第4話


「おう、気が付いたみたいだな。」

 横になる俺の顔を覗き込む男を、俺は知らなかった。鼻の下に整えられた髭を携え、血色が良い顔の男は四十台前半と言ったところか。誰だ、と声を出そうとしても目を開けるのが精一杯な俺にはその一言すら口から出せなかった。俺の上体を男は右腕一本で軽々と起こし、ちゃぶ台の上にある皿を指差し、食えといった。指一本動かないと思っていた体から力が湧きあがり箸を掴むと私は貪るように食べ物を口に運んだ。野菜と米が煮込まれた雑炊を胃袋に次々と流し込んだ。

「誰もとりゃしねぇよ。ゆっくり食いな。空きっ腹に急に入れすぎるとかえって毒だぜ。」

 言っていることはわかるが、頭より先に体が動いて止まらない。あっという間に差し出された皿を空にした。胃袋が満たされると、涙があふれてきた。まだ俺は生きていられる。生きていて良いのだ。俺は周囲を気にせず声を出して泣いた。男は俺が落ち着くまで何も言わず待っていた。しばらくして俺は平静を取り戻し、改めて礼を口にした。

「ありがとうございます。助けてくださいまして。」

「いや、礼を言うのはこっちの方だ。うちの小僧を助けてくれたそうじゃねぇか。」

「助けた?」

「なんだい、覚えていないのか。うちのが特攻くずれのガキどもに殴られているのを助けてくれたんだろ。聞いたぜ。相手は四人がかりで襲い掛かってくるのをヒョイッといなして、顔面や腹に数発入れてのしたってな。なかなかのお手並みじゃねぇか。やっぱり戦地帰りは違うねぇ。」

 特攻くずれとは、特攻隊に選ばれながらも終戦を迎えるまで出撃する機会に恵まれなかった若者たちの蔑称だ。爆弾と共に命を散らすことすら出来なかった彼らは、生き残ってしまった軍神と蔑まれ復員兵よりもさらに冷たい視線にさらされた。仕事も技術も何もない若者たちは社会から弾かれて愚連隊となる者も少なくなかった。俺はそんな特攻くずれの不良たちから子供を助け、そこで力を使い果たして倒れてしまったらしい。

「あの子供はあなたの息子さんですか。」

「あれは俺の子供じゃねぇ、ウチで面倒見ている小僧の一人だ。小僧一人失っても痛くも痒くもないが、あいつに運ばせていた商品が大切でな。いい金になる品にも拘わらずあのガキ、ヘマしやがった。そこをあんたが助けてくれたってわけだ。おかげで明日も無事に商いが出来るってもんだぜ。おっと自己紹介が遅れたな、俺は上野でマーケットを取り仕切っているもんだ。斎藤嘉助と言えばこの辺で少しは名前が知られているんだぜ。」

 その名前は俺も知っていた。ヤミ市を営むヤクザの一人だ。すると助けた子供はヤクザに拾われた戦争孤児と言ったところか。

「俺は河村省吾。南方帰りです。」

「そいつはご苦労さんだったな。俺は中国で兵役を終えて帰ってきたクチだから、まだマシってもんだ。中国は寒くて堪えたが、南方は暑さと伝染病で厳しかったと聞くぜ。」

「南方も辛かったですが、今の東京の方が地獄です。」

「ちげぇねぇ。ともかく命があっただけ儲けもんだ。今日はうちに泊まるといい。風呂にも入ってけ。自分でも気づいていると思うが、だいぶ臭うぜ。」

 長いこと着続けた軍服はもはや体の一部だ。汗を吸い込み重たくなった生地からは鼻をツンと刺激する臭いが自分でもわかるくらい発せられている。他人からしたら言わずもがなだ。だが、このボロボロの布切れが残された唯一の財産なのだ。

 俺は鼻を押さえた女中に案内されて風呂場へ向かう。板張りの廊下の右手には整えられた庭が見える。先程の部屋もそうだが、家の造りはだいぶ豪華だ。これほどまでの家が戦火にさらされず進駐軍の接収も免れたというのも驚きだが、何よりヤミがここまでの資産をヤクザにもたらせていることに舌を巻いた。家の中に風呂があること自体、俺には理解が及ばない。

 脱衣所で久方ぶりに軍服を脱いだ。鏡に映ったのは見慣れぬ男の裸だった。腕は細く、胸には骨が浮かび上がり、死神というものが実在としたら、黒いマントの下はこんな体だろう。一体、この肉体でどうやって若者四人を倒したのかと不思議になる。案外、やられたのは俺で、それを助けてもらったというのが事の真実かもしれない。とりあえず、この極限状態に降って湧いた幸福を甘んじて受けるとしよう。騙されていたとしても、今の俺に失うものなど全然ないのだから。風呂場に入り、俺は息を呑んだ。四尺はあろうかと思われる木造の湯船に石鹸やヘチマのたわし、銭湯よりも立派じゃないかと思われる。あまりの贅沢な生活を目の当たりにすると、貧乏人は羨望することも忘れ、気が遠くなってしまうらしい。湯舟に浸かる前から立ち眩みがした。

 桶で体を流すと、透明だったお湯がつま先の来るころには茶色く染まっていた。たわしで体を洗うと、白い石鹸の泡はすぐに黒く染まった。自分が不潔だと認識していたが、ここまでとはと閉口した。先程横になっていた布団をだいぶ汚したのではと申し訳ない気持ちになった。髪や体を洗い、髭を剃るとサッパリして生まれ変わった気分となる。心なしか体に張りが出たようだ。さて、湯舟をいただくこととしよう。お湯の温度は少しぬるかったが、かえってこのぬるさが体を労わるように優しく包み込む。俺は思わず「ふぅぅ」と気の抜けた声を出した。

「アニキ、湯加減はいかがですかい。」

 完全に油断していたところに声をかけられ、驚いて湯舟の中で滑った俺は頭のてっぺんまでお湯に浸かった。ぷはっと息を吐き、辺りを見渡すと窓の存在に気が付いた。そこから顔出すと、子供が薪をくべているのが見えた。火に照らされた顔は幼かったが、右頬がひどく腫れあがっていた。

「坊や、ありがとう。ちょうどいいよ。ところでアニキってなんだい。君が沸かしているのは赤の他人の湯だぞ。」

「そんなことはねぇですよ。アニキの湯は俺が入れるんだって志願したんですから。」

「ん?どこかで会ったことがあったか。」

「つれないこと言わんでくだせぇよ。アニキはおいらの命の恩人でさぁ。特攻くずれどもにやられたのを助けてくれたじゃねぇですか。あのままだったらおいら殺されちまってたぜ。」

 この子は上野公園で袋叩きにあっていた子供か。これだけよく喋れることからすると、怪我の程度も軽いようだ。この子は俺に感謝しているが、こっちとしては助けたおかげでこんな贅沢に預かっているのだから、むしろ礼を言いたいのは俺の方だ。

「怪我も大したことがなさそうで良かった。頬は痛々しいけどな。」

「これはあいつらじゃなくて、親分にやられたんでさぁ。でもこのくらいで済んで良かった。ブツを奪われていたら今頃首が飛んでましたぜ。」

 ひどいことをするもんだと思ったが、これが裏の世界で生きるということだろう。聞いたところ、この子供も両親を戦争で失い、ヤクザに拾われたという。名前は「トウ」と言うらしい。十番目に連れてこられたからトウ、本当の名前は捨てたとのことだ。この時代、路上で生活する子供は珍しくない。生活するためにスリや暴力沙汰を起こし、東京の治安を悪化させる原因の一つと忌み嫌われていた。警察と役人はそんな子供たちを通称「狩り込み」と言われる一斉補導を日々行っていた。補導というと聞こえが良いかもしれないが、実際は文字通り獣を捕まえる狩りのように車で追い回し、荷台にすし詰めにして連れていく。行き先は厚生施設と言う名の監獄で、彼らはそこで一匹二匹と動物同然に数えられ、自由を奪われる。それに比べたらヤクザの使い走りの方が良いのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦場の蟹 ざくろ山 @flowerswing

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ