第153話 名宰相

大魔司教と魔将たちの襲来は、中部地帯ミッドランドの地に深い傷跡を残した。


魔将ザーンドラの巨大な蛇身は、大地を抉り、森を破壊した。

あまたの生命を喰らい、人々の平穏な暮らしを脅かした。

魔将マヌードは人々の心に疑心暗鬼と悲しみの傷跡を残した。

心を許した相手が変貌し、襲い掛かってくるという最悪の悪夢を人々の脳裏に焼き付かせた。

魔将ザームエルの操られた肉体は、美しいイシュリーン城の姿を損なう原因となった大魔司教デミューゴスに伴われ、仲間を傷つけ、玉座の間をも穢した。


城の周辺では今なお焼け焦げた跡が残り、犠牲になった者たちの亡骸が並べられ置かれたままになっていた。


城外では、魔将マヌードの寄生がされていないと確認された難民たちが、それぞれ犠牲になった同胞を悼むための鎮魂の篝火を灯し、損傷を受けて痛々しい姿となってしまったイシュリーン城の姿を下弦の月と共に夜通し照らし続けた。


難民たちにはクロードの指示で十分とは言えないまでも、可能な限りの食料の提供がなされた。もともとこれほどの難民が押し掛けてくることなど想定していなかったので、国庫の食料備蓄は少なく、これについては何らかの解決策を早急に打ち出さねばならない状況になってしまった。とりあえず、今は去り、空き家になっているオーク族の穴倉や、開いている土地であれば仮の住居を作り滞在しても良いという許可を与えることにし、足りない食料については各自でどうにかしてもらう他なかった。

それでも、あの恐ろしい巨大な蛇の怪物となったザーンドラの脅威から保護を受けられたことや少ない量ではあったが食事の配給がなされたこともあって難民たちの不満は少なく、むしろクロード王に対する声望は高まる形となったようだ。



オイゲン老が意識を取り戻したのは深夜のことだった。

知らせを受け、オイゲン老の自室を訪れると彼が横たわる寝台の周りにはユーリア、エーレンフリート、リタ、そして夜魔族のヤニーナがいた。

室内は宰相のものとは思えないほどに狭く、質素だったので、そのほかの者たちは室外にて待機していた。オイゲン老の容態を心配する者は多く、こんな深夜になっても廊下には人集りが絶えなかった。


「クロード様、どこにおられますか」


オイゲン老の弱々しい呼び掛けに、手を握り応える。

オイゲン老は酷く衰弱した様子で、視線もおぼつかなく、呼吸も乱れていた。

彼の皺だらけの顔は血色がなく、この一日で何歳も老け込んでしまったかのようだった。


「俺ならここにいるぞ。魔将ザーンドラは退けたし、大魔司教や魔将の脅威は去った」


「やはり、このオイゲンの目に狂いはありませんでしたな。クロード様はわが生涯の唯一のあるじと認めたお方。いかなる苦難も乗り越え……」


オイゲン老は酷く安心した様子で微笑みを浮かべたが、声に力なく、次第に聞き取りにくくなった。


「オイゲン、あまりしゃべるな。もう休め。話は後で聞く」


「いえ、クロード様。私はもう助かりませぬ。大魔司教との戦いの折に、魔道の禁を破り、残る生命力のほとんどを使い果たしてしまった。その禁術をもってしても時間稼ぎにしかなりませんでしたが、こうして生きてクロード様に会うことができ、後悔はありません」


オイゲン老は目を閉じ、大きく息を吐いた。


クロードはオイゲン老の体内にある魔力を探査してみた。

たしかにオイゲン老の魔力塊はかつての力を失い、小さく、今にも消え入りそうなほどだった。

灰を被った炭の塊に息を吹きかけた時の様にゆっくりと明滅している。


そしてなにより握っているオイゲン老の冷たい手からは、今まさに命が失われていく実感があった。


「オイゲン、何か俺にできることは無いか」


クロードはいつしか自分の頬に熱く伝うものを感じていた。

何か救う手立てはないのか。

これほどまでに自分に尽くしてくれたオイゲンに何かしてやれることは無いのか。

こんな時、いつも俺は無力だ。

この異世界に来て、人ならざる力を得ても、自分にとって大事な人一人救うことができない。


「もう十分にしていただきました。ザームエルの虜囚となり、人生の大半を己の心を殺し生きてまいりました。だが、あなたと出会い、私はこの世に生まれてきた意味をはじめて与えられたのです。短い間でしたが、クロード様と建国に奔走したこの時間がわが生涯の全てであり、幸福でした。あなたが作る国がどうなっていくのか、もう少し眺めていたかったがどうやら、お別れのようです。私は生涯独り身だったので、想像でしかありませんでしたが、もし息子がいたならあなたのような感じだったのかと密かに思っておりました。温もりをありがとうござい……まし……」


まるで寝顔のように穏やかな顔だった。

乾燥してひび割れた唇は動くことをやめ、握る手に力を感じなくなった。

体内の魔力塊に残されたかすかな光は闇に沈み、感知することができなくなった。


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