第387話 こびりついた血の跡
恩寵時に失われた記憶は、この異世界にやってくる前の「思い出の全て」と「元の世界にまつわる知識の大半」であった。
自分にはどんな家族がいて、何歳の時に何をしていたかということは一切思い出せず、元の世界についてもこの世界に来てからの会話の記憶により「第八天のガイア世界」というらしいということしかわからなくなっていた。
「第八天のガイア世界」にはどのような歴史があって、どのような景色が広がっているのかなどがわからなくなっている一方で、思考時の言語や箸の持ち方などは不思議と憶えていた。
こうして何を覚えていて何を覚えていないのかという検証をこの半年ほどの間にゲイツたちと相談しながら進めていたのだが、どうやらこの異世界でも頭部の怪我によって稀に起こり得る記憶喪失の症状に近いことがわかった。
自分がどこのだれでどこに住んでいるのかがわからない一方で、日常会話や生活に必要なことはしっかりと憶えていると言った感じである。
異世界にやってきて以降の記憶がそのまましっかりと残っているので、自覚症状としては何も異常が無いようにすら思えるのだが、不意に世界にたった一人きりになってしまったかのような奇妙な心細さと不安に襲われてしまうことがある。
この異世界の人々にとって、≪恩寵≫が無くなったことで「神に見捨てられた」という思いを抱いている現状は、この心理状態に近いのではないか。
今まで当たり前のようにあったものが突如消える。
しかも、理由も分からず突然にだ。
≪這い寄る根≫に流布してほしかったのは、この「理由」にあたる部分だ。
神々にまつわることなので検証のしようもないし、それが真実である必要はない。
≪恩寵≫が喪失した理由を知り、それが希望の持てる内容であったなら、たとえそれが事実とは全く違う大嘘であっても人々はそれを頼りに生きていける。
流布したいと考えている内容は次のような感じだ。
もともと真っ赤な嘘なので、正確でなくてもかまわない。
人は信じたいことを信じたい様に、信じるのだ。
広まるうちに枝葉がつき、結局、真相と話の出所はあやふやになる。
ここ数年のうちに相次ぐ地震や天変地異などが起きたが、これは実は、この世界を守ろうとする善なる神々と人類を滅ぼそうとする邪神群との戦いの余波であった。
その戦いの結果、傷つき疲れ果てた善なる神々は眠りにつき、それによって≪恩寵≫が発生しなくなったのだ。
善なる神々はいなくなったわけではない。
深い信仰心を持って祈り続けることで、いつの日か善なる神々が復活する日も近づくことになるであろう。
相次ぐ地震や天変地異というのは、マテラ渓谷遺跡群から封印されていたバ・アハル・ヒモートが出現した時や、≪光の九柱神≫の生き残りとの戦い、そして先のアヴェロエスとの戦いを含む機械神十三体の破壊時の実際に起こった現象である。
これらは魔境域周辺で起こったものの、それに伴う自然災害や天変地異は遠く離れた地域に暮らす者たちにも感じ取れるほどのものであったし、少しは信憑性は増すのではないか。
事の真相の全てを知る者からすれば、ただのほら話にも思える内容を≪這い寄る根≫の組織の力が及ぶ地域で広めてもらえるか首領ザスキアに持ち掛けたところ、「随分とかわいらしい依頼で、少し拍子抜けしました」と、より赤髪に近づき、年頃の魅力的な女性に見えるようになってきたその顔をほころばせながら二つ返事で引き受けてくれた。
方法としては酒場での与太話や市井の者たちの噂話に加わったり、旅芸人や講談師、子供相手の紙芝居芸人などに扮し、それとなく流布させるようで、各地の動静を探る間諜の役割もかねて配下たちにやらせると確約をくれた。
ザスキアの色違いの両の瞳に理性が完全に戻ったのを確認し、クロードは地下深くにある≪這い寄る根≫のアジトを出た。
地上はもうすっかり夜が明けて、東の空が明るくなり始めていた。
地下の
ザスキアに噛みつかれた首の付け根は、EXスキル≪自己再生≫によりもうすっかり元通りになっていたが、乾いた血が衣服にこびりついてしまっていた。
自分の傷はこのとおり簡単に治ってしまうが、この異世界の人々の心はそうはいかないだろう。
長引く戦乱に政情不安。
貧困と治安悪化により疲れ果て、多数の死者も出続けている。
その上、心のよりどころとなる信仰すら失っては希望を見失ってしまうに違いない。
彼らから、信仰していた神々を奪い、≪恩寵≫を取り上げたのは俺だ。
それを善かれと思い、決断してきたつもりだが、罪の意識と結果に対する責任は、この服にこびりついた血の跡のように簡単には消えない。
自分ごときが考え付いた小細工にどの程度の効果があるかわからないが、少しでも早く社会の秩序と人々の心の平穏が戻ってくることをクロードは願わずにはいられなかった。
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