第229話 先輩魔道士
一瞬の出来事だった。
神聖ロサリア教国中の信徒が敬い、崇拝する教皇パウルシス二世は、今、首を折られ、その屍を眼前に晒している。
すっかり意表を突かれてしまい、ただ茫然と見ているしかなかった。
「さあ、これで教皇の席が空きました。どうされますか? 教皇の座がお望みであれば、これで一月ほどの時間をくだされば、教皇にして差し上げますよ。それとも国王の方がお好みですか」
聖女アガタは、ゆっくりと左右の脚を組みなおし、椅子の手すりに肘をつくと、もたれかかるような姿勢をとった。
「人の命を何だと思っているんだ。ザームエルたち魔将も、デミューゴスもそうだったが、なぜそんなに簡単に人の命を奪える? 神にでもなったつもりか」
「怖い顔。どうやら、大魔司教様がおっしゃった通り、随分と甘い性格をされているようですね。でも、そこが可愛い。私見てましてよ。そこの女と昨晩激しく交わり合っていたのを」
聖女アガタは立上り、教皇パウルシス二世の屍の上をそこに何もないかの様に歩き、クロードの眼前に立った。
「数十年ぶりに、嫉妬を覚えましたわ。尽き果てぬ精力と情念。その女と違って、
聖女アガタは、クロードの首に腕を回し、シルヴィアの方に挑発的な視線を送る。
動くたびに煽情的な肉体が揺れ、全身から漂う淫靡な香りが鼻腔を刺激してくる。
≪精神防御≫が何らかの術に反応している。
おそらくアガタが何か試みたのだろう。
「よせ。俺にその気はない。教皇になる気もないし、お前たちと手を組む気もない」
クロードはアガタの体を引き離す。
「では、どうなさいますか。征討軍を率いているのは公爵のデュフォール。あれは私の掌中にはない。私の≪洗脳≫の影響下にあるのはこの首都と近隣の貴族のみ。国王を操り、意のままにならぬ公爵派や辺境の貴族に征討を命じたのは奴らの力を削ぐため。デュフォールは野心的で現実的な男。新たな教皇が即位し征討の終結を命じるか、戦費を補うそれなりの戦果が得られるまでは戻ってはきませんよ。そうなれば必ず血が流れる。良いのですか?」
アガタの表情が険しくなる。
どうやら拒絶されたことが気に入らなかったらしい。
デュフォール侯爵と言えば、ローデス城で会ったあの人物か。
確かに神聖ロサリア教国の人間の中では、比較的にまともそうに見えた。
アガタの≪洗脳≫は、神聖ロサリア教国全体に及んではいないようであるし、この聖女アガタさえ、取り除いてしまえば、まだ打つ手はあるように思える。
殺すか。
いや、殺すまでもない。
鐘の音や大聖堂での説法、他にも様々な手段を使って、人々を操り、影響を与えていたのであろうが、意識を奪い首都から遠ざけてしまえば時間とともに≪洗脳≫とやらの影響は薄れるに違いない。
突然アガタが飛び退り、クロードから距離を取る。
「交渉は決裂のようですね。≪読心≫で考えていることがすべて筒抜けですよ。お前たち、捕らえなさい」
アガタの命令で、四人の異形の女たちが動き出す。
クロードは何か武器になりそうなものがないか見渡したが、教皇が使ってたらしい木製の張型しか見つけることができず、仕方なくオロフ直伝の狼爪拳の構えを取る。
四人の異形の女たちは、長く鋭い爪でクロード引き裂こうと常人離れした速さで攻撃を繰り出してきた。相当訓練された動きで、連携もとれている。
だが、クロードの身体能力には遠く及ばない。
その中の一人を横蹴りで壁に吹き飛ばす。
「良いのですか。その女たちは、そんななりですが、貴方が大好きな正真正銘の人間ですよ。生きた人間に魔石を埋め込み、長い年月をかけて定着させた魔石人間。お優しい貴方に殺せますか」
アガタの勝ち誇ったような声が薄暗い部屋に響き、その姿が少しずつ遠ざかっていく。
「逃がさない」
印を結んでいたシルヴィアが掌をアガタに向けると、青い稲光が一筋走り、遅れて轟音が響く。
焼け焦げたような匂いと煙が部屋に漂う。
残る三人の魔石人間の女の連携攻撃を躱しながら、シルヴィアの放った
「魔力の制御、具現化にかかる時間、そして無詠唱。なかなかに腕の立つ魔道士を飼っているな。部下に欲しいくらいだ」
床にうずくまる聖女アガタを庇う様に立っていたのは、黒い司教服に身を包んだ仮面の男だった。
イシュリーン城で見たのとは違う目玉模様がたくさん描かれた奇抜な仮面をつけており、男の目の前には魔力で生成したと思われる透きとおった黒い障壁があった。
絨毯の一部や部屋の備品が燃えていたが、アガタも黒い司教服の男も無傷だった。
「アガタ、運が良かったな。アヴァロニアから戻るのがあと少し遅れていたら、お前はもう生きてはいないぞ」
「大魔司教様、お救い頂きありがとうございます。今後も変わらぬ忠誠を……ぐっ」
にじり寄るアガタの長い髪を突然、掴み乱暴に引き上げ、立たせる。
「この売女め。お前、私からあの男に乗り換えようとしていたな。何も知らないと思ったのか。お前らがやろうとしていることなど全てお見通しだ」
「お許しを。そのようなつもりでは……」
大魔司教ことデミューゴスは手を離すとシルヴィアの方を向いた。
「さて、クロード君の飼い犬の見事な魔道に敬意を表して、魔道士の先輩であるこの私が手本を見せてあげよう」
デミューゴスは右手の人差し指と中指を交差させると、それをシルヴィアの方に向けた。
「くっ」
シルヴィアは先ほどのデミューゴスの様に魔力障壁を張り、攻撃に備える様子を見せた。
「クロード君と二人で話がしたいんだ。殺すのは少しもったいない気がするが、ここで退場願おう。魔力に神力を加えた新たな魔道の技、その身で受けて学ぶがいい」
デミューゴスの右手から、黒い波動を纏った雷が放出された。
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