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一週間前、僕はアスミを預かることになった。
その経緯についてはまず、実家でハウスメイドをしているジェマさんが、このアパートの部屋を訪れた日について語る必要がある。
その日、僕は前期の試験期間を終えて夏休みを迎えていた。大学に入って初めての夏休みだった。
部屋の中はクーラーが効いて適度に涼しかった。僕は昼食で即席ラーメンを食べたあと、ベッドの上にごろ寝してスマホをいじっていた。バイト情報を眺めていたはずがいつの間にかユーチューブでゲーム実況を見ていた。おかしい。こんなはずじゃなかったのに。
ジェマさんがやってきたのはそんな時だった――普段あまり鳴ることのない呼び鈴が室内に響き、僕はおもむろに玄関まで行った。NHKの集金じゃないことを祈りながらドアスコープを覗くと、見覚えのある外国人女性が立っているのが見えた。僕は安心してドアを開く。
「ご無沙汰しております拓海様。しぶとく生きていらっしゃったようでなによりです」
星屑入りの塗料で染色したかのように煌めく銀髪に、健康的に焼けた小麦色の肌。
それだけでも目を引くのに、それらの身体的特異性に負けず劣らず際立つ、季節感を完全無視した重苦しい色のメイド服。
それは紛うことなくハウスメイドのジェマさんだった。
相変わらずの丁寧さを感じさせつつも、彼女の挨拶はどことなく刺々しいように思えた。
「刺々しかったですか? すみません、日本語、まだあまり慣れていないようで」
慎ましくも軽やかに笑うジェマさん。
その声はどこを切り取ってもよどみのないイントネーションで、とてもじゃないが不慣れとは思えない。
容姿の通り、彼女は生粋の外国人である。フルネームはジェマ・ノエル・アーレイス。
「今日は拓海様に、ご相談があって参りました。この子と一緒に」
この子? 僕は首を傾げた。
ジェマさんは屈託のない笑みを浮かべたまま、体の位置を数歩分、右にずらす。
「…………」
彼女の背後に、金髪碧眼の少女が現れた。
現れたというか、僕の角度から見えていなかっただけで、少女は初めからジェマさんの後ろに立っていたのだろう。それにしたってあまりに気配がなかったから驚いた。
見たところ、少女の年齢は十歳程度か。高く見積もっても中学生ではないように思う。
金色に染まった綺麗な髪は、生まれてきてから一度も整えたことがないかのようにぼさっとしていて、前髪の部分なんか素人が適当に散切りしてしまったみたいになっている。失恋したってこんな歪な髪型にはしないのではないだろうか。
その上、真っ黒なジャージ姿、服の上からでも分かるほど華奢な体躯。
こう言うと色々と失礼かもしれないが、アメリカのスラム街から来ましたと言われても不思議に思わない。それほどまでに少女の姿はみすぼらしい風貌に感じられた。
だが同時に、薄褐色の肌やぱっちりした目元なんかは、どことなくジェマさんに似ていないこともない気がする。もしかして隠し子だったりするのだろうか。
「拓海様、そういうデリケートなことを面白半分でお訊ねになるのは、紳士的振る舞いとは言えませんよ」
僕の邪推は遠回しに否定された。
考えてみると、外国人なんてみんな同じように見える時もある。肌や瞳くらいなら種族的DNAの範疇なのかもしれない。
「この子についてはあとでちゃんと説明しますので、ひとまずはそんな感じで拓海様、お邪魔させていただきます」
強引に部屋の中へ上がろうとするジェマさん。そんな感じって、随分と適当過ぎやしないだろうか。
「では外で話せと仰るのですか? それがヒートアイランド現象甚だしい街なかを歩いてきた乙女二人への適切なご対応ですか? 違いますよね。拓海様はお優しい方です。天地が避けても海が割れても地球に土天海冥が降ってこようとも拓海様ならばその御身を顧みることなく私たちを助けてくださると信じております。なぜなら拓海様はお優しい方ですから。そうであるはずですから」
天使のような微笑みと過剰な信頼。僕は軽く辟易した。
結局、押し切られる形で二人を部屋に通す。
というか、そんなに暑いのならもっと服装について考えるべきだ。いくらメイドだからって夏に長袖やロングスカートはどうかと思う。
金髪の少女もほとんど素肌を見せていないジャージ姿だし、しかも太陽光を吸収しやすい黒色をチョイスしている。これでは暑くない方が不思議なくらいだ。
「いえ拓海様、私の故郷に比べれば、日本の暑さなど温水プールのようなものですから。大したことはありません」
さっきと言っていることが違うような。
「さて拓海様、単刀直入にお訊ねしますが――ただいま、生活の方は支障ありませんか?」
僕は目を泳がせた。ついでに軽く顔を背けた。
が、ジェマさんが僕の顔を掴み、ギギギと自分の方へ向けさせる。首が痛いです。
「拓海様、この際の黙秘権はなんの益ももたらしませんよ」
ジェマさんは言った。怖いくらい優しい声色のまま。
「私は、拓海様の口座残高を常に把握しております――拓海様が今月の家賃を支払えるかどうか、非常に危ういという現状も」
彼女の言う通りだった。現に僕は中々の危機に瀕していた。
僕は大学入学を機に一人暮らしを始めた。いつまでも親に甘えていてはいけないからとか、行きたい大学が遠方にあったからとか、尤もらしい理由をつけて。
父さんは昔から家を空けることが多かった。海外に拠点を構えて働いている、とだけ聞かされていた。なんの仕事をしているのかは今もよく知らない。
母親は僕が八歳の頃に病死した。その時はさすがの父さんも帰ってきたが、すぐにまた仕事へ戻っていった。
そのせいで、実家では一人でいることが多かった。週替わりのベビーシッターが面倒を見てくれたが、最低限のご飯を作ったり洗濯をしてくれたり、たまに掃除をしにきてくれるだけだった。あとは基本的に一人だった。
そんな日々が劇的に変わったのは、十二歳になった時のこと。
海外にいる父さんから誕生日プレゼントが届いた。物心がついて以降はそれが初めてのプレゼントではないかと思った。
しかし届いたのは、物ではなく――者。
まさに彼女、ハウスメイドのジェマさんだったのだ。
「もうすぐ家賃の支払い日ですよね? 失礼を承知で申し上げますと、あのような貧相な残高では到底……一人暮らしを始められて半年もせずにこれでは先が思いやられます。あるいは先が見えてしまいます」
そうですか。僕はお先真っ暗でなにも見えません。
「口だけは達者でなによりです。話の続きですが、拓海様の口座、六月まではアルバイトによる収入が見受けられますが、七月にはそれがありません。それまでもかなり綱渡りの生活をされてきたようですが、ついにその貧弱な綱も切れかかっているようにお見受けしました」
なにもかも筒抜けみたいだった。もうなにも言わずとも見透かされているのではと思いつつ、僕はその場に居直ってことの顛末を話すことにした。
生活費を稼ぐにあたって、僕が始めたアルバイトは塾講師だった。
時給が高いからなんて単純な理由で選んだのだけど、例年より生徒数が少ないからということで僕の仕事がなくなってしまった。
ゆえに七月分の収入はゼロ。たぶんあの塾は潰れるだろう。夏期講習だってろくに来ないみたいだったし。
「塾の心配よりご自分の心配をしてください」
ていっ、とジェマさんからチョップをくらう。軽量なオノマトペの割には結構痛かった。
「そもそも、時給だけ見てアルバイト先を選ぶこと自体が浅はかです。幼児用プール並みに浅い考え方です」
逆に想像しにくい喩えだ。
「確かに塾や家庭教師などのアルバイトは、ほかのお仕事に比べ時給が高い傾向にあります。しかし実際はサービス残業が多いなど、本来の時給ほど稼げないこともあります。今回のように生徒数によって仕事がなくなることもあるのですから、もう少し熟慮してバイト先を決めていただかなくては……」
言われ放題だった。
ジェマさんは博識だ。たわしからミサイルまで、万物の仕組みを理解していると言われても僕は驚かない。
「褒めてもなにも出ませんよ」
ジェマさんの照れ笑いを引き出せれば充分なんです。
「素敵なお言葉ですね。もはや諭吉一枚も引き出せない口座を抱えた方が口にされるお言葉とは思えません」
明日が来れば鳥も歌います。
「それは浮浪者の台詞ではないですか。そんなの、私は絶対許しませんから」
とは言われたものの、家賃の支払い日はすぐそこまで迫っている。
今から都合よく稼げるアルバイトは、あるにはあるだろうけど、日雇いは体力的にきついのが多そうで嫌だ。もっと楽に稼げる方法はないものか。
「これほどの窮地だというのに、まったくもって脳天気な思考回路ですね」
ジェマさんが大きく溜め息をつく。
それから「ご心配には及びません」と語気を整え、
「アルバイトは、すでに私が用意しております。塾講師よりも拓海様に向いていて、体力も専門的な知識なども一切必要としない……それでいて極めて高収入で、とてつもなく簡単なお仕事です」
とてつもなく怪しい謳い文句だった。
怪訝な表情を形成した僕に、ジェマさんは優しげな微笑みを向けて言う。
「本当に簡単ですよ。彼女の――『ネブリナ』の面倒を見ていただくだけですから」
ネブリナ。
不可解な単語を聞いて、僕はハッと、ジェマさんの隣に座っている金髪碧眼の少女を思い出した。
少女は息を殺したようにジッとして、体育座りで曲げた膝に頬をつけ、傾いた無機質な眼差しでこちらを眺めている。
それは痛々しく思えるほど純真で、冷え切った気配が漂う瞳だった。
「彼女の面倒を見ること、それから、定期的に彼女に関する情報、特に身体情報などを報告すること。それが、拓海様に行っていただきたいアルバイトでございます」
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