第8話 名前

無口な人だった。

父親の気難しい顔は、はっきりと思い出せる。

いつも忙しく、朝は早く出社し、夜遅く帰ってくる。休日はいつも疲れて、寝ている姿が印象的だった。子供のころは遊んでもらったことも、どこかに連れて行ってもらったこともなかった。良いことは良い、悪いことは悪い。しつけには厳しく、子供心に怖い人だと思っていた。

そんな父が大学入学が決まった時、就職が決まった時、言葉は少なかったがとても喜んでくれたのがとてもうれしかった。

こんなにもはっきり様々なことを思いだせるのに名前だけが出てこない。

名前を忘れてしまっただけで父親の存在がどこか漠然としたものになってしまった気がした。


「あなた、私が知らない種類の妖魔や死霊の類じゃないわよね」


白銀の髪をした女性が、恐る恐る近づきながら問いかけてきた。

透きとおった青い瞳を見開き、あごに手をあてる。

見た目だけで言ったら、年齢は十代後半といったところか。

細く華奢で、女性としては背が高く、自分の背丈と同じくらいはあると思われた。

外国人女優やモデルといっても通用する容姿だと思うが、彼女の纏う神秘的な雰囲気がより一層美しさを際立たせていた。

そして何より、普通の人間のそれとは違う長い耳。


「変わった格好。それにあなた、今にも死にそうなくらい痩せているわね。こんなに痩せた人、いままで見たことないわ」


日本語ではないのに、意味が分かる。

日本語でも英語でもない、未知の言語。

理由はわからないが、彼女の言っていることがわかる。


「どこにでもいる普通の人間だよ。自分でも何が起きたかわからないんだ。ここがどこかもわからないし、これからどうすればいいかもわからない」


彼女は一瞬、驚きの表情を浮かべた。


「あなた、森の民の言葉がわかるのね」


彼女の表情が心なしか明るくなった気がした。


「私はオルフィリア。あなた、名前は?」


「俺は・・・・」


愕然とした。

名乗ろうと思ったが、次の言葉が出てこない。

自分の名前がわからない。

忘れて思い出せないとかそういうことではない。

はじめから知らなかったかのように、自分の名前というその部分だけ抜け落ちているのだ。

忘れて思い出せなくなっていたのは、父親の名前だけではなかったことに愕然とした。


「すまない。自分の名前もわからないんだ」


「そう、色々と訳ありなのね。でも、とにかく助かったわ。本当にありがとう。 私一人だったらどうにか切り抜けられたけど、この子が一緒だったからね」


オルフィリアは、馬の頬を撫でながら微笑んだ。


「いや、岩陰で様子を窺っていたら突然襲われて、無我夢中で抵抗してたら、結果的にそうなったというか、なんというか。まあ、とにかくお互い無事でよかった」


もう少し近づいて話そうと歩み寄ると、彼女は伏し目がちに後退った。


「ところで・・・・・。その恰好を何とかしない?目のやり場に困るわ」


腰に巻いていたTシャツがはずれて無くなっていた。

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