。なぜならこのネブリナには、まだ名前がありませんから」

 今日一番の驚きだった。

 ジェマさんがいきなりやってきたことよりも、突飛なアルバイト内容よりも。

 名前を持っていない――そんな人間を前にするのは、生まれて初めてのことだった。

「手始めに、この子の名前を考えてあげることから始めるのはいかがでしょうか。ちゃんと意味のある、可愛らしい名前を」

 終始、ジェマさんの表情は明るかった。

 けれど僕は、彼女と相反してまったく相好を崩さない少女に対し、形容しがたい違和感を覚えていた。

 

 

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