3.百目鬼寅丸

白光宮は、空の上にあるお社だ。雲上に点在する各区画を行き来するには、雲海を渡っていかなくてはならない。


 空の彼方まで広がる白雲の海——《雲海》。雲間をじっとよく透かして見れば、その下に青い水のようなものがあるのが見えるだろう。蒼穹のさらに上(・)に乗っかった天の海、それが雲海の正体だ。


 当然、普通の人間はそのまま雲海を渡ることはできない。何の用意もなく雲海に落ちれば、そのまま雲を突き破って空に投げ出され、地上まで真っ逆さまだ。


 そこで主に用いられるのが、《空亀》だ。もともと雲海に生息する巨大な亀で、雲の上を泳ぐことができる。その甲羅に鞍を取り付け、乗騎として用いることで、白光宮の各区画の往来が可能となっている。


 余談だが、他にも《羽魚》や《飛鮫》など、さまざまな生物が乗騎として利用されいている。彼らの支えなくして、白光宮の暮らしは成り立たないといってもいいだろう。

 故に、乗騎の世話は特に重要な仕事の一つであり——白光宮の厩舎もまた、年中多くの人が忙しく働いていた。

 

「おーい、手が空いてるやつ、水汲み付き合ってくれよ」

「餌箱はこっちねー」

「やっ、ちょっ待って、暴れないで、嚙まないで⁉」

「こらそこ、何やってんだい!」


 班長の檄が飛ぶ。広大な厩舎では、あわせて十七匹の空亀が生活しており、厩務員たちは昼の餌やりに奔走していた。新人が餌ごと噛まれそうになり慌てているのを横目に、班長は仕様がないと溜息を吐く。


「はんちょう、この餌どこに持っていけばいいですか?」


 不意に後ろから声をかけられる。まだ幼い少年のような高い声。班長が振り向けば、そこにいたのは想像通り小さな、しかし異様な少年だった。


「……ああ、ありがとう。六番の房まで頼むよ」

「はいっ! わかりました!」


 元気よく返事をして、少年は駆け出していく——自分の体格の五倍はあろうかという餌箱を担いで。

 五尺を超えるかどうかという小さな少年だった。白光宮ではありふれた礼服の上から頭巾付きの外套を被り、頭から目元まですっぽり覆っている。元が小さいだけあって、傍から見ていると布の塊がちょこまかと動いているようで、どこか面白くすらあった。


 しかし、少年が担いでいるのは、空亀用の餌だ。大きいものでは鯨ほどの大きさにもなる空亀の餌は、当然相応の量になるわけで。通常、大の大人が小分けにして台車で運ぶ餌箱を、少年はたった一人で平然と担ぎ上げ、小走りで駆けていく。


 馬鹿でかい箱の下で、頭から布を被った不思議な風体の少年が平然と歩いているのだ。班長はじめ、多くの厩務員たちが絶句していた。


——ここ白光宮で、彼の名前を知らない者はいない。

柳のような矮躯に宿りし、無双の剛力。天照より選定を受けし、金色の怪力乱神。

 特等衛士、百目鬼寅丸。その人であった。


「よっ……と」


 餌箱を地面に下した瞬間、ずしん、と重々しい音が響く。近くで作業していた厩務員は、心なしか地面まで揺れた心地がしたという。

 ふうっと一息ついた寅丸は、くるりと踵を返し、てこてこと班長の下へと歩いてくる。


「班長、次は何をすればいいでしょうか?」

「ん。いつもありがとうね、寅丸。ただ……いつも言ってるけど、何も無理に手伝うことないんだよ? 昨日も任務だったんだろう?」


 特等衛士として任務を終えて帰還した寅丸は、朝方に空亀を厩舎に返しにきた。その際、忙しく働く厩務員を目にして、手伝いを買って出たのだった。


 寅丸という少年に関して言えば、よくあることではあった。厩舎だけでなく、厨房や倉庫など、果ては清掃まで。白光宮のあちこちで、さまざまな業務を手伝う寅丸の姿が目撃されている。

 衛士としての仕事の合間に、息抜きとして他の仕事に手を出している。冗談交じりにそう語られるほど、百目鬼寅丸の労働中毒ぶりは有名だった。


 班長としては、少なくとも見た目は小さなこの少年がどこか無理をしているのではないか、体を壊してしまうのではないか、と常々心配していた。

 そんな老婆心からの忠告に、しかし寅丸は首を横に振る。


「いえ、僕が好きでやってることですから」


 頭巾で隠れていない口元が、ゆるやかに笑みを描く。


「誰かの役に立てるなら、それだけで、僕は嬉しいんです」

「……そうかい」


 頭巾で顔を隠していても、その言葉が嘘でないことは十分に伝わってきた。

 ならばもう他人が口を出すことでもない、と。班長が視線を外した、その時だった。


「待って、暴れないで、おねが——きゃっ⁉」


 先ほどから落ち着かない様子だった空亀に、悪戦苦闘していた新人厩務員。それだけなら珍しくもないが、どうも今日は空亀の機嫌が悪かったらしい。飼育用のいけすから一気に飛び出し、勢いにおされた新人厩務員が尻もちをつく。ちょうど、陸に上がろうとする空亀の真下だった。


 このままでは潰されてしまう。班長が血相を変えて飛び出そうとした、その瞬間——一陣の風が、厩舎に吹き抜けた。


「————~~~~~~~っう………………?」


 目をつぶって震えていた新人厩務員だが、いつまで経っても恐れていた痛みはやってこない。訝しみ、おそるおそる目を開けてみれば、


「……だめだよ、そんなことしたら」


 新人厩務員のすぐ目の前には、小さな背中があった。疾走の勢いにあおられて、全身を覆う白布がずれ、隠されていた顔があらわになっている。


 風の名残に、金色の髪が揺れていた。童のような幼い顔立ちの中心で煌めくのは、星空のような青い瞳。どちらもこの辺りでは見ない特徴であり、遠く海の彼方に住まうという南蛮人を思わせる——あるいは、それ以上の何かを感じさせるような、どこか異質な出で立ちだった。


「人は弱いんだ。少しのことで壊れてしまう。だから、くれぐれも慎重に……ね?」


 寅丸は、片腕で空亀を持ち上げ、抑え込んでいた。残った腕で空亀の頭を掴み、強引に目線を合わせて語り掛ける。


 空亀の黒々とした目を、寅丸の碧眼がのぞき込む。空亀の巨体は、ぴくりとも動かない。それは寅丸の剛力によるものなのか、あるいは「自分よりも強い生物」相手に怯えているのか。


「うん……そっか……うん、わかるよ。でもだめだ。君は強いから、危ないんだよ……そう、そうだ……だから…………」


 空亀から一度も視線を外すことなく、寅丸は小声で何事かぶつぶつと呟いている。その間に、空亀の口から空気が漏れるような音が漏れ、また寅丸が何かを言って聞かせる。


 そんなことを一分ほど続けていただろうか。ようやく寅丸が手の力を緩め、空亀がゆっくりといけすに戻っていく。

 空亀が水に潜り、ゆっくりと泳ぎ始める。それを見届けて、ようやく、張り詰めた緊張が弛緩する。ほっと一息つき、肩の力を抜いた新人厩務員は、自分を助けてくれた相手を思い出し、はっと顔を上げる。


「あっ、あの……ありがとう、ございました。百目鬼様」

「—————っ⁉」


 おずおずと、緊張しながらも新人厩務員が礼を述べる。なにせ相手は白光宮でも最高位の地位にある人だ。失礼があってはいけない。まして助けられた身では、なおさらに。

 そう考えた遠慮がちな切り出し方だったが、寅丸の反応は劇的だった。


 声をかけられた瞬間に大きく跳ね上がったかと思うと、ばっと新人厩務員のほうを振り返り、一気に顔を赤くする。すぐに頭に手をやって、頭巾が外れていることに気づくと、今度は顔を青くし、慌てて頭巾をかぶり直して、顔を伏せてうずくまった。

 

「……きっ……気に、しないでください。あの……けがは、なかったでしょうか?」

「えっ? あっ、はい……大丈夫です。百目鬼様のおかげで、何事もなく……」

「いっ、いえ。僕は、なにも…………あの、さっきの子のことなんですけど……なんていうか、誤解しないであげてくれませんか?」

 

 呆気にとられた厩務員を他所に、寅丸は頭巾が取れないように慎重に立ち上がると、片手で端っこを抑えたまま、空いた手を差し出した。


 厩務員がおずおずと手を掴むと、一瞬ふわりと宙に浮くような感覚がして、気付いたときには両足で地面に立っていた。

 もう何度目かもわからない驚きに、厩務員が固まる。先ほど空亀を制止した剛力といい、自身よりも小さなこの少年の肉体にどれほどの力が眠っているのか。


 戦慄する厩務員に対して、顔を隠したままの寅丸は、どこか必死な様子で語りかける。


「あの子は別にあなたのことを嫌がってたとかじゃなくて……なんていうか、遊んでほしかったんだと思います。ただ、少し力が強すぎるから、傷つけてしまうだけで……決して、悪気があるわけじゃないんです。だから……怖がらないであげてください。お願い、します……」

「あっ、はい……あの、私も不注意で……その、けがもないですし、びっくりしただけですから。だから、怖いわけじゃないですよ?」

「……そう、ですか…………よかったぁ……」


 相変わらず頭巾に隠れて表情は見えない。それでも、寅丸が心底安心しているのは、目の前の厩務員にはよくわかった。同時に、新たな疑問も浮かんできたが。


「あの、百目鬼様。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか?」

「えっ、あっ、はい。どうぞ……」

「百目鬼様は、亀の言葉がわかるのですか?」


 思い返してみれば、見つめ合っていた時の寅丸と空亀。あれはまるで、「会話」しているようではなかったか?

 そんな馬鹿なとは思うが、常識離れした寅丸の力に、感覚が麻痺していたのだろう。大真面目な顔で問う厩務員に、寅丸の口元が呆けたように丸くなり、次いで緩やかに弧を描いた。


「まさか……人間が、動物と話せるわけないじゃないですか」

 

 帰ってきた答えは、そんな当たり前の常識だった。

 考えてみればその通りだ、馬鹿な質問をした、と。厩務員が顔を赤くする。


「そっ、そうですよね⁉ ごめんなさい、私ったら、変なこと訊いて……」

「……いいえ。気が動転してたんです。無理もありませんよ。僕も————ん?」


 そんなやり取りをしていたら、不意に、厩舎が騒がしくなった。

 どうしたのだろうと寅丸が厩舎入口のほうに目をやれば、そこにはいかにも場違いな二人組の姿があった。


「……一成君? それに、國光君も?」

「ん? あっ、いたいた。いたよ、國光。君の言った通りだ」

「……ふんっ」


 一成と國光の二人は、寅丸を見つけると、おもむろに厩舎に足を踏み入れた。

 にわかに厩舎がざわつく。特等のうち三人が勢ぞろいだ。しかも、何だかんだ見慣れつつある寅丸と違い、一成と國光は正真正銘の貴族で、特等衛士。緊張するなというほうが無理な話だった。


 そんな周囲の視線を意に介した様子もなく、二人は厩舎のど真ん中を突っ切って歩いていた。これが三大貴族の胆力というものか、と。寅丸は内心で戦慄していた。


「や。昨日の任務ご苦労様、寅丸。怪我がなかったようで何よりだ」

「おまえは……またこんなところで余計な仕事を抱え込んでいたのか。言っただろう、立場に即した振舞いを心がけろと。下人の真似事をする暇があったら自分の鍛錬でも……」

「まあ、いいじゃないか。広く民草の助けとなるのも、貴族の務めだよ。ねえ、寅丸?」

「えっ、あの、えっと、その……ごめん、なさい?」

「……おまえが謝ることじゃないだろう」

「ごっ、ごめんなさい!」

「いや、だからおまえは……いや、もういい」


 何かと厳しい國光だったが、腰が低すぎる寅丸に対しては逆に強く出られないらしい。バツが悪そうに眼をそらす國光を傍から眺めながら、一成は愉快そうに笑っていた。

 気付いた國光が、ぎろりと一成のほうを睨みつける。これはこっちに飛び火すると察した一成は、おもむろに用件を切り出した。


「さて、寅丸。薄々察してるとは思うけど、招集だ。連日で悪いけど、どうも急ぎの用らしい」

「ううん、僕は全然大丈夫。あの、僕たち三人だけ……なんですか?」

「いや、もちろんもう一人も一緒だ。ただ居場所がわからなくて……寅丸は、知っているかな? 篝がどこに行ったのか」


 昨日の任務は、寅丸と篝の二人で向かっていた。だから寅丸ならばあるいは篝の居所を知っているかも、と。一成はそう考えたのだ。

 しばらく考え込んでいた寅丸だったが、やがて、何かを思い出したように顔を上げた。


「たぶん、ですけど……今日は、あそこにいると思います」

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