第348話 涙の粒

「おい、立て!」


クロードの腹部に一撃加えてきた男とは別の男が、髪を掴もうと手を伸ばしてきた。


クロードはその手をかわし、素早く立ち上がると体を横にくるりと回転させ、その勢いのまま、相手の胴に蹴りをくらわせた。

男の体は宙を飛び、ベルントの執務机に激突し、派手な音を立てた。


「てめえっ」


気色ばんだ男たちが動き出そうとしたが、それよりも速くクロードは動き出し、瞬く間に残りの四人を片付けてしまった。


正に一瞬の出来事で、やられた当人たちは何が起こったのかまるで把握できていなかったであろう。

クロードの超人的な身体能力が生み出す速さに、オロフ直伝の狼爪拳の無駄のない洗練された動きが加わり、それなりの手練れであったはずのベルントの護衛たちは、なすすべなく室内を制圧されてしまった。


護衛の男達は呻き声を上げながら床に転がり、起き上がれそうな様子は無い。


「ヒィッ、だ、誰か。狼藉者だ。誰か来てくれ!」


いまやブロフォストを支配する商業連合の一角、ニブラー商会のベルント会長の必死の呼び掛けである。

しかもここはニブラー商会の本社だ。


異変を感じ取った者たちが大挙して、この部屋に殺到してくるのが普通であろう。


しかし、何度叫んでも、誰も来ない。


「大声を出しても無駄ですよ。≪遮音≫と≪気配遮断≫の結界を張っています。この室内で出た音を外の人間が聞くことは出来ません」


クロードの傍らにシルヴィアが突如現れ、淡々とした口調でそう告げた。


ベルント会長は流石に観念したのか、手を伸ばしかけていたダガーの柄から手をはなし、その場に膝をついた。



シルヴィアが手際よく魔道の術でベルントとその護衛たちを眠らせているさまを眺めながら、今後どうすべきかクロードは悩んでいた。


ほんの様子見ぐらいの気持ちでニブラー商会に訪れただけであったのだが、事態は思わぬ方向に進んでしまった。

それだけエルマーのおかれていた立場が危ういものであったということなのであるが、もし偶然にも訪れた「懐かしの我が家亭」で再会していなかったら、今頃どうなっていただろうか。


ニブラー商会との決裂は決定的になり、身分を明かしての交渉などの道はついえてしまった。

どちらにせよ、このベルントという男はどうにも好感が持てなそうな人物であったから、協力関係になるという状況は考えにくかったし、ニブラー商会と事を構えてしまっては残る三つの商会とも上手くいかなくなる可能性が大きくなってしまった。


「クロードさん、これから僕はいったいどうすればいいんでしょうか?」


左目のまぶたと頬を赤く腫らしたエルマーが尋ねてきた。


もはやエルマーには、ニブラー商会における居場所はなく、それどころか命も危うい状況だ。

もし、このままベルントを解放してしまえば、エルマーに代わる新たな顔役があの区域に派遣され、あの自警団は今後の身の振り方を迫られることになるだろう。

エルマーはあの自警団のメンバーたちに随分と慕われているようであったし、一悶着あるのは間違いない。


「エルマー、この際覚悟を決めて勝負に出てみないか? 俺もできるだけのことは支援するつもりだ。このままブロフォストから離れて身を隠すというのならそれもいいが、それじゃあ解決にはならないだろう」


「勝負ですか? 僕に一体何ができるっていうんです。今だって、危うく殺されかけた。クロードさんと魔境域に調査に行った時もそうだったけど、僕はいつだってただの足手まといだ。ようやく自分の居場所が見つかったと思っても、直ぐに駄目になってしまう。僕にできることなんて何もあるようには思えない」


エルマーはうつむき、涙の粒を落とした。



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