三都殺しのメッセージ
@OK-NOVEL
第1話
京都には色々な顔がある。観光の町、学生の街、そして暮らしの町である。観光にばかり目が行きがちであるが、京都には様々な暮らしがある。
10月20日
京都市北区北野邸
「お父さん、俳句しか頭にないの。たまにはお母さん孝行でもしはったら。」
「今までさんざんしてきたやないか。これ以上何をせえ言うんや」
北野一句は俳句会「京洛」を立ち上げてから5年になる。会社を定年退職後、それまで出来なかった事をしようと、趣味を生かして句会を立ち上げたのである。メンバーは関西一縁で百人を越えている。人気の秘密はその俳句のセンスの良さにある。季語にとらわれることなく、現代の風情や情感を巧みに織り混ぜた句風は若い女性にも人気があり、加えて年齢を感じさせない若々しさで、特に中年女性の指示を得ている。
《秋色のマフラー風になびかせて》
「お父さんの俳句に出てくるのは必ず女の人やね。何で」
「世の中、男と女しかおらへん。常に男は女を、女は男を意識して生きている。この俳句かて、男の目を通した女や。女が女の句を詠んでも情が出えへん」
「なるほど。お父さんの女好きは死ぬまで直らへんね」
「あほ!その気持ちが無くなったら、人間辞めなあかん」
北野絵里、20歳。一句の一人娘で、一句が40歳を過ぎてからの子供である。京都の大学に通う女子大生で、目に入れても痛くないほどのかわいがりようだ。たまに友人と父親の句会に顔を出している。
「お父さん、今日私も行っていい。友達の美樹ちゃんも行ってみたいらしいの」
「友達が来るんやったら、ええよ。お前一人やったらあかんけど」
「嫌らしい。変な事せんといてね」
「あほ!何をするんや!娘の友達に失礼な事はせんよ」
京都嵐山。
遷都千二百年、常に京都観光の中心にあり、今でも人の波は絶える事がない。俳句会「京洛」も定期的に嵐山で句会を催している。
阪急電鉄嵐山駅で下車し、保津川下りの終点、渡月橋を渡ると、道の両側には土産物屋が軒を連ね、売り子達が観光客に声をかける。いつも見慣れている風景だが、今日の社にその声は届いていない。非番に何を思ったか、新聞に嵐山の句会の記事を見つけ、柄にもなくそこへ向かっているのだ。一つには自宅の近くで催される事、そして最近の殺伐とした事件を忘れたいとの思いからだ、と自分に言い聞かせながら歩いている。心の中に少し照れがある。
「すみません!」
突然の呼びかけに、振り向くと、着飾った中年のおばさま二人が立っていた。一人は年齢50歳前後で、高級クラブのママ風の女性。後の一人は、十歳ぐらい若いだろうか、なかなか品のある美人だ。二人ともその辺の、おばちゃんとは少し違った雰囲気を醸し出している。
「道を教えて頂けませんか」
関西なまりだが、嫌らしさがない。
「どちらまで」
「私たち俳句の会に行くのですけど、このあたりに北嵯峨亭という料亭はありませんか」
「あ~、在りますよ。この坂を50メートルくらい行くと左手に《我妻》という茶店がありますから、そこを左に行くと竹林が見えてきます。すぐに分かりますよ」
「有り難うございました」
<私も行くのですよ>と言いたかったが、気後れしてしまった。こんなおばさま方ばかりなのか。辞めようかなと思ったが、二人の雰囲気に飲まれてしまい、その後を、少し離れてついて行った。
学生時代は、国語や、英語には自信があった。俳句もその短い文字の中に、ストーリーを感じ、なんとすばらしい文学なんだと感嘆したものだ。しかしそれ以上は求めなかった。この年になって、遅ればせながら何か始めたいと思っていた矢先の記事だったのだ。
《嵐山(らんざん)の秋の出会いにときめいて》
風もないのに背中がゾクッとした。やはり才能はないな、と自分に言い聞かせながら歩いていると、二人を見失ってしまった。
毎日、人間の裏側ばかりを見ていると、つくづく嫌になってくる。自分自身が同じような人間になるのではないかと思うと、何か違うものに接したいと願うのかもしれない。
北嵯峨亭
京都でも指折りの料亭である。一見さんは利用できない。社は過去に2度訪れたことがある。一度は招待で、二度目は聞き込みのためだった。
自分には縁のない所だと決め込んでいたが、句会は自由参加と記事にあったので、今日は一見でも入れる。印象に強いのは、ここの女将が元女優で、先代に見そめられ、後妻に入ったが、一年も経たずに先代は亡くなってしまった。その時の死因が特定できなかったので、社の出番となったのである。
結果的に、司法解剖に廻されたが、心不全ということで、決着がついた。 だが、女将が殺したという噂が今も絶えない。先代には子供もいなかったことから、北嵯峨亭の財産はすべて女将のものになった。これが噂のもとになっている。40歳になるかならないかの年である。加えて女優をしていたほどの美貌で、男どもがほっておくわけがない。男の噂も絶えない。先代が亡くなったときに担当したのが社だった。女将とは3度会っている。1度目は北嵯峨亭で、後の2回は洛北署の調べ室だ。殺したという証拠もなく、動機もなかった。幸せな暮らしをしている女が、亭主を殺す理由はどこにもない。
女将の美貌に魅せられている一人が北野一句である。値が張る料亭での句会を月に1度は開催している。もちろん会場は借りるが会員から会費を取るので一句の財布は傷まない。加えて女将にも会える。一句にとっては一石二鳥なのだ。
北嵯峨亭の門は開いていた。表門から入り口まで2、30メートルはあるだろうか。広い敷地だ。暖簾をくぐると、受付台があり、二人の女性が「こんにちは」と声をかけた。社は戸惑いながらも
「俳句の会に参加したいのですけど」
脂汗が出てきた。
「ようこそいらっしゃいました。初めてですか」
「はい、新聞で読んだものですから」
「初めての方は会費は必要ありません。句会の後で、入会を希望される方はそのときいただきます。入会されなくても結構です」
「分かりましたお願いします」
「ロビーで皆様お集まりです。10時半から始まりますので、 そこでお待ち下さい」
言われたとおりロビーに行くと、30人ぐらいが集まっていた。立っておしゃべりをしている者、ソファーに座り、俳句談義をしている者、女ばかりかと思っていたが、男も何人かいたので内心ほっとした。長いすの端っこに座った。
まだ20分ある。そこへ女中がお茶を運んできた。
「お一つどうどす」
「有難う」
と受け取り一口飲むと、横に座っていた、60年輩の男性が
「お一人ですか」
と声をかけてきた
「そうです。途中でよっぽど辞めようかと思ったのですが、ついつい来てしまいました」
「私もそうですよ。初めての時は皆そうです。私は2年ぐらいになるのですけど、ここは初めてです。いつまでたっても上手にはなりません。田島といいます。神戸から来ました。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします。社です」
その時、女性の声で、
「《京洛》の皆様お待たせいたしました。ただいまから、《紅葉の間》で句会を開催いたします。お移り下さい」
《紅葉の間》と言うので、畳の間かと思ったが、テーブルと椅子の部屋だった。テーブルにはネームプレートが置いてあり、当然社の名前はない。先ほどの案内の女性が
「初めての方は、各テーブルに、名札の置いていない席がございますので、そこへおかけ下さい」
見回すと、奥の「鶴」のテーブルが一つ空いていたので、そこへ座った。 しばらくすると、新聞記事に出ていた男が出てきた。なるほどなかなかの男前である。60歳過ぎには見えない。人気の理由が分かったような気がした。
「皆さんお早うございます。2週間ぶりになりますね。ようやく秋めいて参りまして、俳句にも絶好の季節となりました。今日は初参加の方々も何人かおられます。緊張しておられると思いますので、会員の方は、優しく声をかけて上げてください。 本日も、会の終わりに優秀句を5句選び。その中から最優秀句を一句選びます。北嵯峨亭の女将のご厚意によりまして、庭を散策しながら俳句を詠むことにしております。秋を題材にした趣のある句を詠んでください」
一句の挨拶が終わり、各テーブル上に飲み物が配膳された。ビール、日本酒、コーヒーと並んだ。ビールが飲みたかったが柄にもなく遠慮してコーヒーにした。その時、部屋の戸が開けられ
「ごめんなさい、遅れてしもた」
若い女が二人現れた。
「あら!」
社のテーブルに座っていた女から声が出た
「美樹じゃないの!」
社に道を尋ねた女二人が同じテーブルだったとは。社は緊張していて気づいていなかったのだ。
「いやねあの子ったら、何でここに?」
どうもあの若い子の一人は同じテーブルに座った女性の娘らしい
「あら、お母さんびっくりしたわ!どうしたの?」
「あなたこそどうしたのよ?ここは俳句の会よ!」
「知っているわよ、友達のお父様がこの句会の主宰なのよ」
「え!この方が娘さん?」
「そう、大学の同級生」
「初めまして、娘が何時もお世話になっています」
「こちらこそよろしくお願いします。」
「美樹!皆さんの邪魔をしないようにね!」
「はーい!」
何とも、予想もしない場所での親子の対面である。社はコーヒーカップを手にして席を立った。
散策をしながらの句作なんて始めての経験で、何をして良いか分からず、庭を歩いていると、竹林の方向で
「キャー!」
という女性の声がした。声の方へ走っていくと、二人の女性が竹林の側で茫然と立ちつくしていた。社に道を尋ねた二人連れだ。
「どうしました?」
と尋ねると、竹林の方を指さしたが、声が出ていない、指した方向に目をやると、竹林の中で誰かが倒れている。近付いてみると、ロビーで社に声をかけた田島だった。脈を取ってみたがすでに息絶えていた。「紅葉の間」を出てから、20分も立っていない。社よりも一足遅れて出ているからせいぜい10分から15分ぐらいだろう。二人の女性に
「他に誰か見ませんでしたか」
と聞いたが、無駄だった。二人とも座り込んでいる。腰が抜けたのだろう。携帯電話を取り出して、110番をした。
「洛北署強行犯係の社です。殺人事件発生。場所は……」
現場保存をしながら5分もしないうちにパトカーのサイレンが聞こえてきた。現場に集まってきた「京洛」のメンバーに、決してこの料亭から出ないように伝えてから社は一人一人の顔をチェックし始めた。
やがて署轄の刑事数人が現場に来た。中の一人が社の顔を見るなり
「社さん、何でこんな場所にいるんですか?ここは右京署の管轄ですよ」
「ちょうど現場に居合わせてね、110番は俺がした」
「へ~、良いご身分ですね、昼間っから北嵯峨亭とは」
嫌みたらたらのこの男は、社が府警本部にいた頃の後輩で、三谷という。社より確か3年ぐらい後輩だ。国立大学出で、階級も警部、右京署の刑事課長だ。社が説明した。
「発見時間は午前10時50分頃だ。第一発見者は、この女性 二人。俳句会で庭を散策中に発見している。害者は田島という男で、年齢60歳ぐらい、俳句会「京洛」のメンバーだ。私も害者が殺される30分ほど前に話をしたが、神戸から来たようだ」
「死因は何ですか。凶器は」
「分かりませんね、ただ俺と離れて20分もしないうちに息絶えていたから、数分間の犯行だ。人目も在る場所だから、害者と、被疑者の 接点を誰かが見ているはずだ」
「なるほど、死体は見ましたか」
「見たが、確認はしていない。気になるのは左手に何か紙切れみたいな物を握りしめている。それを調べてくれ。
「社さんも句会に出てたんですか」
「柄にもなくな。こんな事になるなら、来なければ良かった」
「社さんにも残って貰いますよ、一応容疑者の一人ですから」
「分かったよ、向こうでコーヒーでも飲んでる。用事が出来たら呼んでくれ」
殺伐とした世界から逃れようとやってきた場所で、又殺しだ。何とも、逃れられない運命なのか。やりきれない、と思いながらも、社の頭の中は、田島と出会ってから殺されるまでの記憶を辿っている。
《田島は一人で来ていた。ここは初めてと言っていたが、ここでは
頻繁に句会が催されている。2年前から参加しているのに、初めてとは合点がいかない。その辺を調べてみる必要がある》
ロビーの椅子に座り、田島に会ってからの記憶を辿っても、わずか数分の会話なので、これと言った決め手は見つからない。
「すみません!」
又あの二人連れだった。二人とも青白い顔をしている。もちろん初めての経験なのだから無理もない。
「先ほどはご迷惑をおかけしました」
「質問は終わりましたか」
「はい、でもこちらで待つように言われました」
「大変でしたね。びっくりしたでしょう。こちらにかけてゆっくりして下さい」
「有り難うございます」
50歳代の女性は全く話そうとしない。よっぽどショックなのだろう。ソファーに深々と腰を下ろし、目を閉じている。
社は気分を和らげるため優しく話しかけた。
「ここには何回か来られているのですか」
「いいえ、半年前に入会して、ここは初めてです。京都は心が落ち着くので京都で句会がある時はほとんど来ています」
「そうですか。思い出させて申し訳ありませんが、先ほど殺されていた男性は初めての顔ですか」
「私は初めてお目にかかります。彼女も京都は私と同じ回数ですから、お会いした事は無いと思います」
「ということは、京都の句会はここだけではないということですね」
「そうです。お寺でもしますし、神社、河原、そして八瀬の方の山をハイキングしながらとか……色々です」
「それは楽しそうだ。すみません、申し遅れました。私は、京都府警洛北署の社といいます。今日は非番で新聞記事を見てここに来たのですが、こんな事件に巻き込まれてしまいました。つくづくついていません。私も容疑者の一人ですから」
「えー、そんな!それなら私たちもですか?」
「一応ね。でもあなた方が犯人かそうでないかぐらいは私にもわかりますよ。警察は分かっていても一つ一つをつぶしていかなければならないのです。ご迷惑かけるかもしれませんが、協力してください」
「分かりました。でも彼女大分ショックだったみたいで」
「そうですね。どちらから来られたのですか?」
「大阪です。彼女も大阪で、以前一緒に仕事をしていました。今は、彼女は仕事はしていません。気が合うものですから、俳句の会も一緒に入りました」
社は出来るだけ気持ちを和らげようと、話し続けた。普段は自分からこんなに話すことなどないのに、饒舌だ。無理もない、何時も事件関係者とばかりの会話である。こういう感じの女性と話をする機会はないに等しい。
「まだお名前を聞いていませんでしたね」
「橘と言います。橘 梢です」
響きの良い名前だ。大阪弁を話しているのに、今までにない品を感じる。
「彼女は桜木さんです」
とりとめのない話をしながらも、彼女から事件の核心について聞こうとするが、あまり成果は得られないようだ。単に害者を発見したに過ぎない。
もう帰してあげても良いだろう。
「ところで、句会の始めに部屋に入って来られたのは娘さんですか?」
「そうです。あの子ったらどこにいるのかしら」
「おそらく、会に参加している人は、全て話を聞かれていると思いますので、まもなく現れますよ」
1時間ほど経過しただろうか。右京署の刑事連中がロビーに入ってきた。三谷が
「『京洛会』の皆さん、本日はご迷惑をおかけ致しております。
残念ながら、メンバーのお一人が亡くなられました。今の段階では、事故死とも、殺人事件とも判別はつきませんが、私どもとしては両面で捜査していきます。現場に居合わせた皆様方は一応容疑者として調べさせていただきます。一通りお話はお聞きしましたが、これから何回かお話を伺うと思います。ご面倒ですが、再度刑事が住所とお名前を確認させて頂きます」
え~っ!と言う声があちこちから聞こえた。しかしやむを得ない。三谷は両面から捜査すると言っていたが、そうではない。間違いなく殺しである。管轄外であるが、社は自分が事件に関わらざるを得ないだろうと、思っている。本部の捜査一課も乗り込んでくるだろう。事件から逃れる事は出来ない。
社は第一発見者の二人とその娘を駅まで送っていった。
「今日は大変な日になりましたね。帰ってゆっくり休んでください。どんな些細な事でも構いません。思い出したらここへ電話してください」
と名刺を橘 梢に渡した。
10月21日
『北嵯峨亭殺人事件捜査本部』の看板が右京署刑事課前に掲げられた。
部屋には、右京署の刑事、本部捜査一課の刑事、それと各署からの応援刑事達が集まっていた。もちろんその中に社の顔もある。刑事課長の三谷が事件の概要と捜査方針について説明を始めた。
「本件は10月20日、午前10時50分頃、北嵯峨亭の中庭、 竹林の中で発生。害者は
氏名 田島 洋司 62歳
住所 神戸市北区・・・・・
肩書きは中小企業の相談役だが、実際は何もしていない
犯罪の動機は未だ不明
凶器については、薬物と判明はしているが、鑑識の結果待ちです。
以上昨日の家族の面通しにより判明したことです。
しかしながら、人定は判明したものの、それ以外は何も分かっていない状況です。
班分けをして、それぞれに任務を与えます。各班の班長は集合してください。社班長はこの捜査に加わって貰いますが現場 に居合わせた人物の一人で未だ容疑は晴れておりません」
嫌みもほどほどにして欲しい、容疑者なら捜査から外せばいいものを。何故加えたのか、社には分かっている。本部時代、三谷はさんざん社に先を越されているからだ。今度は俺の首を取ろうしているに違いない。
目をつぶって考え事をしていると
「すみません、班長よろしくお願いします。佐野大介です」 25、6歳ぐらいだろうか、背の高い若者が社の前に立っていた。
「何だ?」
「今度の捜査に加えて貰う事になりました、地域課の佐野です」
「地域課?交番か?」
「そうです。刑事志望で、今回の事件に加えて頂けるなんて光栄です」
なんと言う事だ。これも三谷の策略か。全くの素人と組まされるとは。
捜査の「いろは」から教えなければならない。ハッキリ言えば足手まといだな。刑事の仕事は元気だけでは出来ないのだ。
「分かった。よろしくな。それで何が出来るんだ?」
「何がって言われても・・、車の運転なら出来ます」
「アホ!車の運転なら俺でも出来る。それなら質問を変えよう。今までどんな仕事をしてきた?」
「はい!交番で困った人たちを助けてきました。」
「それは当たり前だろう!困った人を助けるのは警察の《いろは》だ。俺が言っているのはどんな犯人を捕まえたかを言っているんだ」
「ハイ、警察官になってまだ3年ですので、多くはありませんが、賞を3回頂きました」
「3年でたったの3回か?」
「ハイ、3回です・・・」
「よし、分かった。今日は頭を使う仕事をするからな」
「どんな事でしょうか?」
「お前大学は何を専攻した?」
佐野は質問の意味が全く把握できなかった。何故大学の専攻が捜査に必要なのか。しかし
「私は理工系です。数学を専攻していました。先生になろうかとも考えていましたが、刑事が捨てられなくてこの道に入りました」
「そうか分かった」
質問した俺が馬鹿だった。社は佐野が国語でも専攻していれば俳句の事を聞こうかと思っていた。実は殺された田島が握っていた紙切れに俳句が書かれていたのだ。俳句の会に参加していたのだから、当然といえば当然だが、その俳句が、秋を題材とした俳句ではなかった。あの時北野一句は
『秋を題材にした俳句を作るように』
と言った。でもその紙切れには秋の季語は全く入っていない。社はひょっとしたらと思っている。
『ダイイングメッセージ』
殺される時に田島が犯人を書き記したのではないかと。
紙には
《長年の怨念ここに極まれり》
と書かれていた。これだけでは何の意味かはまったく不明である。俳句とも思えないが、五、七、五の並びにはなっている。五七五だからといって俳句とは限らない。川柳も同じく五七五である。この内容からすれば、
《長年の恨みが遂に最高潮に達した》のだろうか。それとも
《誰かを恨んで、その気持ちを》句にしたのだろうか・・・
とにかく、この事件を解く鍵の一つであろうと社は考えている。被害者の身辺を調べるのが捜査の常道だ。佐野に
「おい、神戸に行くぞ」
「はい、分かりました。車を借りてきます」
「刑事は、歩いてなんぼや!お前、体力に自信あるか?」
「まかしてください、学生時代は剣道やってましたから!」
「そうか!なんかあったら頼むぞ!」
社は、神戸に行く前に一度佐野に現場を見せようと思い、北嵯峨亭に向かった。
北嵯峨亭は門を閉じていた。
「すみません」
と、佐野が門を叩いても、中からは何の返事も帰ってこない。休みなのか。
休みなら、女将は社の所属している洛北署の管轄の北区に住んでいる。あきらめかけたとき、門が静かに開いた。
「どちらさんどすか」
60歳を過ぎただろうか、年輩の女性が門から顔を出した。佐野が
「すみません、右京署の者です。中を拝見したいのですが」
「今日はお休みです」
社が、
「すぐ終わります。女将はいますか?」
「今日はご自宅です。休んではります」
「分かりました、10分で結構ですから、すぐに帰ります」
「どうぞ」
抑揚のない声だ。
「お宅はこの店の方ですか」
「そうどす、お世話になって40年になります。こんな事は初めてですわ。」
「つかぬ事を伺いますが、北野一句と女将はどれぐらいのつきあいになりますか」
「そうどすな、北野はんが、まだ会社勤めしてはるころからのおつきあいですさかい、7年くらいやと思います」
「殺された田島という男に見覚えはないですか」
「昔に見たような気はしますけど、覚えておりまへん」
「思い出してもらえませんか、大事な事なんです」
「年とりまして、さっきの事まで思い出せません」
「思い出したら又連絡もらえますか」
「へえ、分かりました。期待せんといておくおれやす」
現場はロープが張られたままである。田島が倒れていたのは竹林の中だった。死因は薬物。わずか数分の犯行である。田島と顔見知りの人間でなければ簡単に薬物を飲ます事は出来ないはずだ。あのとき、<紅葉の間>で飲み物が配られた。アルコール類とコーヒー、紅茶である。田島は確かビールを飲んでいたように思う。社とは離れたテーブルに座っていた。顔なじみだろうか50前後の女性と話をしていたように記憶している。社が部屋を出る時は、まだテーブルで話をしていた。田島が倒れていた現場には、ビアージョッキではなく、コーヒーカップが落ちていた。薬物はそのコーヒーカップから検出されたのだ。
「おい、大介。お前はどう思う」
「分かりませんが、誰かが田島に、毒入りのコーヒーを飲ませたのだと思います」
「それは分かっている、どうやって飲ませたかだ。部屋を出て数分の間に何処でどのようにコーヒーを渡したのか。田島はその人物と言葉を交わしているはずだ。田島は、この小道から竹林の中に入って倒れていた。わざわざ竹林の中まで入る理由があったのか。」
「それが分かれば事件は解決ですかね」
「簡単にはいかんが、糸口にはなる。神戸で身辺捜査の後は、目撃者探しだ。現場に居合わせた全ての人物にあたるぞ」
「はい、分かりました」
北嵯峨亭を後にして、社と佐野は嵐山駅から電車に乗り神戸に向かった。田島の家は、神戸の山の手にある。三宮から地下鉄に乗り、田島邸に向かった。閑静な住宅街を抜けていくと、慌ただしく葬儀の準備をしている一角に出た。田島家と記載された案内標識が置かれている。今日がお通夜のようだ。門をくぐって、家人を捜すと、喪服を着た60歳前後の女性が
慌ただしく家人や手伝いの人にてきぱきと指示を与えていた。「すみません、京都府警の者ですが」
と伝えると、先ほどから指示をしていた女性が
「私が家内の田島 絹江ですが」
としっかりと答えた。社が
「この度はご愁傷様です。私は京都府警の社といいます。昨日の事件の現場に居合わせた者です。慌ただしい時に失礼かとは思いましたが、一刻も早く犯人を捕まえるために、ご協力頂けますか」
「分かりました。犯人が捕まれば田島も浮かばれるでしょう」主人を亡くした婦人にしては、悲しみが少ないようにも思えたが、内心は辛く悲しいのではないだろうか。自分がしっかりしなければと思っているようだ。気丈な女性である。典型的な大和撫子だ。
「田島さんは京都にはよく出掛けていたのですか」
「いいえ、以前はよく出掛けていましたが、京都は久しぶりだったと思います」
「仕事はしておられないと伺っていますが、以前は何をしていたのでしょうか」
「退職して5年になりますが、薬品関係の会社に勤めていました」
「製薬会社ですか」
「そうです、大阪の北浜にある準大手の会社に35年間努めて、課長で退職しました。出世コースからは完全にはずれていました」
「今は会社の相談役と聞いていますが、長いのですか」
「名前だけの相談役です。給料も有りません。義理で以前勤めていた会社の子会社に名前を貸していただけです」
「そうですか、《京洛会》という俳句の会に入っておられたようですが、いつ頃からですか」
「2年ほど前に、友人から手紙を頂いて、そのころから時々俳句の会に参加していたようです」
「ということは、奥さんは参加されたことはないのですか」
「私はそのような才能は有りませんし、出歩くのがあまり好きではなかったので、誘われたことはありますが参加したことはありません」
「分かりました、忙しい時におじゃましまして申し訳ありませんでした。線香を上げさせて貰います。何かお気づきのことがございましたら、ご連絡下さい」
頭を下げ、墓前に線香を捧げてから、田島家を後にした。
三宮に戻り、佐野と南京町で遅めの昼食を取った。
どの店も入口に行列ができ、南京町の人気の高さが伺える。震災の後も復興は早かった。行列のできていない店を探し、ちょうど町の中程の2階にある店が空いているようだったので、佐野に
「大介、あの店に入ろうか」
「あの店ですか、全然並んでいませんよ。大丈夫ですかね」
「大丈夫だ。ああいう店が意外と穴場なんだよ」
自信はなかったが、社は以前にも同じような経験がある。全然並んでいない店に入って、そのおいしさに驚いたことがある。だいたい食べ物屋というは口コミで評判が出るものだ。店はテーブルが5席あり、カウンターも5席あった。早く済ませるために、二人とも定食を頼んだ。
10分もしないうちに、運ばれてきた。箸を付けて、佐野が
「これ、美味いですね、班長。やっぱり穴場です」
社も期待はしていなかったが、これほどとは思わなかった。満足して店を出た。社は佐野に外見だけで何事も判断しては駄目だということを教えたかったのだ。
「大介、他に神戸に住んでいる関係者はいないか」
「ちょっとお待ち下さい。調べてみます…神戸市内にはいないですね。尼崎には一人います。電話してみましょうか」
「そうだな、ちょっとかけてみてくれ」
「出ませんね。出掛けているのでしょうか。他をあたりましょうか」
「そうだな、田島が以前勤めていた北浜の会社に行ってみよう。何か解るかもしれない」
大阪のビジネスの中心地である北浜には、大手企業の大阪支店や、大阪に基盤を置く本社社屋が軒を並べる。特徴はいわゆる老舗といわれる店々が未だにそののれんを大事に守っていることだ。地下鉄堺筋線<北浜駅>から南に行くと道修町の界隈に薬品関係の会社が軒を争っている。その一角に老舗の一つである大阪製薬という会社がある。大阪では伝統のある会社らしいが、社は知らなかった。
薬の町らしく、堺筋を歩いていると、薬品の臭いが鼻をつく。何処の会社もビルになっているが、その入り口にはのれんがかかっている。
「大介、大阪の町の特徴は分かるか」
「いいえ、水の都、商人の町ぐらいしか知識は持っていません。京都とは違う雰囲気ですね」
「そうだな。奈良に都があって、それが京都に移った。大阪は素通りしたかたちだな。その中にあって、都の人々と商いをし、大阪商人のかたちを作っていったのだろう。これは自説だ。商いの世界には厳しいしきたりがある。ただぶしつけに質問しても反発されるだけだ。欲しい情報は手に入らない。腹のさぐり合いだから、すぐに情報を知りたがるな。4、5回目ぐらいで一つぐらいの情報だ。そう思えば気がらくになる」
「分かりました。大阪商人は転んでもただでは起きないということですね」
「そうだな。よし、入ろうか」
中は以外と明るかった。昔の丁稚奉公時代の老舗を想像していたのでちょっととまどった。ロビーには受付カウンターがあり、そこに制服を着た受付嬢が座っていた。手帳を示し、身分を名乗って、用件をつげると、「少々お待ち下さい」
と言って席を離れていった。5分ほど待っただろうか。受付嬢が消えたドアから55歳を過ぎたぐらいの、小太りの男が出て来た。ネクタイは締めているが、首が太くて、締まりきっていない。女にはもてないな。
「お待たせ致しました。何か内に関係有る事件でっか」
大阪弁丸出しである。狡猾そうだ。転んでもただでは起きないタイプだ。こちらの腹の中を探っている。社が
「お仕事中申し訳ありません。京都で起きた殺人事件を捜査していますが、その被害者がこちらの会社を退職された方だということが分かったものですから、その聞き込みに伺いました」
「田島さんの件ですか。お待ちしておりました。いずれは来られるだろうと思っていましたが、こんなに早くお越しとは、京都府警さんもなかなかのもんですな」
「いえいえ、まあ、殺人事件で被害者の周辺を洗うのは常道ですから。お待ち頂いていたのなら話は早いですね。ズバリお聞きしますが、田島さんは誰かから恨まれるよな人でしたでしょうか」
「そこですわ、私らも話しとったんですけど、あんな仏さんみたいな人が殺されるなんて信じられまへん。うちにいた時田島さんは営業の課長さんでしたけど、自分の部下を怒ったとこ見たことがないんです。恨まれるとしたら退職しはってからでしょうな」
「そうですか、田島さんは御勇退だったのですね」
「そうです。嘱託で後数年勤めたらという話もあったんですが、年寄りが長くおったらあきません、と言ってその話を断りはったんです。そしたら社長が名前だけ貸してくれ言わはって、断り切れずに子会社の相談役ということで、名前だけ貸してはったんです」
「分かりました。田島さんが現役時代に親しくお付き合いしていた方はいらっしゃいますか」
「そうですね…あまりお付き合いのええ方ではなかったさかい、そうでんな~、部下やった吉野という男がおります。そいつやったら分かるかもしれませんな」
「その方は今いらっしゃいますか」
「いえ、去年の春に退職しました。有望な営業マンやったのに田島さんが退職しはってからは冷や飯ばっかりでしたから、本人も嫌気がさしたんでしょう、今は神戸の会社に勤めていると聞いていますが何処かは分かりません。以前の住所を教えますさかい、調べてください」
社と、佐野は吉野の住所を聞いて大阪製薬を後にした。収穫が有ったといえば有ったし、無かったといえばなかった。
薬の臭いの中で社は幼いころのことを思い出していた。田舎は鹿児島の片田舎だ。社は幼いころ体が弱く、何時も薬の世話になっていた。それぞれの家に置き薬があり、富山の薬売りが定期的に家を訪れていた。その置き薬の臭いがする。
吉野の家は東淀川の淡路にあった。阪急電車の淡路駅を降り、西に行くと西淡路という町がある。古いアパートが建ち並ぶ一角である。
寿荘というアパートの2階の奥に吉野と書かれた名刺が貼られていた。佐野がドアを叩いたが返事がない
「仕事に行っていますかね。まだ5時ですから」
「そうだな。暫く表で待ってみようか」
とドアの前で話をしていると、ドアがそっと開いた。
「どちらさんですか」
と言って70歳くらいの女性が顔を出した。佐野が手帳を示し
「あ、すみません京都府警のものです。吉野哲男さんはいらっしゃいますか」
「いいえ、まだ会社から帰っていません。昨日から出張で広島の方まで行くと言っていましたが、帰りはいつとは言ってませんでした。哲男が何かしましたか」
「そうではありません。じつは京都で殺人事件があって、その被害者が、吉野さんの元上司だったと分かったものですから、お話を伺いに来ました」
「そうですか。それはお気の毒に」
「吉野さんのご家族は」
「嫁と子供が二人いましたが、2年前に離婚して、今は私と二人です」
「もし帰って来られましたら、連絡をいただけますか」
社と、佐野は吉野の会社の所在地を聞き、連絡先を吉野の母親に渡してアパートを後にした。収穫はあまり無かったが、初日から糸口が見つかるはずもない。田島は会社では<仏のようだった>という。しかし部下だった吉野は田島が退職後は冷遇されたようだ。このあたりに殺しのナゾが潜んでいるかもしれない。
「大介!明日も神戸に行くぞ。吉野の会社をあたろう」
「はい!分かりました」
二人は電車に乗り京都へと向かった。
右京署に戻ったのは午後の7時を過ぎていたが、部屋には明かりがついていた。刑事達が机に向かい、今日の聞き込みの報告書を作っていた。
三谷刑事課長が
「社班長!何か収穫は有りましたか」
「以前勤めていた会社に行ってみましたがこれと言った話は聞けませんでしたね。明日又別の方向であたってみます」
報告書を作ってから社は佐野を食事に誘った。8時を過ぎていた。右京区のあたりは8時を過ぎると人通りも少ない。佐野に
「河原町まで出よう。近づきのしるしだ酒でも飲むか。飲めるんだろう」
「はい、好きな方です。学生時代はよく失敗もしましたが」
社は佐野を高瀬川が流れる、木屋町通りの居酒屋へ誘った。
河原町は地元の住人と観光客が入り交じって混雑していた。秋ともなると日本各地から観光客が訪れる。人の波をかき分けながら行くと、木屋町通りに入り急に人の波が小さくなった。木屋町通りを北に上がると、50メートルもしない東側に社が行きつけの<虎の兎>という居酒屋がある。細い階段を昇って行くとカウンターが8席、テーブルが3席のこぢんまりとした居酒屋だ。3階も有るようだが上がったことはない。ここの板長は確か女性である。滅多に顔は見せないが、季節季節の料理に京都を感じさせてくれる。観光客はあまり訪れないようだ。常連さんが多い。
社がビールを飲みながら
「大介は出身は何処なんだ」
「私の田舎は山口県です。小郡の高校を出て、京都の大学に来ました。親父は田舎の小学校の校長先生です。私が警察官になるといった時は、さすがに寂しそうでした。自分の後を次いでくれると思っていたようですから。でも今は応援してくれています。早く立派な刑事になれよとこないだの手紙には書いてありました」
「そうか、子供は親を見て育つが、大きくなると親の言うことは聞かなくなる。自分の力で道を決めていくんだよ。そのほうがいい」
「有り難うございます。そう言って頂ければ救われます」
「ところで大介。お前今度の事件をどう思う」
「はい、私にとっては初めての事件捜査ですから分からない事だらけですが、一つ腑に落ちないのは、何故あのような人目のつく場所で殺さなければならなかったのかということです。殺すのなら人目につかない場所を選べばいいのにと。そこが私の疑問点です」
「うん、いいところに目を付けたな。そのとおりだ。普通殺人事件は人目につかないように敢行される。それが今回の場合は目撃者が何人いてもおかしくない状況の下で行われている。犯人は見られてもいいと思って殺したのか、それとも殺すつもりはなかったが、殺さざるをえなかったのかだ。もう一つ腑に落ちないのは、目撃者が全くいないことだ。少なくとも北嵯峨亭には、メンバーだけでも30人はいた。従業員も含めれば50人ぐらいはあの料亭の中にいたんだ。」
「そうですね。僕には分かりません。社さんは手に握っていた紙切れが事件の鍵を握っていると言っていましたね。何か根拠はあるのですか」
「別に根拠が有る訳ではない。わらにでもすがりつきたい心境だよ。ただ、俺はあの場所に居合わせた。句会の始めに、北野一句は秋を題材にした句を詠むようにと言った。だがあの紙切れには秋の季語は含まれていなかった。ましてや誰かを恨んでいるかのような内容だったんだ。お前も内容は見ただろう」
「はい見ました内容的には恐ろしいですよね」
《長年の怨念ここに極まれり》
「あの内容からすれば、誰かを恨んでいたようですね。それが分かれば解決ですか」
「いや、そんな単純なものでもないだろう。一つ一つつぶしていこう。疑問に思ったら何でもいいから聞いてくれ。それが糸口になることもある」
「分かりました。お願いします」
「お願いしますは一回でいいよ。出ようか。明日も早いぞ」
社と佐野は店を出て別れた。社の家は右京区の北嵯峨亭の近くにある。疲れて電車で帰るのは億劫になった。社は河原町でタクシーに乗った。運転手に
「嵐山まで」
と言って寝てしまった。暫くして
「お客さん、嵐山ですよ」
の声に目を覚ますと、渡月橋の前まで来ていた。運転手に北嵯峨亭の前を通るように言い外を見ていると渡月橋の北の欄干に寄り添うように二つの影が目に入った。
「あれ、運転手さんちょっと止めて」
リヤーウインドウ越しに覗くと、見覚えのある二人だった。女は北嵯峨亭の女将、男は北野一句だ。何をしているのだろう。こんな時間、こんな場所で二人っきりで会うほど二人の中はすすんでいるのだろうか。確か、女将は今日休みのはずだが。二人が会うことに問題はない。料亭の経営者と客の間柄だ。まあいい、調べればいずれ分かることだ、今日は寝よう。
10月21日
社と佐野は北嵯峨亭の前で待ち合わせていた。午前9時10分。佐野が来ない。最初から遅刻か、社は少し腹が立っていた。何か事故でもあったのか…。駅の方から背の高い男が走ってきた。佐野だ。
「すみません、社さん。遅刻してしまいました」
「最初から遅刻か」
「今朝、出がけに田舎の母から親父が入院したと電話がありまして。申し訳ありません」
「入院、どうしたんだ」
「山に山菜取りに行って、転んだそうです。足を骨折したらしいです。でも元気だって」
「分かった。一安心だな。しかし昨日お前に俺の携帯教えただろう」
「はい」
「やむを得ないときは必ず連絡しろ。厳しいようだが、俺たちの仕事は班で動いている。チームなんだ。一つの事件をそれぞれの班が別々で捜査しているが勝手に動いているわけではない。危険な場所にも行かなければならない。最初に言っておく。俺たちはお互いに命を預けているんだ。いいな」
「はい、分かりました、申し訳ありませんでした」
社には、佐野が遅刻したことはやむを得ないと分かっていた。しかし社はあえて佐野に厳しく言った。それは社が佐野を認めたからだ。わずか一日ではあるが、佐野と事件を追った。見込みのある若者だ。刑事課長の三谷が敢えて佐野を社に預けたのが分かった。三谷は社に嫌みは言うが、刑事として高く評価している。昨日右京署に帰ってから、佐野が報告書を書いている間に、社は三谷と二人っきりで話をした。
「班長、佐野はどうですか」
「どうですかと言われても、まだ初日だからな」
「あいつは警察官になってまだ三年ですが、見所のあるやつです。三年の間に本部長賞を三回も受賞しているんですよ」
「本部長賞を三回?署長賞じゃないのか」
「署長賞なら50回は貰っていますよ」
「そうか、あいつ一言もそんな事は言わなかったな」
「そういうやつです。交番では、近所の老人達に人気があってね。今日も近所のおばあちゃんから佐野を交番に帰してくれと、電話があったよ。」
神戸、三宮
ハイカラな町で知られる神戸も又若者に人気の町である。社と佐野は昨日聞き込んだ吉野哲男が勤めている会社を訪ねた。雑居ビルの2階にその会社はあった。三宮興業と表札にはある。仕事の内容までは分からない。吉野の母親も知らないと言っていた。
会社の中に入ると中はこぢんまりとしていて机が5つしかない。男が一人、女が一人いた。佐野が手帳を示し
「京都府警の者です。吉野哲男さんにお会いしたいのですが」と言うと、女が
「吉野は出張していますが、彼が何かしましたか」
「いいえ、そうではなくて我々が捜査していることで吉野さんに伺いたいことがありまして来ました。いつお帰りですか」
「それが昨日帰る予定だったんですが、帰ってこないのです」
「帰ってこないとはどういうことですか」
「連絡がないんです。こんなこと初めてです」
「どこへ行かれているんですか」
「二日の予定で広島です」
今まで我々を黙って見ていた男が声を出した。
「申し遅れました。私がここの社長の山崎です。」
「初めまして」
「出張先にも連絡は入れたんですが、来ていないと言うんですよ」
「こういうことは、よくあるんですか」
「初めてです。真面目な人ですから、必ず仕事が終われば連絡をくれます」
二人は会社を出た。何か余計なことに首をつっこんだようで、すっきりしない。二人とも黙っている。何を言って良いのか分からないのだ。
佐野が話を変えた。
「社さん、昨日はごちそうさまでした。美味しかったです」
「そうだろう。俺のお気に入りだよ。今度彼女とでも行ったらいい」
「何を言ってるんですか。彼女なんていませんよ」
「彼女がいない。お前もう24だろう。彼女の一人ぐらいつくれよ」
「いえ、私はまだ半人前です。彼女なんて早すぎます」
「バカ。それとこれとは別だよ。そんなこと言っていたらいつまでたってもだめだな」
「別にできなくてもいいです」
佐野は少し腹が立った。別に彼女ができようができまいが、社さんには関係ないのに、と思っている。
社が
「おい佐野。これから大阪に行って、第一発見者に会おう」
「はい、分かりました。電話を入れてみます」
「う、うん。入れてくれ」
難波まで出た。大阪の象徴の街である。昼間は商業の町。夜は歓楽街に変貌する。眠らない町でもある。難波にはライフラインも集中する。特に、電車は、南海、近鉄、地下鉄は御堂筋線、千日前線、堺筋線と枚挙にいとまがない。午前0時を過ぎても電車に乗れる町だ。
難波から南海電車に乗った。第一発見者の一人は貝塚という町に住む。急行に乗れば難波からはそう遠くない。貝塚市はいわゆる泉州地区に属する。昔は農業の町として栄えていたが、今は大阪のベッドタウンとしての認知度が高い。特に関西空港の周辺地として発展が目覚ましい。
発見者の一人橘 梢は関西空港が見渡せる二色浜に居住する。しかし佐野が電話を入れると<駅前まで出ます>と言い喫茶店の名前を指定した。
指定された『翼』という喫茶店に行くと橘 梢は既に待っていた。
社が
「すみません、お待たせしました。呼び出して申し訳ありません」
「いいえ、お役に立てばいいのですが」
「有り難うございます」
その時ウエートレスが
「ご注文は何にしますか!」
びっくりして顔を上げると
「あれっ、あなたは・・・」
「そうです。娘の美樹です。ここでバイトしてます」
「やっぱり、そうか。お母さんはなかなか気のつく方だ。二度手間にならなくて済みます。助かります」
「そうでしょ。それに美人だし」
「美樹!いい加減にしなさい」
「あっ、申し遅れました。こちらが私の相棒になります、佐野大介と言います」
「佐野です。よろしくお願いします」
「こちらこそお願いします。ご注文何にします」
「コーヒーお願いします」
娘は美人のお母さんが自慢のようだ。娘さんもなかなかの美人だ。社が母親に
「橘さんは俳句の会に入って長くはないようですが、今まで俳句をやっておられたのですか」
「いいえ。昔から好きでしたけど、本格的には入会してからです」
「少しは落ち着きましたか」
「はい、なんとか落ち着きました」
「もう一度伺いますが、あの前後、あの付近で誰かを見かけませんでしたか」
「あの後ずっと考えていたんですが…、従業員の方が私たちの前にあの場所を通ったと思います」
「男ですか、女ですか」
「男の方だと思います。スーツを着ていましたから」
「顔は見ましたか」
「いいえ、背中だけです。でも男の人にしては小柄な方だったと思います」
「有り難うございます。参考になりました」
「娘さんは、何か見ませんでしたか」
「私も考えていたんですけど、実は私たち一番最初にあの<紅葉の間>を出たんです。ですからあの竹林は一番最初に通ったと思います。お母さんの話を聞いて思い出したんですけど、そう言えば竹林の前で黒いスーツを着た従業員らしい人を見かけましたけど、全然気にならなかったから顔は見ませんでした」
「有り難うございます。大変参考になりました」
橘 梢が
「コーヒー早く飲んで下さいね。ここのコーヒーは美味しいんですよ」
「本当だ、美味しい。美樹さんが入れたんですか」
「違いますよ!ここのマスターです」
「美樹さんは大学は京都でしたね」
「そうです。北野一句さんの娘と一緒です」
「何処なんですか」
「立志社大学です。専攻は英文学、でも国文学にも興味があるんです。だからこないだ俳句の会に参加したんです」
「そうですか、美樹さん頭が良いんだ。佐野も京都の大学出身ですよ」
「え、そうなんですか。佐野さんはどこなんですか」
「私は京都大学です。専攻は数学です」
「わー、凄い。で、何で警察なんですか」
「子供のころから刑事に憧れていたんです」
「じゃー、憧れの刑事になれたんですね」
「いいえ、まだ刑事じゃありません。応援で社さんに色々教えて頂いてます。今は嵐山の交番勤務です」
「それじゃ、私の大学の近くやわ。今度遊びに行っても良いですか」
「美樹!交番は遊びに行くところじゃありません。失礼ですよ」
「ごめんなさい」
美樹は母親にたしなめられ、舌をペロッと出した。佐野が
「構いませんよ。交番は誰でも大歓迎です。立ち寄ってください」
社が
「橘さんは今日お仕事はお休みですか」
「今日は予定がありますのでお休みにしました」
「そうでしたかすみません、お忙しいのに。おい、佐野失礼しようか」
「はい、分かりました。お金払ってきます」
「いいえ、もう払っていますから。気を遣わないでください」
「すみません。ごちそうになります。京都に来られる時は電話してください。ごちそうさせて頂きます」
「有り難うございます。楽しみにしています」
社と佐野は喫茶店を後にした。
収穫があった。犯行の前後に全く何の目撃者も無かったが、少し光が見えてきた。犯行の前に一人の男性が目撃されている。犯行に関係しているかどうかは分からないが、糸口を掴んだ気がする。
「佐野、どう思う」
「そうですね、時間的、場所的に、犯行の可能性があるのはその男しかいないと思います」
「犯人でないにしても、何か目撃しているかもしれない。それに、一番大事な犯行現場での目撃だ。現場百回だな。それに昨日河原町から帰る途中、北嵯峨亭の女将と北野一句が渡月橋に二人でいたんだ。それも引っかかる。句会<京洛>と北嵯峨亭を徹底的に洗おう」
10月23日午前6時10分
社は携帯電話の着メロで目が覚めた。佐野だった。
「社さん。大変です。渡月橋の下で変死体が発見されました。私も今から行きます」
「変死体?男か、女か?」
「分かりません」
「よし、俺も行く。俺の方が早いかもしれんな」
「いえ、私は署のパトカーで行きますから、私の方が早いと思います」
「分かった。現場で会おう」
朝が早いにもかかわらず、現場は野次馬でごった返していた。社が現場に着いた時は、既に佐野は聞き込みにあたっていた。
「あっ、班長。お早うございます。害者は男です。殺しですね。誰だと思います」
「何だ、知っている奴か」
「顔は分かりませんが、所持の免許証からあの行方不明の吉野哲朗です。本人かどうかは面割りしないと断定出来ません」
「そうか、何か変な方向へ向かっているような気がするな」
「近所の土産物屋にも聞き込んだんですが、今のところ目撃者はいません」
「家族には連絡したのか」
「いえ、まだです。これからとります」
「頼む。それに会社にもな」
「はい」
そこへ刑事課長の三谷が到着した。眠そうな顔をしている。社が、
「課長、害者は昨日聞き込みに言った会社の従業員です」
「え、あの田島の元部下か」
「そうです。何かおかしな方向に向いて来ましたね」
社は自分の捜査方法が間違っていないと確信していた。人が殺されて嬉しい訳はないが、刑事としての感も捜査には必要なのだ。田島の事件と、吉野の事件が関係あるとは断定出来ないが、何か複雑な糸で結ばれているような気がする。その糸をほぐさなければならない。
吉野は広島に出張に出掛けた。だが広島には行っていない。二日間も会社には連絡を取っていない。その男が殺された。全く別の事件だろうか。
吉野殺しは何の進展もないまま一週間がたった。田島殺しからは既に十日がたっている。
右京署、捜査本部
刑事達も焦っている。少なからず情報は有るものの、殺害の動機が見えてこない。三谷刑事課長が
「お早うございます。今日は午前中に捜査会議を行います。
今までの捜査を見直す事にしました。社班長と佐野君以外は会議室に十時に集合してください」
佐野が社を見た。
「班長、僕らは何かあるんですか」
「そうだ、別命がある。今日は平日だが、清水寺周辺で《京 洛》の句会があるんだ。俺とお前はそこへ行く」
「分かりました。車は要りませんか」
「要らない、清水なら車はかえって邪魔になる。電車で行こう」
京福電鉄「嵐山駅」からいわゆる嵐電に乗った。京都の市電は無くなって二十年以上になるが、未だにその風情を残しているのが嵐電である。路面を嵐山から四条大宮まで約三十分間の行程で、通過駅は昔のままの古びた佇まいである。
四条大宮で阪急電車に乗り換え河原町まで出た。四条通を東に向かうと、通りに面して洒落た店が並ぶ。京都伝統の扇や簪の店、和菓子や洋菓子の店と賑やかである。鴨川にかかる四条大橋を過ぎると、祇園の町に出る。四条通の東の突き当たりが八坂神社だ。八坂さんから、二年坂、三年坂を通って清水寺に至る。句会の開始までは小一時間ほどあった。社が
「まだ時間があるな。この先に洒落た喫茶店があるんだ。しばらくそこで時間をつぶそう」
「良かった。班長大分歩きましたよ。足が棒です」
「なんだ、情けないな。学生時代鍛えたんだろう」
「ですけど、それとこれとは別ですよ」
忘我亭。清水までの途中に、土産物屋と軒を遭わせて喫茶店がある。洒落た佇まいから、テレビや映画のワンシーンによく使われる店だ。平日なのに秋ともなると、店の中は混雑していた。空いた席を探していると
「佐野さん」
と呼ばれた
「こちらですよ」
声の方向を見ると、橘 梢とその娘の美樹が奥のギャラリー前の席に座っていた。
「妙な所で会いますね。今日はどうされたんですか」
「清水の句会です。迷ったんですけど、娘がついて行くと言うものですから。来てしまいました。桜木さんは今日は来ていません」
「そうですか。まだショックは拭えないのでしょう」
「社さんたちはお仕事ですか」
「そうです。私たちも句会に行きます。何か掴めれば良いかなと思いまして。でも気にしないで下さい。句会の邪魔はしませんから」
美樹が、
「又、事件が起こるんやろか。いややわ」
「美樹、つまらないこと言わないの」
佐野が
「班長、そろそろ時間ですが」
「そうだな、早めに行って、一句に話を聞こう。句会の集合場所は何処なんですか」
「清水さんの門前に集合ですからすぐに分かりますよ。私たちも一緒に行きます」
清水の坂は混雑していた。清水焼の販売店が軒を並べる坂道は各店を覗き見る観光客でごった返している。梢が
「社さんは、京都は長いんですか」
「そうですね、大学から通算しますと30年になりますか」
「わー長い、それなら京都は何でもご存じですね」
「仕事柄たいがいの事は分かりますね。でもお寺のことは聞かないで下さい。あまり信心深い方ではありませんので。分 かりません」
長い坂だったが、社には短かった。清水寺の門前にはこないだの句会で顔見知りの人達が集まっていた。20人ぐらいだろうか。あの事件の後だから、参加は少ない。役員の女性も既に到着しているが、北野一句の顔が見えない。集合時刻から10分が過ぎても現れない。会員の一人が、
「主催がいなくても、役員さんで十分です。終わるころには着いているでしょう。始めましょうよ」
ベテランの会員だろうか。北野が来なくても気にしていない。会の終わりに俳句の批評をしてもらえればそれで良いのだろう。役員の一人が
「分かりました。それでは先に始めましょう。会の終わりに先生の批評を頂きます。今日は清水寺の紅葉の下で、俳句を詠んで下さい。一時間後に又この場所でお会いしましょう」
会員はそれぞれ散策に向かった。清水寺に入る者、清水の坂に向かう者、そしてその場所に留まる者。社と佐野は手持ちぶさただった。清水寺は広い。坂の上がり口から寺の中まで広範囲に渡っている。何処に行こうにも当てはない。事件が起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。しかし社は何か引っかかるものがあった。句会の主宰である北野一句が姿を見せていないからだ。
「佐野!お前今までに俳句は詠んだことあるか」
「中学か、高校の時の国語の授業で習ったことはありますが、俳句を自分から詠んだことはありません」
「そうか。どうだ、暇つぶしに詠んでみるか」
「えー、私はそういうの苦手ですよ」
「なんでもいい。俺が批評してやるから詠んでみろ」
社は少し佐野をからかってやろうと思った。自分自身も詠めるかどうかは分からないが、このまま時を過ごしても仕方がない。清水寺の中に入った。清水の舞台から見る紅葉は時を忘れさせてくれる。こんなに平穏に時が過ぎていけば、嫌な事は忘れられるのに。佐野が
「社さん、出来ました」
「ほー、どんなのだ」
「いやー、やっぱり照れるな。いきますよ」
『秋晴れに錦繍映えて夢舞台』
社は一瞬声が出なかった。すばらしい。俺の出る幕無いな。
「社さんも詠んで下さいよ。ずるいですよ」
「いやー、お前なかなか才能有るぞ」
「そうですか。有り難うございます。それではどうぞ」
一瞬ためらったが、
『夢舞台、時を忘れる京の秋』
「え、もしかして、それ返句というやつですか」
「そうだ。こういう遊びもあるらしい。俺もはじめてだがな」
「社さんもすごいですよ。やっておられたのですか」
「いや、やってはいないが、昔から俳句や短歌は好きだった。お前と違って俺は文化系だからな。でもお前なかなかのもの だ、後で北野一句に批評してもらおう」
「そうですね、楽しみです」
社は佐野の勘の良さに関心していた。俳句などはやれと言われてすぐに出来るものではない。形は出来るだろうが、中身のある俳句は難しいものだ。それをいとも簡単にやってしまう。鍛え甲斐がある。
清水寺を散策していると、奥の参道から人の波が押し寄せてきた。何かあったようだ。その中の一人をつかまえて聞くと
「山の中で人が死んでる」
社と佐野は走った。心に引っかかっていたものが現実となった。油断していた訳ではないが、結果的に第三の犯行が行われたしまったのか。
現場は野次馬でごった返していた。中に橘 梢と美樹がいた。
「橘さん、現場を離れていて下さい」
「社さん、あの人北野 一句です」
見上げると、山の中腹にある木の幹に紐をかけて首を吊っている。社は佐野に
「佐野、110番と119番しろ。その後現場保存と、第一発見者を捜せ」
「分かりました」
社は山を駆け上がった。近づいて見ると確かに北野一句だ。何故だ。句会の開催日に自殺とは合点がいかない。集合時間に来なかったのではなく、来れなかったのだ。殺しではないのか、単なる自殺なのか。社は頭の整理がつかなかった。脈を取ったが既に死んでいる。手袋をして衣服の中を探したが、遺書らしいものは入っていない。やがて所轄署の刑事と捜査本部の三谷たちが現場に駆けつけた。社が説明した。
「今のところ自殺の線が強いが、遺書はない。首つりの紐は
帯締めをつないである。いわゆる組紐というやつだ。発見時には既に死亡していた。句会の集合時間に現れないので、会員達は北野を待たずに句会を始めた。第一発見者は例の橘梢と娘の美樹です」
「又か。帯締めは何本使われている」
「四本ですね。それに、手に紙切れを握りしめている。これは未だ見ていない」
「よし、現場検証が終われば、その紙切れを見てみよう」
現場検証が終わるまで、社と佐野は聞き込みを続けた。
遺体を木から下ろし、合掌をしてから北野が手に握りしめている紙切れを取った。遺体にはかすかに温もりがある。紙には
『怨念がはれて京都の秋うれし』
「何やこれ。俳句か」
この紙に書かれた内容は、こないだの田島が握っていたものと関連があるのか。北野と田島の間には何か関係があるのか。この一連の殺人事件は、句会にあるのではない。
11月5日
社と佐野は、北野一句の自宅を訪ねた。京都市の北区は町中とは違い、時がゆっくりと流れている。北野が住むあたりは豪邸が並んでいる。武家屋敷を思わせる風情にタイムスリップをした感がある。昨日一句の葬儀は終わった。
チャイムを鳴らすと、返事はなかったが、北野の妻が顔を出した。
「お早うございます」
「京都府警の者です。忙しい時に申し訳ありません。話を伺いに来ましたが、よろしいでしょうか」
「はい、どうぞお入り下さい」
北野の妻、登美子は年齢は60歳ぐらいだろうか。北野よりは年下だが、北野の若々しさに比べ、かなりの高齢に思える。北野は自分の好きな事を散々したようだが、彼の妻は、かなり自分を押さえて暮らしてきたようだ。二人は応接間に通された。社が
「この度はとんだことになりまして。言葉もありません。私も北野さんの句風に魅せられて、一度は句会に参加しようと思いました。でも、その時にあの北嵯峨亭での事件が起こったんです」
「そうですか。私は俳句は致しません。句会にも行ったことはございませんので、北野がいかほどの実力があったのかも知らないのです」
「なるほど。ご存じかと思いますが、今回の事件は《京洛》の句会から始まりました。2件目の殺人事件は関連があるかどうかは、定かではありませんが、被害者は最初に殺された田島さんの元部下です。ましてや今回のご主人の場合は、司法解剖の結果偽装殺人の疑いがあります。辛い事を聞くかもしれませんが、お許し下さい。あの帯締めに心当たりはありませんか」
「いいえ、全くありません。私のではありませんし、娘のでもありません」
「分かりました。今回のご主人の件で何かお心当たりは」
「ありません。主人は外での事は全く私には言いませんので、何が起こっているのか。一度あの事件について聞きましたが、怒られてしまいました」
「そうですか。では田島さんはご存じないですか」
「はい、お二人とも全く存知あげません」
「分かりました。最後に、ご主人は以前お仕事はどのような事をされていましたか」
「大阪にある会社に勤めておりました。一応取締役で退職しております」
「お仕事の内容は」
「薬品の会社です」
「え、製薬会社ですか?大阪製薬ですか?」
「いいえ、違います。藤美薬品です」
これ以上の事は妻の口からは聞き出せなかった。しかし、一つの糸口は掴んだような気がする。これで北野と、田島、吉野のつながりが見えてきた。佐野が
「班長、やっと入り口が見えてきましたね。北野が現役の頃に遡れば殺人の動機が掴めそうな気がします」
「そうだな、明日大阪に行こう。改めて聞き込みだ。違う会社だが、同業であれば、何処かで接点があるはずだ」
「分かりました。よーし気合いが入ってきた」
その時社の携帯が鳴った。
「はい、社です」
「こんにちは。お忙しい時に申し訳ありません。橘です」
「あ、どうもこないだは大変でしたね。ご協力有り難うございました」
「いいえ、こちらこそ失礼しました。今よろしいですか」
「ええ、構いませんよ」
「実は今京都にいるんです。娘と一緒です。今までのお詫びのしるしに、何かご馳走させていただけませんか。お忙しくなければですが。是非佐野さんとご一緒に」
「少しお待ち下さい。おい、大介。橘さんからだ。娘さんと一緒らしい。京都にいるそうだ。忙しくなければ食事をご馳走したいといっている。どうする」
「え、二人一緒にですか」
「そうだ、二人だ」
「私は構いませんが。どうします」
「もしもし、お待たせしました。佐野が是非といっています。お受けします」
「そうですか。良かった。断られるかと思ったんですが。それでは、河原町のインパルスという喫茶店でお待ちします。分かりますか」
「ええ、分かります。30分はかかりません」
社は携帯を切った。
「班長、ずるいですよ。その言い方」
「何でだ。お前行きたそうやったやないか」
「私をえさにして貰っては困ります」
「分かった。それなら俺一人でいく」
「えー、私も行きますよ」
二人は北区からタクシーに乗った。河原町通りを南へ走り、約20分で喫茶店前に着いた。
喫茶『インパルス』は河原町通りを四条から北へ上がり、約200メートル行った西側にある。社が学生の頃からそこにある。今は年老いているが、夫婦で長年美味しいコーヒーを出している。隠れた名店だ。店にはマスターの友人の写真家が季節ごとに京都の風景写真を展示している。
社が
「佐野、お前から入れ」
「えー、班長からどうぞ」
「俺はこういうのに慣れてないんだ」
「何言ってるんですか。僕の倍は生きてるのに」
「アホ、俺はそんな年やない」
中から美樹が出て来た
「お二人ともなにしてるんですか。どうぞ」
「すみません」
二人は中へ入った。中は少し変わってはいるが、昔と同じように壁には写真が掛けられている。マスターが驚いた顔をして社を見た。社が
「マスター、何か私の顔に付いてますか」
「いえ、そうではないんですけど、何処かでお目にかかったような気がして」
「へー、マスター、覚えているんですか。凄い。学生の頃よく来ましたよ。でも20年以上来ていませんよ」
「そうですな。長いこと来てはりませんな。でも印象に残るお顔立ちやし、あの当時ごっついべっぴんさんとよく来られ てはった。あの女の方は」
「田舎に帰って結婚されました。幸せに暮らしていると思いますよ」
「そうですか。それは良かった」「マスター。また美味しいコーヒー入れて下さい」
「オッケー。腕によりをかけて作りますよ」
社は学生時代を思い出していた。歌の文句ではないが、授業を抜け出してはよくこの店に来たものだ。佐野が
「班長、どうしたんですか。コーヒー来ましたよ」
「お、有り難う」
「何か物思いにふけっていましたね。その彼女とは別れたんですか」
「付き合ってはいたんだが、卒業式が終わってそのままだ。風の便りに結婚したことを知った」
「へー、社さんにもそんなロマンスがあったんですね」
「こら、大人をからかうな」
橘 梢が
「お忙しいのにお呼び立てして申し訳ありません。お仕事大変ですね」
「いえ、たまには息抜きも必要です。でも橘さんはいつも事件現場にいらっしゃいますね。偶然だとは思いますが」
「そうなんです。何なんでしょう。怖いですね。今までこんなことなかったのに」
「それにいつも第一発見者です。でも橘さんのおかげで事件の糸口が見えてきました。助かります」
「そうですか、そう言ってもらえれば嬉しいです。社さん何処か知っているお店があれば照会して下さい。ご馳走させて頂きます」
「それは嬉しいな。何か好みでもあれば、言ってください。和食ですか、中華、それともフランス料理?」
「何でも良いです。嫌いなものは有りませんから」
「そうですか。それでは若い人に選んでもらおう。美樹さんは何が良いですか」
「美味しければ何でもいいです」
「それじゃ、京都らしくはないけど、お寿司なんかどうです」
「大好き!是非お願いします」
「よし、決まりだ。近くに美味しくて、安い寿司屋がありますから、そこに行きましょう」
実は社はあまり高級な店は知らなかったのだ。内心ホッとしている。
インパルスから雑踏の中に出た。河原町は休日でもないのに、相変わらず混雑している。社は佐野に捜査本部には帰らないと電話を入れさせた。映画館の向かいにその店はある。カウンターが14席、テーブルが3席あり、従業員も10人ぐらいはいるだろうか。関西一円にチェーン店を持つこの店はネタの大きさと、安さで人気がある。4人はテーブルに座った。社は久しぶりに賑やかなテーブルを囲む、もちろん佐野もそうだった。社は過去に苦い経験がある。一度は家庭を持ち、子供も一人いる。しかし、仕事がその幸せな家族を引き離してしまった。彼の妻は、事件に追われ続け、家庭をないがしろにする夫に我慢出来きず、娘を連れて田舎へ帰ってしまった。だが今は未練はない。仕事は殺伐とはしているが、無くてはならないものだ。新しい出会いも無いとはいえない。今回のように、社が巡り会った事のない人たちも世の中には多い。久しぶりに酔ったかもしれない。饒舌だ。美樹に
「こんな事聞いては失礼ですが、美樹さんはお付き合いしている人はいるんですか」
「えー、いませんよ。友達は沢山いますけど」
「そうですか。それじゃ、佐野もその一人に加えてください」
「社さん失礼ですよ。私は未だ半人前だから、そんな資格はありません」
「アホかお前は。友達だよ。彼女とは言っていない。美樹さんも未だ学生だ。勉強する事はいっぱいある。お互い良い影響を与えると思うよ。どうですか橘さん」
「佐野さんなら大歓迎ですよ。お友達になって下さい」
テーブルからは笑い声が絶えなかった。仕事を忘れて久しぶりに落ち着いた食事をしたような気がする。橘母娘の打算のない人柄に改めて気持ちが洗われた。
大介と別れ、二人をホテルまで送った。京都駅ビルに新しいホテルができた。観光客で溢れんばかりの京都駅だが、そのホテルだけが違う空間のようだ。社も車を降り、ホテルまで足を運んだ。橘が
「社さん、コーヒーでもいかがですか」
「良いですね、飲みましょう」
美樹が
「お母さん、私先に部屋に行ってます」
「いいわよ。先に寝ててね」
「ハーイ、ごゆっくり」
美樹は二人を残し先に部屋へ上がって行った。気遣ったのだろうか。
ロビーには静かな音楽が流れている。社はほろ酔い気分だ。
静にソファーに腰を下ろした。橘が
「良い音楽ですね。オールディーズだわ」
「いいですね。昔を思い出します。子供の頃、この音楽に憧れてレコードを買ったものです。ジャズも好きなんですよ」
「そうなんですか、私も大好きです」
「そうですか。それじゃ、いい店が有りますから今度行きましょう」
「本当ですか。嬉しい。約束ね」
「いいですとも。休みの日にでも行きましょう」
コーヒーを飲み終え、後ろ髪を引かれる思いで、ホテルを後にした。
家に帰り、シャワーを浴びながら社は後悔していた。
《何であんな約束をしたんだろう。酔っていたとはいえ》
酒の上の事だから、橘も本気にはしていないだろう。忘れよう。
11月6日、
大阪製薬から堺筋を南に100メートルほど行くと、藤美薬品の看板が見えてきた。かなり大きなビルだ。大阪製薬は老舗だが、藤美薬品は戦後その勢力を伸ばし、今では全国でも指折りの大手である。そこの取締まり役をしていた北野はかなりのやり手だったのだろう。
ロビーに入ると受付があった。手帳を見せて、佐野が
「京都府警の者です。京都での殺人容疑事件で、お話を伺いに来ました。どなたかお話の出来る方にお目にかかりたいのですが」
受付嬢が訝しげな顔をしながら、名刺を携え奥へと消えていった。
待たされた。15分ぐらいが過ぎて、恰幅の良いメガネをかけた男が現れた。
「お待たせ致しました。私は総務部長の谷川といいます。どうぞこちらへ」
二人は応接間へ通された。社が
「お忙しいのに申し訳ありません」
「いえいえ、これも私の仕事の内ですから。毎日色々な方とお会いしています。ところでどのようなお話ですかな」
この谷川という男は、関西の出ではない。総務部長だけあって、したたかな感じだ。単刀直入に聞いた方が良い。下手に衣を付けると本当の事を言ってくれないかもしれない。社は
「新聞でご存じかもしれませんが、実は先日京都の清水寺の境内で殺人事件が有りまして、その被害者が実はここの会社 を退職された方だと判明したものですから、お話を伺いに来ました」
「ほう、お名前は何といいますかな」
「北野一句といいます。ここを退職されてから、京都で俳句
「あの件は自殺ではないのですか。新聞にはそのように書いてありましたが」
やはりしたたかだ。知っておりながら、《誰か》と訪ねた。
「北野は確かにここで退職しましたが、もうかなり前ですよ」
「存じております。実は北野さんの主催する俳句の会に絡んで、今まで3件の殺人事件が起こっています。私どもはこの一連の殺人事件は、北野さんが現役の時に端を発しているのではないかと考えているのです」
「ということはこの会社が殺人事件に関係しているということですか」
「いえ、そういうことではありません。北野さんが勤められている時の何かが原因ではないかということです」
「分かりませんな。そんなパズルみたいなこと」
「そうですか。唐突な事をお伺いしますが、大阪製薬さんとは取引は有りますか」
「大阪製薬?同じ業界ですから、知ってはおりますが、取引はありませんよ。ライバル会社ですから、競争はしていますが」
「分かりました。それでは最後に、田島、吉野という名前に聞き覚えは有りませんか」
「有りませんな、全く」
「有り難うございました。又、お伺いすると思いますが、よろしくお願いします。お邪魔しました」
席を立ち、帰ろうとした時、谷川が
「そうだ、参考ですが、北野は現役時代かなりのやり手でね、ライバルは沢山いましたよ。社内にも、社外にもね」
「有り難うございました」
社と佐野は藤美薬品を後にした。退職して5年にもなると記憶も薄れるだろうが、谷川は何かを隠している。社が思うことははずれていないかもしれない。北野と田島の間には何かがある。二人は大阪製薬に足を向けた。
大阪製薬で、以前会った総務課長の岡山に面会を申し出た。
大きい体をもてあますように岡山が出て来た。
「これは、これは。京都府警の方ですね。今日は何か」
「実はこないだお聞きしました、田島さんの部下だった吉野さんが嵐山で殺されました。もっと早く伺おうと思ったのですが事件が続きまして、今になってしまいました」
「それはお気の毒に。嫌なことが続きますな。二人ともうちの元社員ですがな」
「実は二人のことをもっと伺いたいと思いまして」
「こないだ言ったことぐらいしか分かりませんで」
「そうですね。彼らにはライバルはいましたか」
「そりゃ、彼らは営業でしたからね。いたと思いますよ」
「北野という名前に聞き覚えはありませんか」
「北野・・?何処の方ですか」
「藤美薬品はご存じですね」
「もちろん知っていますよ、同じ業界ですから」
「彼は藤美薬品の元取締まり役です。田島さんと同じ時期に退職しています」
と言って社はハッとした。二人は同じ時期に退職している。ここに何か有るのでは。二人は同い年だ。定年までは3年ほどあったはずだ。
「定年までは何年か残されていたはずですが、田島さんの退職の理由はどういう事でしょうか」
岡山は黙った。何を言おうか考えている。
「後進に道を譲られたんやないですかね」
苦し紛れの答えだ。
「でも、営業課長で部下にも信頼は熱かったようですし、会社としては引き留めなかったのですか」
「すんまへん、これ以上は私の口からは言えまへん」
「誰なら言えるのですか。失礼ですが、お話を伺える方にお会いしたいのですが」
岡山は困った顔をした。
「申し訳ありまへんけど、帰ってもらえませんか」
「分かりました。今日は失礼します。でも、私たちは殺人事件の捜査をしています。会社にはご迷惑をかけません。又、 改めて伺います。上司の方とご相談下さい」
社は譲らなかった。おそらくこのあたりに糸口が潜んでいるだろう。もし、何らかの形で会社が絡んでいるとすれば、一筋縄ではいかない。三人が殺されているのだ。社も引く訳にはいかない。会社も防衛策を講じるだろうが、俺たちもプロだ。大阪製薬を後にした。
二人は京都へ向かった。帰る道すがら社が
「佐野、俺たちはとんでもない事に首を突っ込んでいるかもしれないな」
「どういう事ですか」
「これは俺の想像だが、北野も田島も会社の犠牲になったのではないかと思うんだ」
「会社の犠牲?」
そう言ったまま二人とも黙ってしまった。
捜査本部、刑事達は社と佐野の帰りを待っていた。
社は今までの捜査経過と自分の考えるところを報告した。三谷刑事課長がその考えを否定した。
「班長、その考えは早急ではないですかね。会社側が何かを隠しているとしても、5年を経過してからの殺人事件は納得がいかない、その辺を説明して貰いたいですな」
「私もそれは考えました。ただ、これはあくまでも私個人の意見ですが、三人をつなげるものは5年前に遡らなければならないこと、それに、吉野自身は田島が退職した後も大阪製薬に残っています。《京洛》との繋がりは有りません。それを考えると、当時に何かがあったと考えざるを得ないのです。佐野、お前何か意見があるだろう。遠慮せず言ってみろ」
「私も社さんの意見には賛成です。もし、三人を殺すとすれば、別に京都でなくてもいいんじゃないですか。疑問に思うのは、全て《京洛》に関わっていることです。吉野は《京洛》との接点は全くありません。しかし、田島とは関わり合いがあります。田島は北野との関わりがあります。この三人の内二人、北野と田島は北嵯峨亭で女将の『由岐』と関わり合いがあります。しかし北野は別にして田島が女将との関わりがあるかは今のところ分かりません。私は女将とこの三人の関わりをもっと洗ってみるべきだと思うんです。それに害者二人が握っていた紙切れですが、これは本人らが書いたのではなく、犯人に握らされたものだと思います。明らかに計画的殺人です。最後の紙切れには、『怨念が晴れて京都の秋うれし』と書かれていました。これからすると犯行は終わったと考えられます。犯罪の動機は<恨み>憎悪でしょう。こう考えると何年か前に遡って害者三人の接点が重要になってきます。接点は5年前に遡らざるを得ないのです。」
三谷が
「よし分かった。明日からこの線で捜査しよう。藁にでも何でもすがるぞ」
社と三谷は二人で本部に残った。三谷が
「班長。どうですか大介は。なかなか役に立つでしょう」
「そうだな、あいつはいい刑事になる。しかし俺は奴にはもっと上を目指して欲しい。その才能は充分に持ち合わせている。ひょっとしてあいつがこの事件を解決するような気がしてならないんだ」
社は本当にそう思っていた。
北嵯峨亭
竹林の中にある北嵯峨亭は観光客で賑わう嵐山にあって異彩を放っている。表通りからは離れているが、その優雅さに圧倒される。
社と佐野は再び北嵯峨亭の門をくぐった。別館のロビーで女将の『由岐』に面会を申し入れた。店は事件が起きたことは全く忘れているかのように動いている。やがて和服姿の女将が現れた。美しい。美人は沢山いるが、『由岐』は単なる美しさではない。妖艶さをも漂わせている。以前会った時よりも洗練されている。何か憑き物がとれたかのようだ。
「お待たせ致しました。その節は色々とお世話をかけまして申し訳ありませんでした」
「とんでもございません。仕事ですから。実を言いますと我々も、今、袋小路に入っています。今日は一連の事件について女将のお話を伺いに参りました」
「まあ、何でしょう。私で分かる事でしたら、何でもお聞き下さい」
「早速ですが、北野一句とはいつ頃からのお付き合いになりますか」
「お付き合いと言いましても、お客さんと料亭の女将の付き合いですから、かれこれ5年ぐらいになりますか」
「北野が会社勤めのころからご存じなんですね」
「はい、私がこの料亭に嫁いでから暫くして、会社の接待で来られてからになると思います」
「そのころ北野はよく来ましたか」
「頻繁には来られていません。二月に一度ぐらいの割合ですか。色々な方と来られましたよ」
「仕事の関係の方ですか」
「多分そうだと思います」
「その中に最近も来られる方はいますか」
「いいえ、最近は不景気ですので、会社の接待はめっきり減りました」
「田島はご存じですか」
「私は存じ上げません。お気の毒に」
「女将は外で北野と会うことはありますか」
「いいえ、お客さんと外で会うことはしないようにしています」
「そうですか」
女将はここで一つ嘘をついた。他のお客の手前もあるのか、それとも言いたくないことがあるのか。
「以前ご主人がお亡くなりになった時、私がお話を伺ったのは覚えていらっしゃいますか」
「勿論、覚えております。ご迷惑をおかけしました」
「あのころも、北野は来ていましたか」
「ええ、来ていたと思います」
「ご主人が亡くなられた頃に相前後して二人は仕事を辞めています。一応勇退ということになっています」
「そのあたりの事情は私には分かりません」
「田島は北野と同じ仕事をしていたんです。会社は違いますが。退職も同じ時期です。両方の会社に行って話を聞きましたが。どちらの会社も、退職の理由は教えてくれないのです」
「定年ではないのですか」
「違います。退職まであと3年あったんです。この辺に、何か糸口が見つかればと思っているのですが。それに、渡月橋の下で殺されていた吉野という男は、実は田島の元部下なんです」
「えっ、そうなんですか。知りませんでした」
女将は全く顔色を変えない。嘘をついてまで北野との関わりを否定するのには、何か理由があるはすだ。核心に触れてみた。
「実は、吉野が殺される前の晩に、渡月橋の欄干で、女将と北野が会っているのを目撃した人がいるんですが」
一瞬顔色が変わったかのように見えたが、すぐ平静に戻って、
「ああ、そう言えばあの時、北野さんからお話ししたい事があるから、渡月橋まで来て欲しい、と電話があったものですから。確かに会いましたよ」
「差し支え無ければお話しして頂けますか」
「大したことはありません。北嵯峨亭での句会は暫く開催しないという内容のお話でした。そうですよね、会員が殺された店では句会を開きたくはないですよね」
「電話ででも済ませられる内容ですよね。どうして呼び出したりなんかしたんでしょう」
「さあ、従業員には知られたくなかったのでしょう。そういう気を遣う人ですから。だから人気があったんでしょうね」
何か取り繕っている。佐野が
「話は変わりますが、私は北嵯峨亭で食事をしたことがないのですけど、高いんでしょうね」
「そんなことありませんよ。昼間でしたらお弁当も割安で提供していますし、若い方もよくおみえですよ」
「え、そうなんですか。知らなかったな。今度友達を連れてきても良いですか」
「是非来てください。サービスさせて頂きます」
「有り難うございます。班長そろそろお暇しましょうか」
社は大介に何か考えがあるのだろうと思った。もう少し聞きたいことがあったが、従った。
「そうだな、女将も色々とお忙しいだろうから、女将ありがとうございました。又お話伺わせてください。失礼します」
二人は北嵯峨亭を後にした。佐野が
「班長、中断させてしまって済みませんでした」
「構わん。何か考えがあったんだろう」
「はい、あの女将はしたたかですよ。一筋縄ではいかないと思います。別の方向からあたってみます」
「どういうことだ」
「将を射んとすれば、先ずその馬からです。プライベートで店に行きます。従業員から攻めたいと思うんですが、どうですか」
「誰と行くんだ」
「美樹さんにお願いしようかと」
「駄目だ。素人を巻き添えにしてはいかん」
「仕事じゃないです。デートです」
「え、お前その気になったんか。あれだけ嫌がってたのに」
「そうじゃありません。班長もお互いのプラスになると言ったじゃないですか」
「勿論そうだが、署の婦警では駄目なのか」
「駄目です。美樹さんの明るさが必要なんです。警察官と分かっては駄目なんです。決して危ない目には遭わせません。班長からお願いしてもらえませんか」
「アホ、自分で言え、自分で。俺が言ってどうなる」
「違いますよ。母親の梢さんに頼んで欲しいんです」
「えっ」
一瞬声が詰まった。大介め、何を言い出すんだ。
「俺はいやだ。お前から頼め」
「班長、恥ずかしいんですか」
「なに!お前俺に喧嘩売る気か」
「違います。僕はこういうことは、ちゃんと上司からお願いした方が良いのではないかと思っているだけです。お願いします」
ずる賢い奴め、と思いつつも、一理あるなと思う自分が情けなかった。携帯で橘に電話をかけた。
「突然申し訳ありません。京都府警の社です。先日はご馳走して頂きまして、有り難うございました。今よろしいですか」
「こんにちは、構いませんよ。何でしょうか」
「いつもご迷惑ばかりかけているのに、こんなお願いして、許されないと分かっているんですが」
「遠慮なさらないで、言ってください」
「実は大介が美樹さんとデートをしたいと言いまして。私も自分から言えと言ったんですが。本人は仕事の一環でお願いしたいとのことで、私からお母さんの許可を貰ってくれと言うものですから・・・」
社は自分が何を言っているのか分からなかった。電話の向こうで橘が笑っている。
「私の言っていること分かりますか」
「分かりますよ。つまり大介さんが美樹とデートしたいということですね」
「そうです。実はデートなんですが、大介は従業員から話を聞きたいらしいんです。美樹さんが必要らしくて、危険な目には絶対あわせませんから。私も近くにいます」
「でも、社さんそれは野暮ですよ。若い二人に任せたらどうですか」
「しかし・・・、万が一のことがあれば」
「大丈夫です、大介さんが一緒ですから。信じましょ」
橘の方が腰が据わっている。社は任せることにした。
「社さん、そんなに心配なら、私たちも近くの店でデートしませんか」
「えっ、それは・・・」
「困りますか」
「いえ、とても助かりますが、いいんですか」
「いいですよ。ちょうど京都にも用事がありますから、こちらも助かります」
社はお礼を言って電話を切った。佐野に
「了解は取れた。日や、時間は自分で連絡しろ」
「有り難うございます。やってみます」
二日後。嵐山の駅で待ち合わせた。11時50分、美樹が大学の授業を終え姿を現した。佐野は緊張していた。女性と待ち合わせて二人きりで食事をすることなど今まで無かった。大学時代はクラブと授業に追われ、女性と付き合う暇など無かった。別にそう望んだ訳ではないが、出会いが無かったのだ。警察官になってからは毎日事件や事故に追われ今になった。しかし後悔はしていない。充実はしている。
美樹が
「すみません、お待たせして」
「いいえ、私も今来たところですから。申し訳ありません、無理なお願いをして」
「いいんですよ。どうせ暇ですから。どんなことをしたらいいんですか」
「一緒に食事をして貰うだけでいいんです。後は私がしますから。美樹さんの普段のままでいいです」
「嬉しい。北嵯峨亭で食べられるなんて。誘ってくださって有り難うございます」
「とんでもないです。私も楽しみです。行きましょうか」
「はい」
社は1時に橘と約束していたが、12時半には駅に着いていた。佐野一人で大丈夫だとは思っているが、やきもきしていた。佐野と美樹が食事を終えるだろう2時に北嵯峨亭の別館ロビーで会う予定だった。予定通り橘が現れた。
「こんにちは。お待ちになりました」
「いえ、私も今来たところです」
社は嘘をついた。
「忙しいのに済みません。いつもご迷惑かけます」
「いいえ、午前中に用事は済ませましたから、昼からはフリーです」
「助かります。時間まで食事でもしましょうか」
「そうですね。お腹が空きました。何処か素敵な所はありますか」
「そうですね、イタリア料理はどうですか」
「大好きです。楽しみだわ」
嵐山にイタリア料理は似合わないかもしれないが、近年にわかに人気の店が保津川沿いにある。社はそこへ橘を案内した。
北嵯峨亭の別館で佐野と美樹は食事を取った。昼間は夜と違って、格安で料亭の味を味わって貰おうと、各料亭が色々なプランを持っている。二人は北嵯峨弁当を注文した。弁当とはいえ、豪華だ。秋の味覚である栗や松茸を華麗にあしらい、目でも楽しめる。佐野は少しためらった。給料前であまり持ち合わせがない。足らなければ班長に電話しようと思った。部屋で二人は色々話し合った。食事が終わり、やがて仲居がお膳を下げにきた。佐野が仲居に
「美味しかったです。こんな料理初めてですよ」
「おおきに。お口に合いましたか」
「ええ、すっかり気に入りました。さすが北嵯峨亭ですね」
「有り難うございます。又お越し下さい」
「それに女将さんは凄くべっぴんさんですし。人気があるでしょう」
「そうですね。私らにはきついお人ですけど、外面はいいかたどす」
「男の人もほっとかないでしょうね」
「そりゃ、昔は女優さんでしたさかい、お客はんの扱いは大したもんどす」
「そう言えば、こないだ夜遅くに、渡月橋で男の人と会っていたな」
「やっぱり、そりゃもうしょっちゅう電話かかってきますえ。その都度夜に出掛けてはります」
「女将は誰か特定な人はいるのですか」
「決まった方は私らには分かりませんけど、最近身内の方というお人がよく出入りしてます。それもどうか分かりませんけど」
「どんな方ですか」
「年の頃なら女将さんより二つ三つ若いお方です」
「へー、結構おさかんですね。仲居さん、北野さんはご存じですか」
「え、こないだ殺されはった?知ってるも何も、女将さんのええ人でっしゃろ。いつもここで句会やってはって。ええお客はんどす。私らにもよお声かけてくれはりました。あっ、こんなことしてたら女将さんに怒られてしまうわ。失礼します」
「ご馳走さまでした。有り難う」
仲居は頼みもしないのによく話してくれた。女将には一物あるようだ。
「佐野さん」
美樹が声をかけた。
「私は何もしなかったですけど、いいんですか」
「助かりました。有り難うございます」
社と橘は、イタリア料理店「ミラ~ノ」で食事をとっていた。
「大介、大丈夫かな」
「社さん、二人のこと、今は忘れましょ。大丈夫ですよ」
「そうですね。子供じゃないんだから。取り越し苦労かな」
「そうですよ。このパスタとても美味しい。社さんはよく来られるんですか」
「一回だけです。でも最近人気の店と聞いています」
「そうでしょうね。とても美味しいわ」
たわいもない会話を交わしながら二人は食事を終え、北嵯峨亭に向かった。秋も深まり、一層紅葉が色濃くなっている。木々の紅葉と竹の緑が交錯する様は嵐山ならではのものだ。
北嵯峨亭別館ロビー。
大介と美樹はロビーの喫茶店にいた。
「あっ、お母さんこっちよ」
美樹が明るい声で呼んだ。大介が
「こんにちは。料理美味しかったですよ」
「そう、美樹良かったわね」
「最高やったわ」
社が
「美樹さん、有り難う。無理なお願いして済みませんでした」
「いいえ、いろんな話が出来てとても楽しかったです。料理も美味しかったし」
「そう言ってもらえれば助かります」
大介が橘に
「橘さん、俳句ひとつ作ってもらえませんか」
「え、今ですか。恥ずかしいわ」
「僕もこないだ清水寺で詠んだんですよ。社さんに褒められました」
「そうなんですか。教えて。そうしたら私も詠みますから」
「えー、参ったな」
社が
「そうですよ、こいつなかなか才能有りますよ」
「そう。是非聞かせて」
「分かりました」
『秋晴れに錦繍映えて夢舞台』
「わあ、凄い。お上手ね。勝てないわ」
「からかわないで下さい。社さんも詠んだんですよ」
「是非聞きたいわ」
「班長、お願いします」
「しょうがないな。笑わないで下さいね」
『夢舞台、時を忘れる京の秋』
「あら、返句ですね。お二人ともすばらしいわ。才能有りますね」
「さあ、今度は橘さんの番ですよ。美樹さんにも詠んでもらおう」
「分かりました。それでは」
『晩秋に名残悲しむ枯れ落ち葉』
「いいなー、情景が浮かぶようだ。さあ、今度は美樹さんの番だ」
「みんな凄いんだもの、どうしよう」
と言いつつ美樹が
『落ち葉踏み保津川歩く影二つ』
「美樹さん、やりますね」
笑い声が絶えなかった。名残は惜しかったが、社と佐野は二人に再会を約束して捜査本部へ帰った。
収穫は女将は決して男嫌いではないということだ。最近頻繁に若い男が北嵯峨亭に出入りしている。この男が誰かを突き止めなければならない。女将の身辺を徹底的に洗おう。先ず女優時代、さらに遡って、女将の生い立ちから調べる必要がある。
捜査本部。
課長の三谷が
「皆さんご苦労さんです。捜査の鍵は北嵯峨亭の女将が握っているだろうと思われます。女将の身辺を徹底的に洗うということで方針を固めます。それぞれに役割を与えます…」
三谷の話を聞きながら社は考えていた。女将は元女優、しかしその前の事は誰も知らない。家族構成、女優になったきっかけ、それに交友関係。これらを捜査することにより、女将の人物像が浮かんでくるはずだ。以前旦那が死亡した時は、そこまで調べなかった。あの時調べておけば今回の事件は無かったかもしれない。社と佐野は女将に面が割れている。生い立ちの捜査に回った。
社が
「大介、女将の出身地は三重県だったな」
「そうです。忍者で有名な伊賀上野です」
「これからそこへ行こう。車だったら3時間もあれば行けるだろう」
「分かりました。車を手配します」
「お前、警察車両を運転出来るんか」
「任せて下さい。運転には自信があります」
社と佐野は車で西京署を出発した。社は佐野の運転に疑問を持っていた。免許を取ってから未だ3年ほどだ。今の車はオートマ車が主流だが、警察の車は昔のミッション車がほとんどだ。おそらく佐野はミッション車には慣れていないはずだ。署の玄関で最初のエンストをした。道路を出て最初の信号で又エンスト。社が
「大介。お前運転は自信があったんと違うんか」
「済みません、班長。ミッション車は初めてなんです。ずっとオートマでしたから」
「ちょっと止まれ。俺が運転する。お前の運転じゃいつまで経っても目的地に着かない」
「済みません。練習しておきます」
社は免許歴30年になる。18歳で取ってから、ずっとミッション車ばかりだ。運転には自信がある。若いころはパトカーの経験もある。追跡して社の運転から逃れられる者はいなかった。しかし普段は安全運転そのものだ。大介が
「班長、運転上手ですね」
「そうか、経歴が長いだけだ。慣れれば誰でもスムーズに運転出来る。お前も経験だな」
「はい、頑張ります」
高速道路をひた走ってようやく伊賀上野に着いた。手始めに役場に行った。住民課に行き、戸籍の閲覧を申し出た。係の者が
「どなたをお探しですか」
「今は結婚されて名前が藤原由岐といいます。こちらの出身で、確か以前女優をしていた方なんですが」
「分かりました。それではコンピューターで調べてみましょう。出るかどうか分かりませんが」
と言って調べてくれた。田舎の人はなかなか親切だ。だが暫くして
「済みません、その名前では出ないですね」
「そうですか」
二人は途方に暮れた。せっかく3時間もかけてやってきたのに無駄足になるのか。
「あのー」
奥に座っていた50年配の女性が
「もしかして、その人女優の田中早苗さんのことじゃないですか。ほら、いつもここにやって来る照江ばあさんの孫じゃないの。いつも〈孫は女優だ〉って自慢してるじゃないの」
「ああ、そう言えば最近来ないねあのばあちゃん」
大介が
「その方どこに住んでるんですか」
「ちょっと待って下さいね。照江ばあさんは、上野駅の東に橋本というとこがありますが、そこの冨士荘という所に独りで住んでますよ」
「家族構成を見せてもらえますか」
二人はその戸籍を閲覧した。女将は本名
藤原早苗 昭和37年11月10生れの40歳
女優時代の名前が田中早苗
地元の高校を卒業して上京
女優になるまでの経歴は不明
家族は両親は既に他界、三歳下の弟が一人いる。
冨士荘に向かった。今にも崩れ落ちそうなアパートだ。一階の奥に藤原の表札がかかっている。ドアをノックしたが返事がない。出掛けているのだろうか。
「藤原さん」
再度ノックしても返事がない。隣の住人が顔を出した。
「そお言えばここんとこ顔見てないね」
扉を触ると鍵はかかっていない。
「こんにちは。誰かいませんか」
応答がない。買い物にでも行っているのだろうか。
奥でかすかな声が聞こえた。
「おい、大介、誰かいるぞ」
「おばさん誰かいるみたいです。入ってもいいかな」
「ちょっと待って、管理人呼んでくるから」
管理人はすぐに来た。大介が
「管理人さん。ひょっとして倒れているかもしれない。入りますよ」
管理人はびっくりして
「お願いします」
言うやいなや大介が奥に入った。
中は以外に整理されていた。布団が敷きっぱなしになっている。人が寝ている。
「藤原さんですね」
声をかけたが返事がない。
「藤原さん」
「うー」
近づくと、かすかにうめき声がする。大介が額に手を当てると凄い熱だ。生きている。
「班長、息があります。救急車をお願いします」
「分かった」
社は携帯で119を回した。
救急車は5分もしないうちに到着し、近くの救急病院に藤原照江を搬送した。社と佐野は管理人に話を聞いた。
「藤原さんは、ここに住まれて長いんですか」
「そうですね、4、5年になりますかね」
「ずっと一人ですか」
「ご主人も一緒でしたよ。3年ほど前にお亡くなりになりました」
「他にご家族の方はいないのですか」
「大阪か京都にお孫さんがいるとは言ってましたが、よくは知りません」
「誰か訪ねてくることはありませんでしたか」
「来ませんでしたね。いつも寂しそうにしていました。でもおかげさまで助かりました。有り難うございます」
二人はお礼を述べて病院へ向かった。
夫に先立たれ、親戚が訪ねてくることもなく、病気になっても看病する者もなく、悪くすればこのまま亡くなっていたかもしれない。身内がいるにもかかわらず、連絡すらも取っていない。孫の女将はこの現実を知っているのだろうか。
病院でドクターに話を聞いた。単に風邪をこじらせただけで、命には別状はない。しかし今日は安静にして欲しいということで、本人から話を聞くことは出来ない。
「大介、今日はもう遅い、旅館でも探そう」
「分かりました。駅前になら有りますかね」
「そうしよう」
駅前の小さな旅館に投宿した。
「班長、あのお婆さんから何か聞けますかね」
「分からんな。しかしあの婆さんが頼みの綱だ。期待しよう」
翌朝病院へ向かった。藤原照江はベッドに座ってお茶を飲んでいた。二人が顔を見せると、にこりと笑って
「あんたらが昨日助けて下さった方だね。有り難うございました。もう駄目かと思っていたんだが。神様はいるもんだ」
「お婆さん様態はどうですか」
「もう大丈夫だ。先生もそう言って下さった」
「良かったですね」
「ところであんたら何で家へ来たんだ」
「実は私たちは京都府警の刑事なんです」
「何でまた京都の刑事さんが」
「実はお孫さんの早苗さんの事でお話を伺いに来たんです」
「早苗が何かやったんか」
「いいえ、そうではありません。京都の事件を調べているとどうしても分からない事があって、実は京都で殺人事件が3件発生したんです。最初の現場が早苗さんの店だったんです。その被害者が早苗さんの昔の知り合いだったので、調べているとお婆さんがこちらにいらっしゃるということで話を聞きに来たんです」
「そうかい、で、何を聞きたいんだ」
「早苗さんは、以前女優でしたね。北嵯峨亭に嫁いで辞められたんですね」
「そう聞いてるよ。でもうちには何も関係ないわ。全然来てもくれんし、連絡もない。弟の健一が教えてくれたんだわ」 「弟さんがいるんですか。どちらにいます」
「京都だよ。早苗の近くにアパートを借りてるらしい。仕事もせんでぶらぶらしとるわ」
「早苗さんのご両親はお亡くなりになったんですね」
照江は黙った。涙が頬をぬらした。暫くして
「母親はあいつらが小さい時に病気で亡くなった。もともと体が弱かったし、風邪をこじらして逝ってしまった。父親は大阪におったんだが、ありゃ殺されたも同然や」
照江は語気を荒げた。
「殺されたとはどういうことですか」
「息子も病気だったんじゃ。医者はもう助からんと言うた。だが早苗はあきらめきれんかった。いろんな人に相談してある人を照会してもらったんじゃ。その人から病気に効くからといって高い薬をもらったんやが、これも効かんかった。又別の人を紹介され、薬をもらったんやが、この薬を飲んで暫くして息子は死んでしもた。早苗は言うとった。あいつらに殺されたって」
「あいつらとは誰のことですか」
「うちは知らん。早苗がそう言うとった」
「早苗さんが女優を辞め、結婚したのはその後ですか」
「そうや、あの時色々相談に乗ってくれたんがあの料亭の人やと健一が言うとった」
社と佐野は顔を見合わせた。お互いに今の話が核心に触れたような気がした。
「お婆さんは早苗さんのご主人が亡くなったのはご存じですか」
「えっ、いつのことや」
「知らなかったのですか。もう何年にもなりますよ」
「知らんかった。健一も何も言わんかった。早苗も可哀想な子やな」
「お婆さん、有り難うございました。参考になりました。お体に気を付けて下さいね」
「有り難うな。あんたらが来んかったらわしは死んどった。命の恩人やわ」
「最後に、息子さんのお墓はどちらに」
「京都の左京区にある洛北寺と聞いておる。わしもよう行かんでな」
「有り難うございます」
二人は収穫があったにもかかわらず、無口だった。確定は出来ないが、おそらく今の話の中に動機があるのではないだろうか。怨念をはらすために嫁に行き、何年もかけて計画を実行していく。その恨みの激しさに驚愕を覚えた。
「班長、僕には分かりません。そこまでして人を殺そうと思うのでしょうか」
「殺人とはそういうものだ。人の心の奥までは見えない。犯罪とは予測がつかない。どんな犯罪にも動機があり、それをコントロール出来ない人間がいるということだ」
「そうですね。なんか割り切れないな」
「大介。刑事にはいつもその感覚がつきまとう。それをコントロールしなければいけないんだ。やっていけるか」
「やります。今まで以上にやらなければいけないという気持ちになりました」
二人は京都に戻った。
捜査本部。
三谷課長が、二人を見るなり、
「おい、捜査線上に別の男が浮かび上がったぞ」
社が
「女将の弟ですね」
「えっ、あいつは弟なのか」
「おそらくそうでしょう。女将に似てませんか」
「未だ見ていないから分からないが、昨日の夜、北嵯峨亭に現れた男を尾行した刑事が女将の家の近くのアパートに入っていくのを確認した。暫く張り込んでいると、女将らしい女が1時間後にそのアパートに入っていったらしい」
「分かりました、実は伊賀上野で女将の祖母に会うことが出来たんだ。弟がいることが分かった。実行犯は弟かもしれない。女の手で男一人を木に吊す事は出来ない。そのあたりを疑問に思っていたんだ」
「しかし、第1現場で目撃された男は小柄な男だ。おい、矢野はいるか」
「はい、ここです」
「あの男はどんな感じだ」
「かなり背は高いですね。大介と同じぐらいかな」
「違うな。目撃された男は小柄だ」
大介が割り込んだ
「班長、こうは考えられませんかね。北嵯峨亭で田島に毒入りのコーヒーを渡したのは女将が変装した姿。そうでないとつじつまが会いません。顔見知りだからこそコーヒーを受け取った。違いますか」
「考えられんことはないな…」
三谷が
「その辺は後にするとして、動機はなんだと思う。姉弟して3人を殺すなんてことは尋常じゃないぞ。どうかな班長」
「そこです。祖母の話によれば、姉弟の父親は病気で医者も見放していたらしい。その時色々世話を焼いたのが当時の北嵯峨亭の旦那で、知り合いのつてで、どうも女将に薬を渡したらしい。どんな薬かは分からないが、ここで大阪の製薬会社が浮かび上がってくる。これはあくまでも俺の推測だが、おそらくこの二つの製薬会社、つまり大阪製薬と藤美薬品の当時の北野と田島に知り合ったと思う。その薬を服用した後父親は亡くなったらしい」
「ということは、やはり北嵯峨亭の旦那も殺されたのか」
「そうは思いたくないが、動機は充分にある。あの当時女将は結構売れっ子の女優だった。付き合っていた男もいたようだ。それに、結婚を申し入れたのは女将の方だったという噂もあるんだ。その地位を捨ててまで北嵯峨亭の女将になったのはこの犯罪を企て、一つづつ実行していったのではないかと、こう考えるとつじつまが合ってくる。しかしこれはあくまでも俺の推測だ」
「なるほど、分かった。今の考え方を元にして、進めていこう。新たな展開だ。製薬会社そのものがこの犯罪の動機を作ったとは考えにくいが、そこの従業員が関係している可能性は充分にある」
社と佐野は大阪に来ていた。大阪製薬。総務課長の岡山では話にならない。総務部長も同席している。佐野が
「いつもお忙しい時間にお邪魔して申し訳ありません。実は以前からお話ししています京都の殺人事件ですが、犯人像が浮かび上がってきました。その証拠を固めるため事実を伺いに来ました」
「事実と言いますと」
「元営業課長の田島さんが殺されて、我々もその動機が全く分かりませんでした。又藤美薬品の元取締まり役の北野さんも殺されました。3つの殺人事件に何か共通点が無いかと調べていくうちに、田島、北野の退職時期が一致したのです。
京都の北嵯峨亭という料亭の女将が現役の女優時代、この二人と接点があることも判明致しました。女将の父親は当時不治の病と診断され、ある人を通じて田島と北野を紹介されたのです。彼らから薬を貰った女将は藁にもすがる思いでこの薬を父親に飲ませたのです。しかし父親は薬を服用した後、死亡しました。薬を飲まなければあと1年は生き延びただろうと、当時の医者は言っています。つまり副作用です。調べてみますとその薬は当時も今も販売されていません。これをどうお考えですか」
単刀直入だった。佐野がこれほど直接聞くとは社も考えなかった。あまり突然すぎて、相手も声が出なかった。おそらく的を射ているだろう。
「どう思われますか」
大介は答えを迫った。
「暫くお待ち頂けますか」
総務部長は席を立った。30分も待たされただろうか、やがて総務部長が一人の男を連れて部屋へ入ってきた。その男が名刺を差し出して。
「ご苦労様です。私はこの会社の社長の前田と申します。お話は総務部長から聞きました。この時期になってあの話を警察の方から聞くとは思いませんでした。マスコミに伏せて頂けるならお話ししましょう」
社が
「分かりました警察からは絶対発表しないとお約束しましょう」
「有り難うございます。実は先ほどお話の薬は私どもの会社で開発中のものだったのです。研究段階ですから、絶対出回るはずのないものでした。いわゆる癌の治療薬です。画期的な薬だと研究所からは報告が来ていましたが、まだ1年はかかるだろうということでした。それを田島は持ち出したのです。それを当時の田中早苗という女優に渡した。しかしそれが元で父親は無くなってしまった。後から聞いた話ですが藤美薬品さんも同じ事件があったようです。しかしこの話は当時誰も気づかず、発表はされませんでした。勿論会社としては一従業員のやった事ですから責任の取りようがなかった。当時田中早苗は執拗に我が社へ抗議にやって来たが、我々としても対処の仕様がなかったのです。そこで田島を勇退という形で退職させたのです」
「なるほど、これで事件の全容が見えてきました。ご協力感謝致します。会社には一切関係がないこともはっきりしましたので、警察としても会社に責任が有るとは思いません。但し人間の命は尊いものです。命を助けたいと願う人たちがいる以上製薬会社の責任は重いものがあるということを自覚して頂きたい」
「勿論です。我々はあの事件以降、二重三重のチェックを行って、二度と悲劇の起こらないよう管理致しております」
「ご協力有り難うございました」
二人は丁重にお礼を述べて大阪薬品を後にした。
「大介、これで事件の全容が見えてきたな。しかしこれからが大変だ。これだけの事実を突き付けてもおそらく女将は口 を割らないだろう。会社の責任を追及したとしても、殺人を犯したという証拠は何もない。単に動機が見つかったというだけだ。弟を参考人として呼び出そう。そうする事によって女将が動き出すかもしれん」
「分かりました。早速奴のアパートに行きますか」
その時社の携帯が鳴った
「はい、社です」
「三谷だ。弟の健一の姿が消えた。尾行に気づかれたらしい」
「そうですか。それでは北嵯峨亭と京都駅に刑事を張り込ませて下さい。おそらくどちらかに現れるはずです。それと女将にも。おそらく何処かで落ち合うはずです」
「分かった。そっちはどうする」
「こちらは北嵯峨亭に向かいます。奴を見つけたら、署へ同行して下さい」
携帯を切って
「大介、奴が逃げた。女将にあたるぞ」
「分かりました」
北嵯峨亭
「女将に会いたいんですが」
「女将は出掛けております」
「どちらまでお出かけですか」
「分かりません。男の方から電話が有りまして。その後出掛けられました」
「有り難う」
北嵯峨亭を出て、社は三谷に電話をかけた
「女将も消えました。行き先は不明です。車ではないようです。京都駅に刑事を集中させて下さい」
「よし、分かった」
「大介、女将は何処だと思う」
「分かりません。でも逃げたんでしょうか。僕には信じられませんが」
「いや、逃げてはいない。おそらく弟を逃がそうとしているに違いない。京都駅は他の連中に任せて、洛北寺に行こう」
「父親の墓ですか」
「そうだ、無駄になるかもしれないがそんな気がする」
「分かりました」
北嵯峨亭からタクシーを拾った。左京区までは30分ぐらいだろうか。二人は黙ったままだった。重苦しい空気が流れている。あれだけ自信に溢れていた女将が逃げるはずはない。何かがあった。
洛北寺に着いた。大きくはないが、門構えも美しく庭も綺麗に掃除されていた。女将の気に入りそうな寺だ。門をくぐった。中で寺男が庭を掃除している。
「済みません、中を拝見してもよろしいでしょうか」
「へえ、いっこうにかましません。どうぞ」
「お墓はどちらに」
「本堂の裏です」
二人は本堂の裏へ回った。裏側もよく整備されている。墓場の裏に人影がある。近づくと洋服姿の女性がお参りをしている。二人に気づき振り向いた。北嵯峨亭の女将『藤原早苗』だった。二人を見て女将はにっこりとほほえんだ。覚悟していたかのような微笑みだ。洋服姿の女将は益々妖艶さが滲み出ている。
「女将、お久しぶりです。どなたのお墓ですか」
「あら、ご存じではないのですか。既にご存じかと思いましたのに。父親の墓です。5年前に亡くなりました」
「そうですか。失礼致しました。我々がここへ来た理由はもうお分かりだとは思うのですが。署までご同行願えませんか」
「どういうご用件ですか。心当たりはありませんが」
「弟さんは何処へ行かれました」
「存じません。何故弟のことを」
「実は弟さんに殺人の容疑がかかっています。探しています」
「弟のことは何も知りません」
「分かりました。取り敢えず署までご同行願います」
タクシーを拾い西京署へ向かった。車の中で女将は一言もしゃべらない。社も佐野も黙ったままだ。二人とも女将が一筋縄ではいかないと思っている。弟も見つかっていない。今までの捜査も単に推測の域を出ていない。それを女将も承知しているだろう。証拠は何もないのだ。殺しただろうでは逮捕状も何もあったものではない。どう崩していくか。腕の見せどころだ。西京署へ着いた。調べ室ではなく、応接室で話を聞いた。
「藤原さん」
社はあえて本名で呼んだ。
「私どもは、5年前まで遡り、お父様が亡くなった原因まで調べました。病院の医師、製薬会社、それに藤原さんの故郷の伊賀上野へ行きお婆さんにも会ってきました。その話を総合しますと、殺された田島、吉野、それに北野一句が線上で繋がったのです。それも藤原さんとの接点です。しかし吉野は田島と同じ会社ですが、当時の藤原さんとは何の接点もない。これだけが謎のままです。どう思われますか」
「随分詳しく調べられたんですね。さすが警察ですわ。確かに私の父は不治の病で亡くなりました。製薬会社の方にお願いして、お薬も頂きました。でもそれは父を思う娘として当然の事ですし、それが原因で父が亡くなった事も事実です。しかし私はあの方達に感謝こそすれ恨むなんてことはありませんでしたよ。北野さん私のために薬を下さったのですから」
「そうですか。でも、会社の方に伺ったところ、貴方はかなり強力に会社へ抗議をされたと聞いておりますが」「あれは若気の至りです。父を亡くした悲しさのあまり、回りが見えなかったのだと思います。あの後、北嵯峨亭の主人に随分諭されました。だからこそ北野さんが退職なされた後もお付き合いさせて頂いているんです」
「その後北嵯峨亭の旦那と結婚されたんですね」
「そうです。親身になって世話を焼いていただきました。私も情にほだされたのか、恋心を抱き、乞われるままに結婚したのです」
隙を見せない。完璧な受け答えだ。まるで女優の演技を見ているような錯覚を起こす。現役時代は演技派で売れていた女優だけの事はある。社は考えた。
『残念だが、証拠がない。これ以上女将を引き留めておく事は出来ない。弟の健一を崩すほか無いのか。女将は帰そう。これだけの反論をするのだから逃げる事はないだろう』
大介が口を開いた
「班長、私も聞いてもいいですか」
「いいぞ」
「はい」
社は大介のこんな顔は見た事がない。いつもにも増して目が鋭い。
「女将さん。私は警察に入って3年です。まだ刑事ではありません。こんな私が口を挟むのはおこがましいですが質問さ せて下さい」
「あら、そうですの。どうぞ何なりと」
女将はふてぶてしく微笑んだ。
「私は女将みたいに父親思いの方が殺人者だとは思いたくないんです。でも私はこないだ班長に質問しました。人間はどんなときに人を殺そうと思うのですかと。すると班長は答えました。人の心の奥底までは誰にも見えない。自分の心をコントロール出来ない人間がいるからこそ犯罪が起こるんだと。また、それが人間だ、とも言われました。恐ろしい事です。外見では、決して人間の心を読みとることは出来ません。しかし私は人間を信じたいと常々思っています。刑事には向かないかもしれませんね。殺人者も何らかの原因があって犯罪を犯すのですが、僕は警察官の立場、いえ人間の立場として被害者のことを先ず考えてしまいます。被害者にも家族がいます。勿論犯人には言い分が有るでしょう。しかし翻って被害者の家族の立場を考えると、その家族は犯人が憎くてしかたがないと思うのです。おそらくその犯人を殺してしまいたいと思う人もいるでしょう。これが繰り返されれば犯罪が途絶える事はありません。勿論それを取締まるのが警察の仕事ですが、私はそんな犯罪は見たくありません。理想論かもしれませんが、犯罪のない世の中かを作りたいのです。それを殺人者に問いかけたいんです」
大介が被害者の話をしだして、女将の顔色は変わっていった。大介は涙を流して女将に訴えている。手も震えている。
女将の頬を涙が伝った。しかし女将はそれ以上口を開こうとしなかった。
社が
「大介、もういいか」
社が止めなければ大介は大声で泣き出しそうだった。
「はい、もう充分です。これ以上私の言うことはありません」
「藤原さん。有り難うございました。ご協力感謝します。しかし、まだお聞きすることが有ると思いますので。その時は又ご足労願います」
社が玄関まで女将を送った。部屋に帰ると大介がハンカチで涙を拭っている。あえて社は声をかけなかった。初めての取調べで興奮もしただろう。自分の若いころを思い出しつい社もホロッとしてしまった。
大介が声をかけた
「班長、取乱して申し訳ありませんでした」
「いや、あれでいい。俺もあれ以上の事は聞けなかった。女将は決して逃げない。ダイイングメッセージを残すぐらいだから、ある程度警察への挑戦も有るのだろう。弟を何としても捕まえよう」
「はい、分かりました。これからどうしましょう」
「京都駅からは連絡はないか」
「いいえ、まだ入ってきません」
その時、卓上の電話が鳴った。
「班長、京都駅から三谷課長です」
「もしもし、社です」
「三谷だ。張り込み中の刑事から連絡が入った。奴はJRバスに乗ったようだ。今尾行中だ。まもなく京都東のインターから高速に乗るようだ」
「分かりました。我々も急行します。しかし課長あくまでも任意ですよ。まだ逮捕状は取れません」
「分かっている。刑事達にも徹底してある」
バスとは気づかなかった。出来れば駅で捕まえたかったが、発見しただけでも収穫だ。
「大介、車を用意しろ。緊急だ」
「了解!」
社が運転した。緊急執行で高速道路へ向かった。
藤原健一 37歳
過去に傷害と覚せい剤で逮捕歴3回
暴力団には加盟していないが関係はある
「班長、こいつ結構凶暴性が有りますね」
「そうだ。だから心配なんだ。刺激したら何をするか分からない。バスには何人ぐらいが乗っているんだ」
「高速バスは割安ですから、結構乗っているんですよね。私も田舎に帰る時は利用しています。」
その時社の携帯が鳴った。
「大介、出てくれ」
「はい、もしもし、班長運転中なので。佐野です」
「三谷だ。今京都東のインターに入った。東京方面に向かう」
「はい、分かりました」
社が
「大介、課長に決してあいつを興奮させないように言ってくれ」
「はい、課長、班長からの伝言です。決して興奮させないようにと」
「分かった。こちらも追尾する」
「はい」
「班長、東京方面です」
「よし。大介、俺たちは高速バスを追い抜いて、その先の停留所に止める。客を装って乗り込むんだ。いいな」
「了解しました」
京都東インターから高速へ入り、社は飛ばした。覚せい剤に手を染めた奴は何をしでかすか分からない。秘密裏に事を運ばなければならない。社は過去に失敗をしている。油断をしてしまった。おとなしいからと目を離した隙に人質を取られた苦い経験がある。
「大介、念のため高速隊にも連絡を入れてくれ。決してパトカーの姿を見せないようにと」
「分かりました」
大介は、京都府警本部指令室に連絡を取った。府警本部を通じて高速隊、滋賀県警、岐阜県警、そして愛知県警にまで連絡を取った。
「大介」
「はい」
「防弾チョッキとけん銃を確認しておけ。何があっても、決して冷静さを失うな。万が一人質を取られたら、人質の命が最優先だ。分かるな」
「了解!」
大介は震えていた。怖いからではない。武者震いだ。興奮していたが、班長の一言で冷静さを取り戻した。
「班長、見えてきました。あのバスです。後方の3台はうちの車です
「よし。課長に電話を入れろ。こっちは次の停留所に向かいバスに乗り込むと」
追い抜きざまに課長が手を挙げた。了解の合図だ。二人はバスを追い越し、更にスピードを上げ次の停留所へ向かった。
米原の手前に『畦田』という停留所がある。バスの停車に邪魔にならないよう故障車ゾーンにキーを付けたまま駐車した。後続の刑事がその車を持っていけるように。
「大介、離れて座るんだ。俺はジャンパーを着る。仲間と思われてはいかん。バスの中でも離れて座る。あいつの近くにな。決して目を離すな。その次の停留所手前で奴に声をかけ、降ろすんだ」
「分かりました」
「判断力がいるぞ。声は俺がかける。最悪奴が人質を取るようなこことがあれば、その次はお前の判断力が重要になってくる。二段構えでいくんだ。誰も助けてくれない。その時は自分で考えるんだ」
「はい、分かりました」
大介は小さいころから刑事ドラマが好きだった。格好いい刑事が悪い奴らを捕まえるのがたまらなかった。だが、いざ自分がその立場になると、決して格好良くもなく、迫り来る現実に、又自分の責任の重さに潰されそうになる。班長の方を見た。班長は平然と煙草を吸っている。何ともないのだろうか。だが、その姿を見て安心した。後からは課長はじめ多くの刑事が応援に来ている。自分一人ではないのだ。
バスが見えてきた。ほぼ定刻に停留所に到着した。後続の車両は先行していく。二人はバスに乗った。後ろから4番目の右側にサングラスをして車外を見ている男がいる。藤原だ。車内はすいている。45人乗りのバスに半分ぐらいしか乗っていない。社は後ろから3番目の左側の座席に座り、大介は藤原のすぐ後ろの席に座った。
社は先ず客席の位置を確認した。人数は22名、女性が15名、男性が7名。藤原のすぐ前に60歳前後の女性が座っている。バスが出発した。
暫く走行すると、4台の警察車両が、1台はバスの前、3台がバスの後ろに着いた。社達の車も拾われている。さすがに慣れている。次の停留所まではおそらく30分ぐらいだろう。1台の警察車がフルスピードで視界から消えていった。おそらく次の停留所に先行したのだ。
やがて次の停留所が見えてきた。社が立った。
「済みません、火を貸してもらえませか」
「なに、バスは禁煙やで、知らんのか」
「藤原だな」
「誰やお前」
「警察だ。ちょっと話がある。次のバス停で降りてくれ」
藤原は突然立ち上がった。胸からナイフを取り出し、前の座席に座っている女性の首筋にそのナイフを突きつけた。とっさの事で社も、佐野も抑えることが出来なかった。
「さがれ。殺すぞ」
社は下がった。藤原が大声を出し
「運転手。停まらずに行け」
その瞬間運転手はびっくりして急ブレーキを踏んだ。一瞬藤原はつんのめって、ナイフが女性の首筋から離れた。その瞬間、大介が藤原を後ろから羽交い締めにした。社が藤原に飛びかかり、ナイフを直に掴んだ。藤原が暴れようとするが大介の羽交い締めで動けない。社が
「奥さん、逃げて下さい」
しかし女性は動けない。大介も社も限界に来ていた。社の手から血が滲み出て来た。
「班長、大丈夫ですか!」
「大丈夫だ。大介、絶対手を離すな!」
「はい!」
他の乗客はバスから飛び出している。どれだけ時が過ぎただろう。長く感じる。その時、刑事が一人、二人とバスに飛び乗ってきた。二人が藤原を押さえつけた。もう一人の刑事が女性を抱えるようにしてバスから降ろした。社が
「大介、手錠をかけろ!」
大介はポケットから手錠を出そうとするが引っかかって出ない。やっと取り出し、押さえつけられている藤原の両手に手錠をかけ、ナイフを取り上げた。社が後ずさりして座席に倒れ込んだ。手からは血が流れている。
「班長!」
叫んで、大介が駆け寄った。
「大介、俺は大丈夫だ。奴を車の乗せろ。京都まで連行するんだ」
「しかし」
「行け!」
「はい!」
大介は社の気迫に圧倒された。凄い、自分の体を犠牲にしてナイフを直に掴んだ。絶対犠牲者を出さないんだという信念がそうさせたのだ。大介は他の刑事達と藤原を京都まで連行した。
現場には滋賀県警も応援に駆けつけていた。三谷が
「班長、ご苦労さんでした。怪我はどうですか」
「大丈夫だ。入院までは必要ないだろう」
「すばらしい判断でした。バスジャックでもされれば長引いていたところです」
「いいえ、僕ではありません。大介を褒めてやって下さい。あいつの判断が功を奏した。これからが大変ですよ。取り敢えず別件で奴を逮捕出来たが、本件を潰すには時間がかかるかもしれない」
「そうだな、班長、救急車が来た。取り敢えず病院へ行こう」
社は三谷に伴われて病院へ行った。
病院で手当を受け京都へ帰った。署に着くと大介が駆け寄ってきた。
「班長、怪我の具合はどうですか」
「大丈夫だ。まだ痛みはあるがな。それより、お前のあの判断は良かったぞ。あそこしかチャンスは無かった。あそこを逃せばもっと時間がかかっていたはずだ」
「いえ、あの時は無我夢中でとっさにああなっただけです」
「それで良いんだ。考える事も時には必要だが、あの状況では体の反応しかない」
「でも班長が手でナイフを掴んだ時はどうなるのかと」
「俺もとっさだ。別に刃を掴もうと思った訳ではない。掴んでしまったのだ。取り調べの具合はどうだ」
「だめです、全然口を割ろうとしません」
「今日は疲れた。かえって寝るよ。課長に伝えといてくれ」
「分かりました、お疲れさまでした」
社は疲れていた。手を切り、血もだいぶ流れた。人質を取られずにすんだ安堵感と藤原を逮捕した充実感で満たされていた。明日から又休みのない戦いが始まる。マンションの鍵を開け、冷蔵庫からビールを出し、そのままベッドへ横になった。ビールを一気に飲み干し、テレビを付けたがそのまま眠りについてしまった。
どれぐらい寝ただろうか。社は電話のベルで目を覚ました。
「社です」
「班長、佐野です」
「どうした」
「お休み中申し訳ありません。実は女将が消えました。あれから二人が張り込んでいたんですが、雰囲気がおかしいので北嵯峨亭をあたってみると、従業員にも何も言わずいなくなったようです」
「分かった。今何時だ」
「6時です」
「用意して行く」
「お待ちしています」
右手がまだ疼く。社はシャワーを浴びた。女将は逃げたのではないだろう。ここまで来れば、言い逃れは出来ない。きっと又姿を現す。
7時に署に着いた。今までの取り調べの状況を大介に説明させた。
「班長、藤原は一切否認しています」
「そうか、簡単には言わないのは分かっている」
「取り敢えずは、別件の捜査を固めよう。少しずつ進めればいい。今日は俺が調べよう」
「分かりました。私もご一緒してよろしいですか」
「勿論だ。その前に一つ調べて欲しい事がある」
「はい、何でしょう」
「北野が首を吊っていた帯締めだ。おそらくあれは伊賀上野の特産品の組紐だと思うんだが。北嵯峨亭の従業員で古くから勤めているお婆さんに確認してくれ。女将のではないと思うがな」
「はい、早速行ってきます」
社は考えていた。おそらく女将は3件もの殺人を犯し、発覚しないとは思っていないだろう。ダイイングメッセージ、帯締め、と足がつきそうなものを残している。薬で殺された父親の死因を究明出来なかった警察への挑戦と自らの恨みを晴らすために行った犯罪だと思う。次に何をするのか。弟を『銃刀法違反、公務執行妨害、傷害』で現行犯逮捕した。当分はこれの捜査を進めていかなければならない。それと平行して殺しの捜査を進める。
予想通り帯締めは女将のではなかった。しかし従業員が知らなかっただけで、女将のものかもしれない。産地は社の予想通り、伊賀上野産の組紐だった。しかも有名な作者の手による高価なものだ。社は他の刑事に捜査するよう依頼した。
社が調べ室に入ったのは午前10時を少し回っていた。藤原はふてぶてしい態度で座っている。社は分かっている。ふてぶてしい態度を取る奴ほど気は小さいものだ。昨日の興奮は少しは納まっているようだ。
「お早う。昨夜は寝れたか」
「お前には関係ないやろ」
「そうだな。関係はない。しかしこれから暫くは俺と付き合って貰わなければならんのだ。挨拶ぐらいはさせてくれ。俺はどんな奴とも、真剣に話す。お前がどんな奴かわからんが、俺流でいかしてもらうよ」
「勝手にせえや」
「取り調べに入る前に、行っておく。当然お前には黙秘権という権利が与えられている。しゃべりたくなければしゃべらなくても良い。だが昨日の事件で否認しても、証拠も目撃者も揃っているんだ。分かってるな。黙秘権というのは、嘘をついてもいいという権利ではないぞ」
「そんなこと説明せんでもわかっとる」
「昨日、バスの中で俺が声をかけた時、何であんなことをしたんだ。俺はただ話があるとだけしか言わなかったはずだ」
「俺は警察が嫌いなんや」
「嫌いは嫌いでいい。警察の前でわざわざ事件を打たなくてもいいだろう」
「理由はない。俺の勝手や」
「そうか。何で京都を出たんだ」
「用事があったんや」
「なるほど、ところで最近北嵯峨亭に頻繁に出入りしていたのは何かあるのか」
「あそこは姉貴の店や、弟が出入りしてもええやろ」
「それは構わない。でもおまえはあの店にはそぐわない、姉さんも嫌がっただろう」
「姉貴に金をせびりに行ったんや。玉の輿に乗ったくせに一銭も俺にはくれへん。ケチやで、あの女」
「それは違うな。姉さんは一生懸命仕事をして金を稼いでいるんだ。おまえみたいにぶらぶらして仕事もしないやつにくれてやる金はないんだよ」
「弟にくれる金はない言うんか」
「当たり前だ。それで金はもらえたのか」
「たったの百万や」
「大金だな。何かの報酬か」
「なに、どういう意味や」
「意味は無い。ただ、よくそんな大金を女将が渡したなと思ってな。よし、今日はここまでだ。しばらくはここに居てもらうよ」
調室を出た。
「大介、奴は女将から金をもらっている。金を渡すのを嫌がっていた女将が百万もの大金を簡単に渡すだろうか」
「殺しの報酬ですかね」
「そうかもしれない。ひょっとしたら恐喝かもしれないな」
「どういうことですか」
「女将は単独で第1の犯罪を実行した。だが、それを弟に知られた。こう考えたらどうだ」
「そうか、何年も計画を練ってやった犯行を身内である弟にはすぐに姉が犯人だと分かった。それで脅されたんですね」
「そう考えると、もう一人犯人を推測した奴がいる」
「吉野ですね」
「そうだ。吉野は自分の上司であった田島が北嵯峨亭で殺されたことに疑問を持った。そこで女将をゆすった。第2の犯行は予定外だったのかもしれない」
「それでダイイングメッセージを握っていなかった」
「おそらく女将は弟に吉野殺しを依頼したんだ」
「なるほど、これで第2の犯行の謎が解けましたね」
捜査本部。刑事課長の三谷が
「班長、目撃者が現れましたよ」
「え、本当ですか」
「第2の犯行現場の目撃者だ。ただ殺しの現場は見ていない」
「どういうことですか」
「実は、関東からの観光客だ。あの日帰る予定だったので。早朝の嵐山を散策していたカップルがいた。もめている二人の男を目撃している」
「なぜ届けなかったのでしょう」
「帰ってから、新聞で事件を知ったそうだ。いわゆる不倫のカップルだ。自分たちのことが知れるのをおそれたらしい。だが、やはり届けるべきだということになって警視庁の方へ届け出た。先ほど連絡があったんだ」
「どのような目撃ですか」
「吉野と藤原の二人に似ている。顔までは見えなかったそうだが、けんかに巻き込まれたくなかったので反対に行ったらしい」
やっと目撃者が現れた。あきらめかけていただけに一気に新しい展開になったきた。しかし女将の影がいっこうに現れない。どこに消えたのか。
社と佐野は北嵯峨亭に来ていた。女将が消えてから二日がたった。しかし、北嵯峨亭はいつものように動いている。まるで女将がそこにいるかのようだ。
「班長、女将はどこに行ったんでしょう。逃げたんでしょうか」
「違うな。俺は必ず女将はここに現れると思う。きっと覚悟していると思う。終わりだと。最後にしなければならないことをしているんじゃないかな」
「と言うことは、故郷に帰ってるんでしょうか」
「そうかもしれない。おばあさんに別れを言いに行ったのかもしれない」
「それじゃ、行きますか伊賀上野に」
「いや、ここで待とう。」
社は確信していたわけではない。カンだった。帯締めは伊賀上野の組みひも。しかも女将の女優時代のご贔屓筋の旦那が買い与えたものだということが判明した。最後の始末をしているのだろうと社は考えている。弟が逮捕されたことで事件の結末が近いことを悟ったのだろう。自分一人で考え実行しておればすぐには発覚しなかっただろうことも女将は分かっている。馬鹿な弟を持ったばっかりに計画が根底から崩れていった。しかしあの女将ならそれをも受け入れているだろう。女将は別に完全犯罪を狙ったわけではない。もしそうならメッセージなど残すはずがない。最初から覚悟はしていたのだろう。
社と大介は渡月橋にいた。事件の結末が近いことも感じていた。ただひたすらに待つことが女将の気持ちに応えることだろうと二人は思っている。 社はポケットから煙草を取り取出した。その時
「すみません。私にも1本いただけませんか」
二人はびっくりして振り向いた。そこには和服姿の女将が立っていた。
社が
「お待ちしていました」
と言って煙草を取り出し女将に渡した。社は女将の煙草に火をつけ、自分のにも火をつけた。誰もしゃべらず、ゆっくりと時が過ぎてゆく。
女将が口火を切った
「ご迷惑をおかけしました。もう思い残すことはありません。祖母にも会ってきましたし、お墓参りもすませてきました」
「そうですか。今はお聞きすることはありません。北嵯峨亭に行ってください。最後の始末を、その後で話は聞きます。ここでお待ちしています」
「有り難うございます。ご恩は一生忘れません」
それが社にできる唯一のことだった。私情を挟んではいけないことは社は百も承知している。しかし女将の一途な心情を思うとそうせざるを得なかった。大介が
「班長、いいんですか」
「分かっている。しかし俺のわがまま聞いてくれ。彼女は必ず帰ってくる」
「社さん、ひょっとして」
「何だ」
「いいえ、何でもありません。でも、大丈夫ですかね」
二人は待った。9時を過ぎてしばらくすると、洋服姿の女将が現れた。
「お待たせいたしました。全て片づきました」
「そうですか。それでは行きましょうか」
女将は頷いた。化粧を落としたその顔からは妖艶さは消え、まるで少女のような微笑みが浮かんでいる。社はその横顔をじっと見つめた。
女将を車に乗せ右京署へ向かった。調べ室は社と大介が入った。
「藤原さん、最初にこの件に関して黙秘権があることを伝えておきます。しかし嘘をついてもいい権利ではありません。誰かをかばうことのないようにお願いします」
「分かっております。ご迷惑はおかけいたしません」
「この一連の事件は北嵯峨亭から始まりました。あの日犯行現場の近くで目撃された従業員がいます。小柄な男性だったと聞いていますがあなたとの関係はどうですか」
女将は包み隠すことなく話し始めた。
「あれは私です。竹林の前で田島さんにコーヒーを渡しました。間違いありません」
「3件の殺人事件に全てあなたが関係しているのですか」
「私が関係しているのは最初と最後の2件です。後の1件は弟です」
「この事件の動機は何ですか」
「警察の方はこの事件を私の父を殺した人への復讐だと思われているかも知れませんが、それは違います。確かに父が亡くなったときは復讐したいと思いました。でも、思っただけです。実は、私の夫殺しへの復讐です。北嵯峨亭の主人も病気でした。あの時と同じように二人に薬をいただきました。私は飲ませるのをためらいその薬は隠しておきました。しかし私が居ないときに主人はその薬を飲んでいたようです。おそらくそれが元で主人は亡くなったのです。またも二人に殺されたのだと思うと、もう許すことはできませんでした。父親だけでなく、主人までも殺されたのです。いくら私でも我慢は限界です。主人が亡くなった後、二人は執拗に私に迫りました。男の醜さを知り、この犯行を計画したのです」
「なるほど、私たちは違う動機で捜査していたわけですね。でもその犯行を弟に知られた」
「弟はあの後すぐ北嵯峨亭に来ました。私をゆすりにです。でも私は金を渡しませんでした。そのとき、吉野から電話が入り、その電話を弟に聞かれてしまったのです。弟は言いました。俺が彼奴を始末すると。私は止めました。でも弟は殺してしまったのです。その後私はやむなく百万円を渡したのです」
「最後の北野殺しについてはどうですか」
「北野はあの前の晩、私の家に来ました。かなり酔っていました。しばらく話していると、いきなり私に襲いかかってきたのです。もちろん私は抵抗しました。そのとき弟が訪ねて来ました。それを見て弟は逆上し、脱がされた帯締めで北野の首を絞め、殺したのです。弟は死体の始末は自分でするといい、死体を車に乗せていきました。私はメッセージを弟に託しました。しかし次の日の新聞を見て私は全てを覚悟しました。弟は私の帯締めを使っていました。あの帯締めは公には使ったことはありませんが、見る人が見れば私のものだとすぐに分かってしまうだろうと」
「そうですか。全て分かりました」
社と大介は調べ室を出た。二人とも黙っている。時間が過ぎた。やがて大介が
「女将がかわいそうになってきました。父親が殺され、やっと見つけた幸をも踏みにじられた。殺すしかなかったのですね」
俳句の会「京洛」に絡んだ3件の殺人事件は解決した。この事件で、男の身勝手さと、女の悲しさを見た。
社大吉はこの殺人事件が解決した後、洛北署に帰った。いつもの業務に追われる日々が続いている。
佐野大介は事件が終わり、いつもの交番勤務に戻った。近所のお年寄りたちは喜んでいる。今日も知り合いのお婆ちゃんが
「大介さん、長いこと何処行ってはったん」
「あ、お婆ちゃん久しぶりです。やっと事件が終わりましたので帰ってきました」
「大介さんおらんかったらつまらんわ。誰も年寄り相手してくれへん」
「そう、でもお婆ちゃん。事件が多いからね。勘弁してね」
「ええんよ、気にせんといて。年寄りの愚痴やから」
大介は交番で書類を書いていた。そこへ
「こんにちは。大介さん」
大介は顔を上げた
「美樹さん。お久しぶりです。元気ですか」
「はい、すっごーく元気です。事件解決おめでとうございます。よかったですね」
「有り難うございます。今日電話しようと思っていたんですよ。ご協力有り難うございました」
「社さんはお元気ですか」
「元気だと思います。ここんとこお会いしていませんから」
「大介さん、お仕事明日までですか」
「いえ、もうすぐ終わりです。少し待ってもらえます。食事でもしましょう」
「わー、嬉しい。渡月橋で待っています」
社は事件後、もやもやとした日々を過ごしていた。何かが足りない。何だろう、と考えている。午後5時。携帯が鳴った。
「はい、社です」
「済みません、お忙しい時間に。橘です」
「あ、こんにちは。お電話差し上げようと思っていたんですが。」
「事件解決おめでとうございます」
「有り難うございます。これも橘さんのおかげです。」
「お食事でもどうかなと思いまして」
「今日はどちらに」
「今、京都にいます。京都のお友達と映画を見終わったところです」
「それでは6時に河原町でお会いしましょう」
社は急に心がうきうきしてきた。同僚に気づかれないように署を出た。
四条河原町午後6時。橘 梢は待っていた。社が近づき
「橘さん」
と声をかけた
「こんばんは。ごめんなさいね突然電話差し上げて」
「いえ、とんでもない。こちらから電話しなければいけませんでした。お食事でもどうですか」
「うれしい、何にしましょう」
「この近くに行きつけの店があります。もしよければ」
「喜んで、是非」
社は高瀬川沿いにある「虎の兎」に橘を誘った。中は相変わらず込んでいたが、カウンターは空いていた。
「ここは食べ物が美味しいんですよ」
「素敵なお店ですね」
「何を食べますか」
「何でもいいですよ」
社は幸せだった。儚い時間だとは思っているが、この時間を心行くまで
楽しむつもりだった。だがその夢を壊された
「班長!お久しぶりです」
びっくりして社は振り向いた。大介と美樹が立っていた。橘が
「あら美樹、デートなの」
「そう言うお母さんもデート?」
「偶然ね、座ったら」
「いいえ、お邪魔したら悪いから私たちは奥にします」
と言って奥に座った。橘が
「社さん、いいのかしら?」
「いいですよ。たまには別々でいきましょう」
「そうですね。あの子たちも子供じゃないんだから」
楽しいときが流れた。やがて橘が
「社さん、こないだ約束したお店に連れて行ってもらえませんか」
「いいですね、行きましょう。二人も誘いましょうか」
「そうですね、意地悪したら悪いわね」
大介と、美樹を誘い4人は京都の町へ溶けていった。殺伐とした日々から解放された社と梢は京都の夜に遊び、若い二人は堪能した。
次号に続く・・・
三都殺しのメッセージ
大吉、大介シリーズ
三都殺しのメッセージ @OK-NOVEL
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