第294話 明確殺意持至

もし、この異世界に転移させられることがなかったなら、おそらく一生、誰かを殺したいなどと思うことはなかっただろう。


他者を憎いと思ったり、嫌いだと感じたことがないわけではない。


一発ぶん殴ってやりたいと思ったことだって、はっきり覚えていないが何度かあったはずだ。


しかし、そう思っても実際に行動に移したりしないし、その腹立ちを越えて殺意を抱くなどと言った経験は少なくとも自分にはなかった。


元の世界でもそういった事件は起こっていたが、自分にとっては「とんでもないことをする奴が世の中にはいるもんだな」と思う程度で、自分とはかかわりのない非日常のテレビの中だけの出来事だった。


平和な国で生まれ、そう言った荒事とは無縁に育ったこともある。


自分ではそういうことを思いつかないほどに恵まれた環境で生きていたのだ。



その自分がこの異世界にやってきて、明確な殺意を持つに至っている。


たとえ相手が人の姿をした化け物であっても、これまでの自分では考えられなかったことだ。


デミューゴス。

他者を喰らい、それを取り込むことで様々な姿に変じ、その能力を使役することができるこの目の前の得体のしれない存在に対して抱く感情は複雑だった。


自分が理解できないものに対する恐怖にも似た思いと言動などから感じる嫌悪感、それに私怨が入り混じった思い。


この≪世界≫に暮らす全ての人々にとっても災いしかもたらさないであろう、この男を排除しなければという正義感めいた動機もある。



クロードはしばしの葛藤の後、今まさに積年の宿敵と雌雄を決しようというバル・タザルを止めた。


ある一つの懸念けねんが脳裏をよぎったからだった。


圧倒的な力の差があったとしても、本当にデミューゴスを滅ぼせるのか?


少し前にゲイツから聞いた「四つ足の獣に捕食され、気が付くと自分を食べた獣自身になっていたらしい」というデミューゴスの独白らしい話がずっと引っかかっていた。


それにデミューゴスのはかりごとに気が付いた後のルオ・ノタルがそのまま奴を放置し続けていたことにも違和感があった。


デミューゴスにはまだ、ひょっとすると自身も気が付いていない何か秘密のようなものがあるのではないか。


例えば、この場でデミューゴスを倒したとして、≪亜神同化あしんどうか≫が発動する可能性は無いだろうか。

ルオ・ノタルが生み出した≪九柱の光の神々≫のうち、二神を取り込んでいるが、そのことがすでに神に類するものである証であるように思えた。


もし何かの手違いでデミューゴスを取り込んでしまった場合、俺がその「四つ足の獣」になるなどということはないのであろうか。

ルオ・ノタルを取り込んだ際、内部的な相克そうこくにより乗っ取られかけた経験もある。


それに、まだ他にも奥の手を隠している可能性もないわけではない。

敵対関係にあって、姿をくらましていたのに突然無防備にもこの場に現れた。

用心深いデミューゴスの性格を考えれば、万が一戦闘になった場合の備えがあるとみるのが自然ではないだろうか。


地にひざまずき、許しを乞うデミューゴスを見て、それが奴の本心であると鵜呑みにするのは危険すぎる。


デミューゴスはもう少し泳がせ、奴の全てを把握する必要があるとクロードは判断した。


確実に殺すために、今この場では殺さない。



「バル・タザル、デミューゴスの身柄については俺に預けてくれないか。考えがあるんだ」


バル・タザルは、デミューゴスを生かしておくことの危険性を説き、傍らにいたエルヴィーラもその考えに同調したが、クロードは首を縦に振らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る