第十八話 彼を愛しています

 カーサは目を開けた。

 あれ、今日はあの気配がない。


 ……ザルツがいない。


 そこは故郷、マグナラリレの自分の屋敷であった。

 カーサは深く息を吐いて、懐かしい自室の調度品を見回した。

 もうマグナラリレに帰ってきてひと月になるというのに、なぜだろう、一向に故郷にいる気がしない。父やサズをはじめとした故国の人々は、歓喜の声で自分を迎えてくれた。たしかに自分もその喜びに応え、やっと戻ってこられた、そのときはそう思ったのだ。


 だが、もうひと月も経つというのに、カーサは朝、目覚めると、まずその肌で、ザルツの気配を求めてしまう。ついで、暗い光を湛えた目をした、ザルツの面影を心中に追ってしまう。


 ……しっかりせねば。ここはマグナラリレ、あれほどに帰るのに憧れた、私の故郷なのだから。


 カーサは寝乱れた黒髪を大きく振って、ザルツのことを意識から遠ざけ、起き上がった。マグナラリレの暑い夏の気配をにじませた太陽の光が、窓から強く差し込んでいる。

 そして、カーサは、今日は休暇を取ったサズが屋敷を訪れる日であることを、ようやく思い出し、慌てて身支度を整えはじめた。



 サズは不満であった。


 自分が「助けて」きたカーサが、マグナラリレに帰ってきても、ことさら、ぼんやりしていており、心ここにあらず、といた様相であるのが。

 カーサがマグナラリレに戻ってからひと月。

 だが当のサズも、カメルアの王宮での屈辱的な敗北が心から消え失せない。


 ことに、サズの心の中にあるのは、あの決闘のさなか、薄笑いを浮かべた相手ザルツの顔であった。

 それを思い出すたびに、サズはこう言われているような気がするのである。


 ……お前の大事な女は、もう俺のものだ……。


 そのザルツの声が心中に響き、サズのカーサへの想いをより苦しくする。


 よって、その日も、カーサとサズはどこか許嫁という関係からはほど遠いような、ぎごちない雰囲気の中で茶を飲んでいた。そして、サズはその雰囲気に耐えかね、言ってはならぬことを口にしてしまったのだった。


「あの男の事を、考えているのか」


 その言葉にカーサははっとし、顔をこわばらせた。そしてカーサは、取り繕うような笑顔で、サズに向き直った。


「何の……、誰の事……?」


 カーサは自分が不自然な笑みをしていることを自覚せざるを得なかった。そして、それがサズの怒りを誘うであろうことも。

 思った通り、返ってきたサズの言葉は怒気をはらんでいた。


「俺に言わせる気か」


 サズは茶器を指ではじいた。澄んだ音が部屋に木霊する。

 カーサはそれが、サズが怒っているときの癖だということに気づき、びくり、とした。しかし、なおもサズは茶器を指ではじくのを止めない。

 やがて、サズはその癖を止めたが、今後はすっくと席を立つと、カーサの腰掛けているソファーにゆっくり近づいてきた。そして、いきなりカーサをその場に押し倒した。

 ソファーのビロードの感触、そして抗えない腕力を頬に覚え、カーサは思わず叫んだ。

 

 ……叫んでしまった。


「助けて! ザルツ……!」


 ……かっ、と目を見開いたサズと、息をのんで自分の口を押さえたカーサの間に、重たく冷たい沈黙が広がった。


 カーサは咄嗟の事態に、その名を叫んでしまった自分に、おののいた。

 一方、サズは納得したとばかりに深く頷き、顔をしかめながら、ゆっくり長髪を揺らし、カーサからその身を離した。


「やはりお前の心にあるのは、あの男か……誠に、夫婦めおとの仲であったか」


「やだ、やめてよ、それは作り話に過ぎないって、ちゃんと話したじゃない。サズ、あなたがいきなりすぎるから、だから私、つい……」


 カーサは笑おうとした。

 だが、サズの目に怒りの炎が翻っているのを見て取り、言葉を詰まらせた。


「咄嗟の時に、つい、声に出すような男が、普通の関係と申し開きできるのか!」


 カーサは全くもって何も言えなかった。何もかもがサズの言うとおりだった。

 たしかに、1年という長きにわたって護衛であったとはいえ、ザルツの名を、よりにもよってザルツの名を、自分は叫んでしまった。

 それも、許嫁であるサズの前で。


 ……私は……。


 カーサは思わず、混乱のあまり勢いよく立ち上がるや、ドレスの裾を翻し、部屋から飛び出た。が、扉を開けてみれば、そこには父の姿があった。


「父上……」


「階下まで聞えたぞ、カーサ」


 そして、父は静かにカーサの目を見つめると、問うた。


「お前は……、その、ザルツとやらを、愛しているのか?」


 カーサはごくりと唾を飲んだ。

 そして、想いもがけぬ答えが自分の口から漏れ出たのを聞いた。


「……ええ、愛しています」


 背後でサズが短く呻いたのが聞えた。父の目の色が陰る。

 だが、口にしてしまえば、カーサのザルツへの想いは急激に確信へと昇華しつつあった。

 カーサは覚悟を決めるように、もう一回、今後はその名をきちんと言葉に入れて、口にした。


「私は、ザルツを……、愛しています」


「……そうか。なら、もうここにはおれぬな。カメルアに行け、カーサ。そしてそこで生きろ」


「父上……、ごめんなさい、私……」


 カーサは父とサズの気持ちを考えると、言葉を継げなかった。そしてこれが故国との今生の別れになることを予感し、心がひび割れんばかりであった。


「カーサ、良いのだよ。お前が偽りの気持ちのまま、マグナラリレで生きるより……。旅の支度をしてこよう」


 

 カーサが身の回りの整理を終えた頃、父の手によってカーサのカメルア往きの旅支度はすっかり整っていた。あの日、ザルツが連れてきた馬も手入れをされ、改めて鞍を付けられ、嘶きを上げている。

 カーサは荷物を父から受け取ると、迷いを解き放つように勢いを付けて、馬に飛び乗った。


 だが、せめてなにか、別れの言葉を……、と父の顔を見返したとき、父が鋭く馬を鞭打った。

 馬はカーサを乗せ、弾かれたように走り始める。

 カーサは慌てて手綱を握り、そして父の声が風に舞うのを聞いた。


「幸せになれ、お前だけの幸せを掴め、カーサ……!」


 カーサは森を駆けた。

 1年前のあの日、オルグに襲われた森を。

 無理矢理、故郷から引き離される発端となったあの森を。

 だが、いま、自分は、その森の中を、自らの意志でカメルアに向かっている。


 誰に、何を言われようとも、かまわない。

 自分のことを、ザルツが、どう思っていようとも、かまわない。

 ただ、私は、ザルツの傍に、いたい。


 カーサの瞳には強い意志が宿っていた。馬は夏の風の渦を流れるように、マグナラリレからカメルアに向かって駆けていく。

 それは、もう戻れぬ道であった。だが、それでもいい、とカーサは思った。その決意がカーサの瞳を涙の色に滲ませる。


 だが、宿った意志は覆ることなく、すでに強くカーサの胸に、刻印の如く刻み込まれていた。

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