第十六話 ザルツの企み
「ザルツ! その馬はどうしたの?」
カーサは驚いた。ザルツが宮廷に急に呼ばれ、何事かと思っていたら、今度は突如、王紋を頭に掲げた2頭の馬を引いて戻ってきたのだから。
カーサは思わず館から飛び出た。
春の午後の陽を浴びた、つがいの馬の嘶きがカーサを迎える。
「まあ、なんて毛並みの良い馬。立派な鞍も付いているわ! マグナラリレでは、私、女にしては馬の乗り手として上等だって有名だったのよ。うふふ、良い子、良い子」
カーサは、久々に見る馬を興奮気味に撫でている。その楽しげな笑顔を見、ザルツは己の暗澹たる気持ちに一瞬光が差したように感じた。だが、それも瞬時のことであった。
「……ザルツ。……何かあったの?」
ふと馬から目を離して傍らを見れば、いつも以上に険しい面持ちのザルツがいる。
だから、そんなザルツが、こんなことを言うとはついぞ思わなかったので、カーサの驚きはまた新たなものになった。
「カーサ、遠乗りに出かけよう。陛下に、今日だけは良いとのお言葉を頂戴した」
「え……? いいの?」
「ああ、王城からはあまり距離は取れぬがな。さあ、急いで乗れ。夕方になってしまう」
カーサは、いつも以上に口数の多いザルツを多少、訝しげに思った。だが、久しぶりに馬上の人となれる嬉しさが、それを打ち消した。カーサはザルツに促されるままに馬に乗った。一年ぶりの感触が心地よく、勢いよく歓声を上げながら馬を走らせる。そして、ザルツも素早く馬に乗ると、そのあとに続いた。
ザルツの誘導でふたりがたどり着いたのは、城から少し離れた小さな森だった。春の日差しはすでに傾き始め、涼しい風が馬を下りた二人を包み始めていたが、カーサは久しぶりに与えられた軟禁からの解放に、心躍らんばかりだった。
草の上でスキップをする。
思いっきり息を吸う。
肺に、ここしばらく感じたことのなかった新鮮な空気が、流れ込む。
カーサは、思わずこの一年のことを想い返したが、今この瞬間を生きている幸せが、労苦と悲嘆にそのときばかりは勝ち、呟いた。
「私、生きていて良かったのかも……、しれない」
そう言いながらカーサはザルツを見つめた。あなたのおかげね、そんな言葉が幸福感のあまり、つい出そうになり、慌てて飲み込む。
ザルツもカーサを見つめ返す。
ザルツは息を整えると、カーサに一歩近づいた。
「……ザルツ?」
ザルツは歩みを止めない。一歩、また一歩カーサのほうへと歩み寄る。その目はいつもの暗い光以上に、なにか不穏な色があった。それを肌で感じ取り、カーサは思わず後ずさりした。
だがザルツはまた一歩、一歩とにじり寄る。
「……ザルツ? 何? 何なの? ねえ……」
気が付けば、カーサの体はザルツの腕によって、太い木の幹に押さえつけられていた。カーサの体に、得も知れぬ震えが走る。だが、ザルツは無言のままカーサを見やると、次の瞬間、胸の短剣を勢いよく鞘から抜き、カーサの胸の前で振りかざした。
「ザルツ! やめて!」
カーサは恐怖のあまり、目を瞑り叫んだ。
瞬時にどろり、とした生暖かい感触が手と腹部に広がり、衣服を濡らすのを感じた。
だが、そこに、痛みは、無い。
カーサはおそるおそる目を開ける。
すると、自分の手は真っ赤に染まっていた。ザルツの血で。
そして、剣はザルツの腹部に深々と刺さっていた。ザルツの手によって。
「……ザルツ! 何で! 自分を!」
「カーサ……。いま、マグナラリレの使節団が王都に来ている……その……なかにはサズ、が、いる……。使節団はこの森から遠くない、マグナラリレの公館に、宿泊、しているはずだ」
血を吐きながら、ザルツは苦しい息の下、一言一言を絞り出すかのように、途切れ途切れに語を継いだ。
「ザルツ……!」
「逃げろ……、公館へ……。俺を、刺して、逃げて、きたと言えば、全ての、辻褄はあう」
それだけ言うと、ザルツは草の上に崩れ落ちた。
脂汗が頬を伝う。暗転しつつある意識のなかで、カーサが草を蹴って駆け出す音が聞える。次いで、馬の嘶きも。
……それで、いい。
ザルツの最後の言葉は夕空に消えた。
晩春の夕風が、ひとり草いきれに沈んだザルツの血まみれの体を、静かに撫でていった。
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