第231話 老婆

物質としての肉体を失っているにもかかわらず、腕から伝わってくる感触は生々しくかった。


老婆の体温。滴る血液。そして鼓動。


貫いてしまったのは紛れもなくただの人間の老婆であることにクロードは愕然とした。

人間を殺してしまったのだという事実に目の前が暗くなる思いがした。


失った肉体が有していた五感よりも、さらに鋭敏で優れた感覚が、この状態の自分には備わっており、人間としての肉体を持っていた時よりも精密に周囲の全てを把握することができていた。


そうであるにも関わらず、この老婆の出現に気が付かなかった。

あたかも初めからそこにいたかのように突然その場所に現れたのだ。


デミューゴスに気を取られていたこともあったのだろうが、老婆が徒歩で立ちふさがったのであれば、気が付けたはずだ。


そんな思いを巡らす間に老婆の体は≪神の火≫に巻かれ、瞬く間に燃え尽きた。


不思議なことに、老婆はなぜか終始、安らかな笑みを浮かべており、その青空のような瞳には何かを成し遂げたかのような達成感や満足感とでもいうようなものが感じられた。


「今の婆さんは何だ? アガタの部下か? まあいい。僕の役に立ったんだ。その事実だけで十分だ」


デミューゴスは、後方に飛び退り、懐から取り出した水晶玉のようなものを床にたたきつけ砕くと、こちらに向けて両手の掌を広げた。

何かするつもりらしい。


「虚界現出、万命灯冥獄封印」


割れた球状の物体からは、クロードの内側にも感じられる神力と似たようなものが溢れ出し、床には光る文字がまるで器から零れた水の様に広がっていく。


「馬鹿なロサリア信徒たちの受け取り手の無い信仰を利用して蓄えた神力だ。化け物め、全部お前にくれてやる。数十年にも及ぶ、私の苦労の結晶だ。心して味わうが良い」


よほどの術なのであろう。

デミューゴスの態度に余裕が戻ったのも束の間、仮面の中央に空いた二つの穴から目を細め、訝しげな顔をする。


「ん?なんだ、それは」


デミューゴスの様子がおかしいと思った瞬間、自分も異変に気が付いた。


先ほどまで老婆の体があった辺りに無数の光の粒が漂い始め、それが徐々に形を成していく。


全体の輪郭はどこか朧気であったが、若い女性の姿をしていた。

背に白い大きな翼を持ち、髪は長く、先ほどの老婆と同じく美しく青い瞳をしていた。


胸元には自分が先ほど開けてしまった穴が開いてしまっており、そこから少しずつ崩壊が進んでいた。


「我が名はロサリア。異界より来たりし優しき神よ。これは我が望み。心を痛める必要などありません」


翼を背に持つ異形の美女は、自らをロサリアと名乗り、なぜか俺を神と呼んだ。


ロサリアは少しずつ歩みを進めるとクロードを優しく抱擁した。


「待て。待ってくれ。それは、ぼぉくのだぞぉ」


「なりません。デミューゴス様、先ほどから一人で一体、何をなされているのですか。術はもう発動し始めています。早く逃げなくては我らも」


こちらに駆け寄ろうとするデミューゴスを聖女アガタが必死で引き留め、そしてこの部屋に来た時と同様の手段を取ったのであろうか、二人の姿は瞬時に消えてしまった。


クロードは崩れ往くロサリアの抱擁を受けながら、周囲の変化を見守っていた。


視界の上の方から、全く別の景色が、あたかもそれを描いた舞台の幕のようにゆっくりと下りてくる。


豪奢な調度品に囲まれた室内から、周囲三十メートル四方ほどの面積以外が無数の火が付いた蝋燭に囲まれた果てしなく広い空間へと景色を変えてゆく。


「これは、一体……」


すぐ後ろで、シルヴィアが呆然と立ち尽くしている。

彼女の足元には、少し前までクロードの肉体だったものが転がり、他にはただ果てしなく蝋燭の海が広がっている。


四人の魔石人間の女が立っていた辺りにもただ蝋燭が四本あるばかりで、他に人影はない。

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