2.土御門國光
鈴城山、という山がある。天を突くように聳え立つ雄大な山脈は、古来より日ノ本に住む人々の畏怖と信仰を集め、やがてそれは一つの伝承を形作っていく。
曰く——鈴城山には「神様」が宿る、と。
そして、それは事実であった。
鈴城山の頂上、雲の上にまで飛び出した山頂部分には、荘厳なる社がある。
灰色の山肌と対を成すような、鮮烈な紅。漆で美しく彩られた木組みのお社が、岩山の上に聳え立っている。
時に山頂を切り開き、あるいは器用に岩肌に張り付くようにして築かれた天上の大社。雲海の白と蒼穹の青の狭間に浮かぶ紅のお社は、まさしく天原の城であった。
お社の名を、白光宮。近畿一帯を治める大神——《天照大御神》が住まう、神社である。
宮中祭事を司る神官や、内外の警固を司る衛士、あるいは神様のお世話を担う女房まで。多くの者が宮中で生活し、貴き大神が世を照らす御業の手伝いをしているのだ。
鈴城山主峰に築かれた神殿を中心に、文所、衛士詰所などの枢要機関が置かれ、さらに外側には居住区や厨房などが配置され、お社全体が一体として一つの行政府として機能するよう設計されている。
これだけでも相当な広さを誇る白光宮だが、実はこれが全てではない。本社が置かれた鈴城山の主峰だけではなく、他にも大小の高峰が、雲海の上には顔を出している。それらの頂上にも、主峰に社を築いたように、さまざまな施設が建立されていた。
菜園やいけすなどの食用施設から、衛士たちの訓練場まで。本社とは切り離しておきたい施設は、こうした外区として、雲海の只中に浮かべられている。
そういう外区の一つ。本社から少し離れた場所に置かれた訓練場は、あまり人が寄り付かない場所として知られている。
純に、巨大な岩山の上に軽く足場を整備しただけの訓練場に用がある者が少ないという理由が一つ。
もう一つの理由は——もっと単純に、危険だからだ。
そして。今まさに、外区訓練場にて巨大な爆発音が轟いた。
雲海の白い水面が波打つほどの衝撃が大気を揺らし、離れているはずの本社をも揺るがす。
朝から仕事に打ち込む文官たちは、筆先を揺らす衝撃に「またあいつが何かやってやがる」と怒りを露わにする。
しかし、筆記作業を妨害した張本人はといえば。文官たちの迷惑も怒りも知ったことかといわんばかりに、ひたすら自分が放った術の精度を検めていた。
「はあっ、はあっ……ふう……。少し火霊の力が強かったか、いやむしろ水霊の出力を上げてつり合いをとれば……」
ぶつぶつと呟きながら、青年は額に浮いた汗を拭う。乱暴な腕の動きに揺られて、ちりんと鈴飾りが鳴っていた。
青年の容貌は、いかにも奇抜であった。汗に濡れた裸体は、その右半身だけが特徴的な文様に覆われていた。肌の上に刺青を彫り込んで描かれた文様は、陰陽師が法術の補助として用いる類のものだ。通常は護符などに描いて使う文様を、青年は自分の体に施している。
射干玉の黒髪も、器用に編んで頭の右側に流し、露出した左耳には封魔の鈴飾りがぶら下がっている。
青年の名を、土御門國光という。京の都に雷名を馳せる《御三家》の一角——土御門家といえば、代々最強の陰陽師の家系として知られている。
土御門國光もまた、土御門の家に生まれた者として、当然のように陰陽師としての道を歩き始め、瞬く間にその天稟を目覚めさせていった。
来る日も来る日も術の探求に打ち込み、自らの肉体も法術のために改造した。
彼がそうまでする理由とは、あるいは家名のためであり、またあるいは、
「まだだ……こんなものじゃない。もっと、もっと強く——」
國光自身の、ごく単純な欲求のためか。
怜悧な美貌を汗に濡らしながら、國光はもう一度、その右腕を掲げる。
見据える先は、浮島の大岩。外区として使われる山の頂は、それ自体が巨大な岩の壁のようであり——だからこそ、的には丁度良い。
文様を刻んだ右腕は、引き絞る直前の弓と同じだ。狙いは確か。後は矢を番え、放つだけ。
そしてその「矢」を織り成すのは、束ね使役された霊なる力——法術だ。
最後に大きく息を吐き、そして國光は、《言霊》を紡ぎ始める。
【——天星八極。五つ指差し、星を撃つ】
起句。自らの「内」と「外」なる世界の境界を取り払い、感応を開始するための合図。
始まりの一言を告げた瞬間に、國光の全身から霊力が吹き上がる。瞬く間に広がっていく國光の感応領域は、やがて周囲一帯を覆いつくし、そこに存在する《霊》たちを掌握していく。
【一つ指差し焔立つ。ゆらり揺らめくあか篝】
森羅万象、あらゆる物質に《霊》は宿る。普段は目に見えず、この世に干渉することもない彼らと同調し、束ね、使役し、その力を借り受ける術——それを、《法術》という。
どの程度の霊を使役できるかは、術者自身の霊力に依存し、本人の霊力が強力であればあるほどに、より多くの霊がより大きな力を発揮する。
【二つ指染め波の綾。水面に刻む白涙珠】
そして、霊力という観点でいうならば——土御門國光は、間違いなく日ノ本で五指に入る逸材だ。
【三つ指折り鉄を打つ。銀火ろうろう玉鋼】
言霊に応え、無数の霊が國光の元に集っていく。
赤、青、黄、緑、そして黒。色とりどりの燐光が渦を巻き、形を与えられた霊たちが國光の掌中で目まぐるしく回転している。
【四つ指切り華桜。誓いをここに、永遠の花】
國光の半身に刻まれた刻印が淡く発光、術式を構築し、霊を収束させていく。
火、水、木、金、土。五行を司る霊が混じり合い、反発し、暴れ狂う。ばちばちと稲光が弾け、強大な霊威が大気を揺らす。
それは、小さな嵐そのものだった。ねじれ狂う烈風の中心で、國光は歯を食いしばりながら、霊力を全開にして、暴走しそうな霊を必死に掌握しようとしていた。
【水鏡の蛇。緋炎の鳥。月鉄の虎。白木の龍。八卦四極、刻みて吠えよ四聖の獣——っ⁉】
一瞬、わずかに火霊の制御が外れる。その瞬間、反動が國光の身体を襲う。右腕がひび割れ、鮮血が噴き出す。赤く光る火霊は炎を生じ、右半身を舐めるように焔が躍る。
それでも、國光は揺るがない。一瞬で動揺を沈め、再度霊を掌握する。
反発、収束。膨大な霊力をもって五霊を束ね、そして《法術》は完成した。
【——互乗克星:斥絶破天雷轟砲】
最後の祝詞が唱えられた。
解放された霊力が砲弾となって射出される。濁流の如き霊威の奔流は、螺旋を描きながら一直線に岩山を打ち抜いて——着弾の瞬間、雷が落ちたかの如き爆発が、雲海を揺るがした。
空の海に漂う雲を切り裂き、天を割るほどの衝撃が駆け巡り、爆発の余波が遠く白光宮をびりびりと震わせる。
訓練場一帯から猛烈な土煙が吹き上がる。活火山の噴火を思わせるほどの、絶大な暴威であった。
「————っっっっっ——はあっ! ……はあっ、ぐっ、げほ……はっ、はっ、っ…………」
もうもうと立ちこめる土煙の中で、國光が激しく咳き込む。大規模な術式の反動が猛烈な倦怠感となって國光の身体を襲っていた。崩れ落ちそうな膝に力を籠め、それでも両の瞳でしかと土煙の向こうの岩山も睨みつける。
やがて土煙が晴れ、半ば半壊した岩山が姿を現した。巨大な城を思わせる山の頂は、その右半分が抉れたように消し飛んでいた。
尋常ではないほどの威力を物語る破壊の跡。しかし、それを成した張本人は不満気に舌打ちする。
「まだだ……まだ、足りない。この程度では、届かない。兄上にも……あいつにも……っ!」
汗と泥に塗れた國光の口からこぼれたのは、抑えきれない激情が形となったような独白だった。
何かに突き動かされるように、もう一度法術の用意をしようとした——その時だった。
「やあ、これはまたすごい有様だね」
緊張感が欠落した、朗らかな声がした。
背後から響くその声に、國光も思わず動きを止める。そして、渋々と振り向いた。
「……なんの用だ、一成?」
そこにいたのは、國光にとってもよく知った人物——近衛一成だった。
口元に浮かべるのは、柔らかな笑み。包み込むような穏やかな微笑みは、一成自身の柔和な雰囲気も合わさって、見る者に否応なく安心感を与える。
流麗な貴族装束の上から簡素な甲冑を身に着け、腰に太刀を履いた格好は、位の高い武官のそれだ。艶のある黒髪は肩口で奇麗に切り揃えられ、日に焼けたことなどないかのような真っ白な肌と対照的な調和を生み出している。
高貴な血筋を引く者に特有の、品格と余裕。都の貴族の華やかなる色香を全身に纏ったような、絶世の華人であった。
都の御三家といえば、「土御門家」、「近衛家」、「久我家」の三家である。千年の昔から天照大御神に仕える最高位の貴族たちは、また当然のように衛士としての道を志す。
近衛家第九十六代当主、近衛一成。天照から直々に選定を受けた、四人の特等衛士の一人である。
「むっ、つれないなあ。僕としては、もう少しおしゃべりに興じていたいのだけど」
加えて言うなら、土御門國光とは幼少の頃よりの付き合いである。共に御三家の生まれであり、同年代ということもあってか、特に一成が当主の座につくまでは、それなりに親交があったものだ。
「おまえが、こんなところまで、わざわざ自分で呼びに来たんだ。よほど急ぎの用なんだろう?」
勝手知ったるとばかりに幼馴染の相手をしながら、國光は水霊で汗と泥を洗い落としていく。洗濯などにも用いられる、ごく簡単な清めの法術であった。
水流が國光の全身を洗い流し、水に濡れた前髪を邪魔だとばかりに掻き上げる。そこでようやく、そういえば手拭を忘れたと気づいたその時、不意に横合いから手拭を差し出す手があった。
「使うといいよ」
「……助かる」
わずかに眉を潜めながらも、一成の手拭を受け取り、余計な水滴をふき取っていく。不手際を察せられてバツが悪いのか、目線を合わせようとしない幼馴染の姿に、一成はクスクスと小さく笑みをこぼす。
そして、そろそろ後始末が終わろうかという頃合いを見計らって、本題を切り出した。
「天照様からの招集だよ。至急拝神殿に向かうようにって。僕たちのほかに寅丸と、それから篝もだ」
「……特等全員か? 大仰だな。それほどの事態なのか?」
「まだ何も。個人的には、今は残りの二人の居場所がわからないことのほうが問題かもしれない……國光も、寅丸と篝の居場所について、何か知らないかな?」
残り二人の特等——厳密にはその内の後者の名が出た瞬間、國光は露骨に顔をしかめた。
「……あの馬鹿の居所なぞ知るものか。大方、また勝手に下界に降りて遊び歩いてるんだろう」
「いやあ、さすがに無いんじゃないかな。つい一週間前も天照様を勝手に連れ出した挙句酒屋で大騒ぎして大目玉だったから。たぶんもう少しくらいはおとなしくしてると思うよ」
「ならなおさら知るか。どうせどこぞで昼寝でもしているんだろう馬鹿馬鹿しい——ああ、だが、そうだな……」
ふと、思い出したように顔を上げた國光は、ここで初めて一成のほうへと振り向いた。
「篝の馬鹿はともかく、寅丸のほうには心当たりがある」
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