第3話
おゆうが身ごもった。
光孝の母、大奥様からそのような報告がなされたのは、萩の季節だった。
報告を受けた席で、光孝は驚喜し即座に我が子と認めたが、むしろ周囲がそれを押しとどめた。
おゆうに手が付いたことすら知らなかった者がほとんどであったし、もう五年、仲が悪いながらまったく関係が途絶えたわけではない御方様が一度も身ごもらないのに、そんなことはありえないのではないか。もしや亡き夫の子供ではないのか、もしやそれ以外に誰かいるのではないのかと。
光孝は不機嫌な様子を隠さなかったが、側室として遇することに大方の合意がとれないのでいったん保留にすることになった。
月満ちて男子が産まれ、顔立ちのわかる頃にはふくふくとよく育ったその子供が殿の胤でないと考える不届き者は誰もいなくなっていた。
顔立ちはもちろん爪の形、耳朶のゆがみ、髪の生え方、どこをとっても光孝の形。
乳母であった侍女頭や大奥様が懐かしむほど若君は父親に似ていた。
数年ののちには、おゆうは奥向きの仕事をほとんど差配するようになっていた。
文官の重鎮であったという父親の血であろうか、そのように教育された素地があったのだろうか、彼女はやすやすと侍女頭と大奥様から実務的な仕事を奪い、代わりに孫育てという新しい重要な業務を与えた。二人の老女は楽し気に新しい仕事に取り組んでいる。
おゆうは今も側室ではなく、侍女の一人。
誰が産んだか明確でない方が都合がよかったからだ。
それに抗うように、光孝の寵愛は強く深く、おゆうは次々と子を成した。
もし、子供が自分に少しだけ似ていて、そしておゆうによく似ていたら、どんなにうれしいことであろうかと想像してため息をつく。
子を得たことは何より喜ばしいが、おゆうに似た子供に恵まれなかったのは、光孝には実に残念極まるところだった。
長子はまさに分身と言わんばかりに光孝に似ていた。
我が子の母親について、隠したいとは露ほども思っていない。おゆうに似た子であれば、多くを語らずともいずれ周囲に認められてくるだろうと淡い期待を抱いていたが、光孝の母に似ていたりとか、亡き前藩主の父に似ていたりとか、おゆうの産む子供はどの子も母親の痕跡を感じさせない。
まるできれいに拭い去られてしまったように。
初めて会った時、薄暗い灯りの下で、肌の内側から光り輝いているように見えた。
行燈のようだ、と情緒のないことを考えていた。全体的にほっそりした、たおやかな立ち姿、耳の下で束ねられた髪の豊かさ、美しいうなじの生え際。
邪魔だというように耳にかきあげられた髪、桃色の耳朶。
少し短い生成りの着物、白い足首。
指を揉む手の優しさ、耳なじみのいい声。
優しく夫を呼ぶ声。交し合う温かいまなざし。
初めて知る恋情とほぼ同時の失恋。感情が怒涛の決壊を起こしたあの夜を決して忘れない。陣屋に戻った後も、幾たびも恥ずかしさに悶絶し、それでいて忘れることなどできなかった。
彼の母が使命として命じた通り、おゆうは家臣として身を差し出し「子を産む使命」を遂げて見せた。
できることはなんでも叶えて見せたいと思うのに、彼女が彼を夫として恃むことはなかった。ただひたすら恐縮し、側室としての待遇も呼び名も局も受け入れないままだ。
初動のまずさを大奥様と侍女頭はひどく反省していたが、側室のことを何度打診しても、世継ぎの母が藩を追放された者の娘とわかると若君の将来に差しさわりがあるかもしれない、と本人に固辞されればそれ以上踏み込むことはできない。
光孝にはそれは表向きの理由だとわかっている。
彼はもう本当に長い間、おゆうに片恋をしていた。
――――――おゆうをたずねてやってきた商人の一団は、藩に大きな利益をもたらしている。
寒さに強い農作物の種や苗を譲ってくれたのを皮切りに、この小さな藩では手に入れにくい書物を買い付け、治水の技術者を連れてきてくれたりした。
彼らが来るたび、光孝は陣屋の奥に招き入れて歓待する。
彼らの話は、目に見える物品以外にも有益な情報に満ちている。
治水工事の方法について、ひとしきり話が盛り上がったあと、一人がふと口を開いた。
「殿は伍策をご存じか」
「おゆうの亡き夫だな。遭難した時に助けてもらったことがある。まことに気骨のある猟師だった。熊狩りの際に命を落としたと聞くが」
五人の商人たちは一口茶を喉に流し込んだ後、皆一様に出された茶を茶托に戻した。
彼らの纏う空気がひやりとしたものに変化する。
商人たちを信用し、側仕えを皆下がらせたことを光孝は一瞬悔いた。
表情は隠し、脇差の位置を確認する。
商人たちの表情はいずれも硬いが、そこに殺意は感じられなかった。
ただ、ひどく冷たいだけだ。
ややあって、一人が口を開いた。
「伍策はあなた様に討たれた、と私どもは思っておりました」
顔から皮が一枚べろりとはがれたように見えた。
商人はその顔に侮蔑に近い表情を浮かべてなおも続けた。
「私どもはおゆう様の父上、忠克様に深い恩義があります。命をいくつ差し出しても足りぬほどの恩義でございます。それゆえ、私どもはおゆう様の行方を捜してここまで参りました」
「伍策は熊狩りを名目におびき出され、深手を負い、熊の襲撃から逃れきれずに命を落としたようでございます。わずかばかりの報酬に目がくらんだ村の衆のはかりごとにかかったのです」
商人たちは次々に言葉をつないだ。
「村の衆はおゆうが村に未練を残さぬよう、火をつけて小屋ごと伍策を燃やしたそうでございます。我らが小屋に駆け付けた時には、焼け落ちた炭と人骨がそのままでございました。弔われることもなく投げうたれたままの夫のことをおゆうはどう思うでしょうな」
一番年かさの、ちょうどおゆうの父と同じ年代の男は憎々し気に眉を寄せた。
彼だけはいつも敢えておゆうに敬称をつけない。
彼は忠克に頼まれ、伍策をあちこちに弟子入りさせていた男だった。少しずつ立ち直って立派になっていく伍策と娘のようなおゆうの幸せを祈っていた。
おゆうを奪い返し連れ去るつもりで探していた、と彼は正直に告げる。
しかし、実際にそうしなかった理由については語らなかった。
おゆうの素性を尋ねた陣屋からの使いがいたらしい。
おゆうの父親が勝手に領地に住み着いていたことを咎められると思った村の衆が、伍策もろとも証拠隠滅を図ったが、光孝がおゆうを望んでいることを知り、捕らえていた彼女をそのまま売った。
そのような経緯があって、彼女は陣屋の侍女として再び目の前に現れたのだと知った。
幸運でも偶然でもなく。
彼女の身に降りかかった不幸は誰でもない自分が引き起こしたもの。
声も出せない。
商人たちは口を噤み、そして深々と座礼した。
「私どもは変わらぬ忠義を果たすため、この藩にとって有利な商売をいたしましょう。すべておゆう様の為でございます。賢明な殿には私どもの願いをお汲み取り下さり、おゆう様をこれからもかわらずお慈しみくださいますよう」
光孝が相分かった、と声を喉から押し出すまで、全員深く平伏したままであった。
数年前から隠居している宗三郎の父親が急ぎ呼び出された。
「お察しの通りでございます。私は何も後悔しておりません。おゆう様はあのように立派な若君を御産みになり、藩はこれから三十年は安泰でございます」
齢七十を越え、かつての重臣はすっかり恵比須のように太って丸くなった。彼は一切の覚悟を決めた顔でゆったりとほほ笑む。
光孝は処罰を与えるために尋ねたのではなかった。誰が、それを手配し金をばらまいたのかだけは確認しておく必要があった。
自分に妾を差し出し、跡取りを産ませた男が誰であるか。
老いたこの重鎮は亡き父、先代藩主の側仕えだった。真実、自分と藩のことを憂慮して手配したことを確信でき、その真意が利己ではない唯一の人物。
光孝は安堵の息を漏らし、そして呻いた。
「すべては儂に責任がある。村の娘を売らねばならぬほど領民を飢えさせていたのは儂の責任だ」
――――――おゆうが欲しい。
口にするのも憚られる想いをひた隠しにしてきたつもりだった。
それを家臣に悟られていたことを光孝は恥じた。
おゆうは侍女頭に与えられた執務の部屋で文箱を開き、机に向かっていた。
光孝はこの部屋でおゆうに会ったことはなかった。
山に面したこの部屋には林が迫っている。情緒のある庭が見えるわけではない。だがその部屋で障子を開け放ち、蔀戸も上げたまま、おゆうは降りしきる雪をぼんやりと眺めていた。
側仕え達を下がらせ、人払いを命じながら、光孝はその部屋に身を滑り込ませた。
「おゆう、体が冷えてしまう。風邪をひくぞ」
すでに彼女の体はすっかり冷え切っていた。
机を脇に寄せようとしても、すぐには動き出せない。筆など持ちようもないほど凍えた妻の傍らに座り、そっと懐に体ごと抱き込む。
――――――障子を閉めず、彼女が眺めていた景色に同じように視線を投げた。
「伍策に助けてもらった日を思い出すな」
おゆうは驚いた。
光孝の口からこの十年一度として、伍策の名が発せられたことはなかったからだ。
そしておゆうも光孝の前でその人の名前を口にしたことはない。
それは、すべてが終わってしまう呪文のようなものだと気が付いていた。
「儂は伍策に済まなく思っている。いつも」
苦しげにつぶやいた光孝の顔の方にに体をねじり、真意を触れてたどろうとその頬に触れる。おゆうの指は雪そのもののように冷たかった。
「五人も子供を授かったのです。よほど仏縁が深いのでございましょう。いまとなればこうなる定めであったのだろうかと、そのようにも思うのです――――――お許しくださいませ」
静かにほほ笑みさえ浮かべながら話し始めたのに、ふと言葉に詰まると、顔を伏せ泣き崩れた。
「伍策が帰ってこなかった日はこのように静かな雪の日でございました。このような日は彼を思わずにいられないのです。その藪からもし、伍策が現れたら、わたくしは―――――」
光孝の目にも、その竹藪から伍策が姿を見せるような気がした。
確かにそこにいるような気配。
もし本当に伍策が現れたら、おゆうは裸足のまま縁側を駆け下り、南天の茂みの脇を抜け、伍策の首に飛びついて、そしてそのまま行ってしまうと思った。
だから光孝はおゆうを抱き寄せて、それ以上のことは言わせなかった。
体温が移っていく。
光孝はおゆうの心からの声を聴くことができたことに高揚し、同時に耐えがたい嫉妬で
亡き人への思慕を吐露したことを、おゆうは悔いていた。けして口にしてはいけないという程度の分別はあったはずなのだ。だが、光孝は怒ることもなく、ただおゆうの背中を宥めるように撫で続けていた。
悲しみが雪に埋まっていくようだ、とおゆうは思った。
永い永い静寂があった。
「其方が命を終えたならば、儂が必ず其方と伍策の墓をあの炭焼き小屋の跡に作ろう。それまでは儂を哀れと思い、そばにいてほしい」
「――――――それでは、こんな雪の日は私の傍にいてくださいませ。私があちら側に行かぬように」
おゆうは光孝の襟のあたりにしがみついて額を夫の胸に押し付ける。
「お慕い申し上げております――――――殿」
初めてのねだりごととかそけき睦言は、抱き込んだ懐の中から聞こえたのでどんな顔で言っているのか見ることはできなかったが、ほのかに染まった耳朶をただ愛しいと思った。
沈黙に積雪 錦魚葉椿 @BEL13542
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