沈黙に積雪

尾八原ジュージ

グユニレナフコス氏病

 妻のグユニレナフコス氏病はいよいよ第5ステージに進行し、一日に二度注射をしないとすぐにゲル状のものになって、放っておくとそのまま死んでしまうらしい。ぼくは仕事を在宅に切り替えてもらい、妻の介護をすることにした。

 日常生活もままならなくなった妻は、部屋の窓辺にベッドを置いて日がな一日外を眺めている。ぼくは食事やトイレの介助をしつつ、彼女に注射を打たなければならない。部屋に目覚まし時計を五つ置いており、午前九時と午後九時にそれらは嫌というほど鳴り響く。投薬の合図だ。これだけ置いておけば、どれかひとつが止まってしまっても問題ない。

 ぼくは妻の部屋に行き、コンニャクのような手触りになった腕をとって、医師に指示された通りに注射を打つ。彼女はもう口をきくのも億劫なはずだが、重たそうに唇を動かして「ありがと」と言う。

「雪が」

「そうだね。雪が降ってきた」

 窓の外を見ながらぼくは相槌を打つ。

「鶯は、もう、無理ね」

 今年の鶯の声はもう聞けないだろうと言っているのだろう。「そんなことないよ」と返すと、妻はぐにゃぐにゃと首を振った。

「夜、注射、いいから」

「そういうわけにはいかないよ」

「いいの」

 妻は黙って外を眺めた。

 ぼくは自分の部屋に戻って仕事にかかる。没頭できることがあるのはありがたい。昼になると妻の部屋で昼食をとる。彼女はもう固形物は受け付けない。病院の売店で買った、ゼリーのような専用の食品を少し食べるだけだ。

「夜、注射、いいから」

「そういうわけにはいかないよ」

 排泄物を片付け、整えたベッドにもう一度寝かせて、ぼくは仕事に戻る。

 空には重たい色の雪雲が垂れ込めている。ちらちらと雪が降り始めた。


「そんなの、兄さんのエゴじゃないの」

 ひさしぶりに見舞いにやってきたぼくの妹は、妻の部屋から出てくると、ぼくにそう言った。

「わたしが義姉さんの立場だったら、同じことを頼むと思うけど」

「注射を打つなってこと?」

「そういうこと」

 妹を追い出すと、ぼくは自分の部屋に戻った。どことなく違和感を覚えたが、気のせいだと思ってまた仕事に戻った。

 夜、妻はぼくの顔をまじまじと見つめると、

「ありがと」

 と言った。まだぼくたちが恋人同士で、彼女が病気にかかっていなかった頃と同じ瞳で。注射のことは何も言わなかったので、今日は妹と話したから気が紛れたのだろうと思った。

 ぼくは食事を片付け、部屋に戻った。手間のかかる緊急の差し戻しがあり、夜中までかかりそうだった。夢中でとりかかっていたが、屋根から雪が落ちる音に驚いてふと我に返った。

 パソコンの画面の隅を見ると、「22:12」と表示されている。青くなって部屋中に置いた時計を見ると、すべての時計から電池が抜かれていた。

 ぼくは急いで妻の部屋に向かった。彼女はもう死んでいた。介護用のベッドの上から、灰色がかったゲル状のものがぼたぼたと床に垂れていた。

 ぼくは呆然としながら、家中のタッパーだの茶碗だのコップだの鍋だのボウルだのを持ってくると、妻だったものを必死に掬った。一晩中かかってできる限り集めたそれらの大部分を床下収納にしまってから、ぼくは妹に電話をかけた。妹は待ち構えていたように、ワンコールで応えた。

『そうよ。わたしが電池を全部抜いておいたたの』

「人殺し」

『通報すれば?』

 電話は切れた。

 ぼくはダイニングテーブルにタッパーをひとつ載せた。清潔なスプーンをひとつ取ると、中に詰まっている妻だったものを掬って口に運んだ。ほのあたたかく、雨水のような味がした。

 空が白み始めた。家の外も中もひどく静かだ。止んでいたはずの雪が、いつの間にかまた降り始めている。

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沈黙に積雪 尾八原ジュージ @zi-yon

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