第二十五話 俺は生きている
石造りの廊下に反響するザルツとカーサの足音は、ゆっくりと長く響いたが、やがて遠くなり、聞えなくなる。
それを確かめ終えると、セダイは、ためらいなく王の首筋を剣で切り裂いた。
「ぐっ……!」
「陛下……!」
衛兵たちが叫ぶ。
セダイは、それを何ら気にする様子もなく、ゆっくりと血を噴いて倒れるサレス二世を睨みつけている。そしてこう吐き捨てるように、囁いた。
「……俺は、許せないのですよ……。ザルツの命を弄んだ陛下を。そして、ザルツを自由にするには、陛下の命を頂戴するしか、なかったのですよ……。よって、この無礼、お許し頂きたい」
セダイの憎悪に滲んだ台詞を浴びながら、豪奢な衣装を血に染め、床に崩れた王の姿に、衛兵たちはなすすべなく立ちすくんでいた。だが、やがて我に返ったように謀反人を罰すべく、血まみれのセダイを取り囲んだ。
セダイは不敵な笑みを浮かべて、その様子を一瞥する。
「ほう……俺を
衛兵は取り囲まれてもなお平然としたセダイの言葉に慄然とした。
だが、数瞬のち、我に返った指揮官の声で一斉にセダイに刃を向ける。
「医官1人に何をしている! かかれ!」
途端に、両手の指を合わしても足りぬ数の剣先が、セダイに襲いかかる。
だが、セダイはそれを
ただ、目を閉じ、友の無事を心の中で叫んだ。ただ、それだけを。
そして、まさにセダイの身に、複数の刀が突き刺さろうとしたときのことだ。
「待たれよ!」
牢の中に新たな怒号が響いた。
もはやこれまで、と思い、死を覚悟して視線を澱んだ床に投げていたセダイが、はっ、と顔を上げる。先ほどカーサとザルツが連れ立って出て行った扉に目を向ければ、そこには、武装した十数名の兵士が立っていた。そして、一瞬の虚を突いて、こう叫びながらセダイの周りに立つ衛兵達を勢いよく切裂いていくではないか。
「セダイ殿、ここは任せるがよい!」
「貴殿たちは……?!」
すると、飛び散る血しぶきの中で、訝しげに兵士の身分を問うセダイに、彼らが堪えた。
「我々は、叛乱軍首領、アーノルド准将の配下の兵である! 斥候として城内に忍んでおったが、王さえ死せばもはや機運は我らのもの。セダイ殿、貴殿には盟友であるザルツ殿をお頼み申す!」
「……礼を言う!」
そう言うや、セダイは衛兵と兵士の乱闘から飛び退くと、勢いよく身を翻し、カーサに支えられた友の後を追うべく、牢を飛び出した。
最後の扉の鍵を開けると、眩しいばかりの昼の光がザルツとカーサの目に飛びこんできた。ザルツにとっては、実にひと月以上ぶりの陽の光である。
なけなしの力を振り絞って外に飛び出たザルツは、よろけながら、土の上に転がった。新鮮な空気が肺になだれ込む。ザルツはそれをむせながら吸い込み、やがて、しばらくの沈黙の後、カーサの顔を見、ぼそりと呟いた。
「カーサ……。なぜ、戻ってきた。俺をなぜ死なせてくれぬ……」
その言葉に思わずカーサも土の上に座し、ザルツにまっすぐ向かい合う。
そしてザルツの傷だらけの体を勢いよく抱き寄せて、叫んだ。
「ザルツ……! セダイが言ったとおり、あなたが護ることで私は生きながらえてきたのよ、だから、今度は私があなたを生かす、護ってみせる! そう決意して、戻ってきたのよ! 妻として、護衛でも監視人でもないあなたを、夫を護ってみせると!」
カーサの頬に涙が伝う。
カメルアの夏の風がその飛沫を
ザルツは、そんなカーサの腕の中でただ、動けずにいた。
「でも、私にとってあなたが何者であっても、かまわない。それこそ護衛でも監視人でもいい。ただ……あなたが、生きていてくれて、嬉しい……。それだけよ……」
カーサは泣きじゃくりながら、途切れ途切れにザルツに抱えてきた積年の想いを伝える。これで伝わるのだろうか、私は何を言っているのか、自分でも分からない、でも、でも、と、心の内を混乱させながら。
しかし、その時のカーサには、それが精一杯の、ザルツへの愛の告白であった。
やがて、ザルツがぽつりと呟いた。
「……俺は、まだ生きていて良いのか」
「……そうよ、私の傍で生きていて……」
カーサはなおも泣きながら頷いた。
ザルツも、思うように動かぬ手で、そっと、カーサの頭を抱き寄せた。カーサの頬のあたたかさが、ザルツの固く冷え切った体に、そして心に勢いよく注ぎ込む。
……俺は、生きている……。
牢をようやく脱したセダイの目は、愛しい友とカーサがひっしと抱き合う姿をたしかに認め、彼は赤く汚れた顔に笑みを浮かべながら、ふたりを眺めた。
夏の光のなか、城の片隅の草いきれに重なるその影は、互いの命を確かめ合うひとつの彫像のようであった。
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