第150話 執念
ふと傷口を押さえる左手に異変を感じた。
湯に手を入れた時のような温もりを感じたのだ。
オイゲン老の出血によるものではない。
薬指にある、翡翠に似た石の指輪が明滅し、左手全体を柔らかな光が包み込んでいた。
光はやがてオイゲン老の傷口のあたりを覆い始める。
『主様、人間は治したことがない故、自信はないが血止めぐらいなら今の
脳内に直接語りかけてくる声は、森の精霊王エンテの声だった。
「はは、そうか。私の胃袋から森の精霊王を盗み出したのもクロード君だったのか。君とは何かと縁があるね。君にやられた傷がまだ治りきってなくてね。まだ相当痛むよ」
大魔司教の言葉にエンテの指輪が一瞬、微かに震え、たじろいだような感じを受けた。
「まあいい。私は寛大だ。この魔境域もマヌード君と東西二分して、仲よく統治するがいい。その代わり供物となる生贄は必要に応じて納めてもらうよ。なに、民など頭空っぽの操り人形だ。適当な理由をつければ、簡単に騙せるだろう。新たな魔将として、私と偉大なるルオネラ様に仕えることを誓いたまえ」
大魔司教は両手を広げ、高らかに声を発した。
「断る」
「ん~、何だって? よく聞こえなかったがまさか断ると言ったのか」
「デミューゴス。大魔司教などと名乗っているが、それがお前の本当の名前なのだろう。お前の放つ言葉の一言一句信じることは出来そうにない」
大魔司教の身動きが一瞬止まる。
「どこでその名を聞いた。そうか、あの死にぞこないの片割れと一緒にいたのもお前か。何か吹き込まれたな。唯一神の操り人形どもが、ことごとく邪魔をしてくれる」
デミューゴスの口調が変わった。お道化るような調子が無くなり、冷淡な感じが強まった。
「大魔司教様、もうよろしいのではないですか。この者の肉体は我が分裂体に支配させれば問題ないかと。私にお任せください」
「無傷で手に入れたかったが仕方ない。好きにしろ」
大魔司教ことデミューゴスは仮面の奥にある瞳でクロードを一瞥すると、踵を返し、玉座に腰を掛ける。
代わりに青い顔のザームエルの肉体がこっちに近づいて来る。
操っているのはマヌードということだが、ヅォンガたちの例を参考にすれば、戦い方は奪った肉体に依存しており、ザームエルの体ということであれば、剣技や肉弾戦を駆使してくる可能性が高かった。
「少し大人しくなってもらいますよ」
マヌード分裂体は、ザームエルが愛用していた蛇を模した剣を抜いた。
クロードはオイゲン老を床に優しく横たえると立上り、魔鉄鋼の長剣を抜き放つと自らマヌード分裂体の方に歩いていく。
意識がない仲間たちに被害が及ばぬように、常に位置を把握しながら戦わなければと自分に強く言い聞かせる。
玉座の間の中央で両者は向かい合う形となり、互いに相手の間合いを探り合う。
クロードは魔力探査で相手の魔力塊の位置を探ったが、もう完全に取り込まれてしまったのか魔力塊の数は一つだった。
つまり目の前にいる存在は、もうすでにザームエルではなくマヌードそのものということになる。
先に仕掛けてきたのはマヌードの方だった。
さらに一歩踏み込み、蛇行した形状の剣を横一線に振りぬいた。
完全に同化しているのであれば、動きの精度と速さは強化されているはずだが、以前よりも早く感じなかった。向こうの強化分よりも自らの恩寵による上り幅の方が上回っていたのだろうか。
クロードは蛇剣の軌道を冷静に読み切り、最小限の動きで身をかわすと、相手の剣がきりかえす暇を与えずに、最速の突きで心臓の位置を捕えた。
クロードの剣は固い金属鎧を突き抜け、心臓を深々と抉るとそのまま厚みのある肉体を貫通した。
「ほう、速いな」
玉座から高みの見物を決め込んでいたデミューゴスが感嘆の声を上げる。
クロードは剣の柄を両手で握ると、マヌードを刺し貫いたまま突進し、力任せに壁に突き刺した。そのまま間髪入れず、魔鉄鋼の長剣に魔力を送り込むと≪炎≫の心像を宿らせる。長剣を覆った魔力は激しい炎となり、かつてザームエルであった者の肉体を包む。
「そ、そんな。この肉体は魔将ザームエルのものだぞ。こんな容易く……馬鹿な。尊い私の命が……燃える。許せない。お前もせめて道連れにしてやる」
恐るべき執念だった。マヌード分裂体はその身を炎に巻かれながらクロードの両肩に手をやり、逃さんと爪を立てる。
マヌード分裂体の身を焼く紅蓮の炎が、クロードの身体をも焦がし始めた。
だが、クロードは腕の力を緩めることなく、さらに魔力を送り込み火勢を強める。
石壁は焼け焦げ、クロードの皮膚も焼く。
髪と肉と布が焼ける匂いが入り混じり、鼻孔を満たした。
火傷による痛みで、心がひるみそうになったが、ヅォンガや殺めてしまったオーク兵たちのことを脳裏に浮かべ、歯を食いしばる。
クロードは雄たけびを上げ、渾身の力で魔鉄鋼の長剣を力任せに斬り上げた。
背後の石壁もろともマヌードの心臓から上の部分を切り裂いた。
マヌード分裂体の両手は力を失い、その体は炭化しながら、玉座の間の床に崩れ落ちた。
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