第4話 変貌
気が付くと昨日までの苦しさは嘘のようで、清々しささえ感じた。
朝の澄んだ空気がうまい。
顔と手、そして衣類にたくさんの血の跡がこびりついていた。
もし鏡があったら、ひどい姿をしていることだろうと身震いした。
Tシャツとトランクスの男が血だらけである。
そして異変に気が付いた。
腕や体がガリガリに痩せていたのである。
骨と皮と筋だけと言ってもいい。
Tシャツと下着もサイズが合わなくて困ったことになった。
「うわっ、気持ち悪い」
地面を見ると床屋に髪を切ってもらった後の何十倍もの毛髪と異常に伸びて変色した爪が剥がれ、落ちていたのだ。
落ちた毛髪はところどころ血で固まっていた。
よく見ると人間の歯のようなものも落ちている。
自分のものではないかと慌てたが、幸い歯は抜け落ちていなかった。
ひとしきり自分と周囲に起こった異変を確認していると、突然、猛烈な空腹が襲ってきた。
なんでもいいから食べたい。
喉もひどく乾いている。
(死にたくない)
(このままでは、死ぬ)
(もっと生きたかった)
(ひもじい。なんでもいい。満たされたい)
(これでは何のために、私は)
幻聴か。
違う。
耳からではない。
得体のしれない何かが体中から湧き上がってきた。
自分の身にまとわりつく妄執や呪詛のような断片的な何かが飢餓感を
増幅し、囁きかけてくる。
(何でもいいから、とにかく喰え)
(貪り、啜れ)
(血肉となるものを)
(死にたくない。楽になりたい)
(このままでは、無駄死にだ)
(許せない。これで終わりなんて)
(殺せ。奪い取れ)
数百人、あるいは数千人。
数えきれない幾多の声のようなものが脳中を駆け巡る。
一つ一つは弱弱しく、何かの残りかすであるかのような存在感だが、言葉の奔流となり、押し流してくる。
自分は狂ってしまったのだろうか。
何か食べる物を見つけなくてはと血走った眼で、周囲を見渡す。
耳を澄ませて、気配を探る。
少し離れたところに小さな息遣いを感じる。さらに遠くの木の上にも微かな音。
風の音とは違う生き物の発する気配。
意外なほど多くの生物の気配に気が付いた。
空腹で五感が研ぎ澄まされているからか。
自分はこんなにも耳が良かったのか。
それからしばらくの間、その微かな気配を頼りに、食料を探し、彷徨った。
鼠によく似たすばしっこい生き物を捕まえ、そのまま噛り付く。
普段の自分では考えられない行動。
しかし、その行動を顧みる余裕がないほどに、衝動に突き動かされ、肉を歯で裂き、生温かい血を啜る。
身体の奥底に小さな火種が宿るような感覚を覚えた。
まだ足りない。全然足りない。
熱に浮かされたように、獲物を探し続けた。
鳥の雛。卵。鼠。野兎のような小動物。虫。見知らぬ果実。奇妙な植物。木の皮。
とにかく目につく食べられそうな物を貪り、食べた。
食べれるか食べれないかの根拠はない。
何か食べなくては死ぬという言いようのない恐怖感と渇望に突き動かされ、
食料を探し続けた。
人生で体験したことがないほど、身は軽く、五感は研ぎ澄まされていた。
遠巻きに少しずつ距離を詰めてくる気配にも気付いた。
音の大きさ、息遣いの荒さ。
気配の主は、徐々に速度を上げていき、茂みから飛びかかってきた。
全体重でのしかかり、地面に押さえつけられた。喉笛目掛けて顎が迫ってくる。
上あごと下あごの間に右腕を押し込む。
迫る頭部は狼のそれに似ていた。口中からは思わず顔をそむけたくなる臭いを放っていた。
赤黒く光る眼。暗い灰色の体毛。その体躯は大型犬より一回りは大きいであろうか。
殺される。
喰われてしまう。
殺されたくない。
喰われたくない。
喰いたい。
喰わせろ。
両足で狼の胴体を全力で締め上げる。
灰色狼は、苦しみ悶え、逃れようと身をよじる。
近すぎて力が乗らないが、左の腕でひたすら殴りつける。
そうして小一時間はたっただろうか。
灰色狼は動かなくなった。
噛まれた右腕を見てみると、ところどころ血が滲んでいたが、自分より大きな肉食獣と格闘して、この程度で済んだのはむしろ異常とすら思えた。
さらに異常だったのは、動かなくなった狼を見て、旨そうだと感じていたことだった。
狼の体躯は剛毛でおおわれており食べにくそうだ。
比較的毛が少なく柔らかい腹側の肉を嚙みちぎる。
そうして傷口を手で引きちぎったりして、手と口元を血だらけにして夢中で食べ進めていく。
突然、頭の中に文字の羅列によるイメージが沸いた。
漢字、ひらがな、アルファベット、数字の膨大な文字列が途中で螺旋となり、見たこともない記号とも文字とも思えるものに変換され、理路整然と並び、再び列を為す。
あたかもそれは本の中の1ページのように、何かを織りなし、やわらかい光となって消えた。
全身に力が湧き上がり、視界が開けたような感覚があった。
その後、奇妙な音声のようなものが脳中に流れ、目の前に得体のしれない文字列が再び現れ、しばらくすると消えた。
しばらく時間を空けて、もう一度違う響きの音声が流れた。
今のは何だろうかと思ったが、今は食事が優先だった。
灰色狼の味は、鼠もどきや野兎と比べると筋張ってまずかった。
独特の匂いや風味もあり癖が強い。
しかし、贅沢を言っている場合ではなかった。
とにかく腹が減っているのだ。
いま必要なのは味ではなく、ボリュームだった。
一昼夜かけて無我夢中で食べ続けた。
めぼしい部位をすべて食べ終わると夜が明けていた。
まだ満腹には程遠い状態だったが、絶望的な飢餓感と焦燥感からは解放された。
心を埋め尽くしていたあの呪詛とも怨嗟とも思える声の激流も聞こえなくなっていた。
冷静になり正常な思考が甦ってくると、どう考えても異常と思える自分の行動と状況に戸惑った。
逃げる小動物を素手で捕まえる。野生の獣の狩りのような真似が普通の人間に可能だろうか。
そのうえ、自分を捕食しに来た狼を返り討ちにし、貪り食う。
無我夢中で胃袋に放り込んだものの詳細を思い出すと自分は狂ってしまったんじゃないかと恐ろしくなった。
その時ふと、はるか遠くから水の流れる音に気付いた。
昨日までは全くと言っていいほど気づかなかった音がはっきりと聞こえる。
気が付くと無心に川に向かって走り出していた。
トランクスが脱げ落ちていることに気付かないほどに無我夢中で。
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