第2話

 十六になった日に父親から厳かに言い渡された。

「今日から伍策はお前の夫だ。心からよく尽くしなさい」

 その夜から父親は庵の方で休み、夫婦となった二人は隣の炭焼き小屋で休むようになった。

 彼女にとって、昨日まで兄のようだった人が今日から夫となったことは戸惑いがあるような、当然のことのようだったそんな気もする出来事だった。


 父親の名は忠克といった。

 昔、遠くの藩で文の重鎮であったが、主君と意見が合わず放逐されたのだ、と出入りしていた商人から聞いた。貴重な書物の複写や細工物などを商人に売って生計を立てていた。


 伍策は村のつまはじきだった。

 体はよく育ち、小さなころから大人よりも一回りも二回りも大きく怪力。気性も荒く、親も扱いに困り果てて、鬼子と呼ばれていた。

 彼は十を過ぎたころには里に住むことができなくなり、忠克の庵で暮らすようになっていた。村人は伍策を持て余しており、正規の手段でなく住み着いた忠克の存在を黙認する代わりに彼を押し付けたのだ。

 彼はこの里でずっと孤独であった。


 よちよち歩きの胡坐の中にすっぽり入るぐらい小さなころから、おゆうは伍策に懐いていた。姿を現すたびに、おゆうは大喜びで伍策の首っ玉にかじりつく。

 おゆうが五つになっても八つになっても二人は子犬の兄弟のように仲が良かった。

 あまりに密接な二人の仲を離そうとする忠克に対し、妻はこう言って諫めた。

「おゆうは伍策を人の道につなぎとめる糸。おゆうがいる限り、伍策は悪事に手を染めたりはしないはずです。おゆうと離れねばならないことをあの子は絶対しないでしょう。それに貴方も私もいずれおゆうを置いて先に逝くのです。貴方、こんな山奥で若い娘が独り冬を越せるわけもないでしょう」

 忠克が一言も言い返せないうちに、とどめの一撃を受けた。

「貴方がこんな山奥に私たちを連れてきたのです。どうにかするのは貴方の仕事です」

 妻の苦言に忠克は心を入れ替えた。


 忠克夫妻は伍策に今後は「義父上、義母上」と呼ぶようにと伝えた。

 今はたった八つの娘ではあるが、お前はいつかその夫となってもらえるだろうか、と。

「伍策、お前は私たちの大切な息子です。おゆうをよろしくね」

 伍策は二人の前で、うなづいたまま膝がしらに乗せた拳を固く握っていた。

 忠克はかつての同志だった商人たちを呼び寄せ、伍策に腕のいい猟師を紹介してくれるよう頼んだ。半年後あちこち傷だらけになりながら、彼は熊の皮を衣にして帰ってきた。

 そうやって年に少しずつ、あちこちに弟子入りする。

 木を切る技術や森の管理、炭焼きの技術や猟の技術を獲得していった。

 本当は親から子に、冬を越すために伝えられる技術を。


 母親が亡くなった日も父親が亡くなった日も伍策はおゆうのそばにいた。

 二人で手をつないで見送った。

 父がいたころ、庵だけが建っていた山の中腹は、伍策が少しずつ木を切り倒し炭焼き窯を広げ、その土地に小屋も立てたので、今はすっかり見晴らしがよくなっていた。

 こちらの山とあちらの山の間は平野。青々とした田畑が川の両側に広がって、点々と小さな家々がみえる。遠くにたなびく家々からの細い煙。ゆるやかに曲がりながら遠くまで流れていく川。山々も間に太陽が沈んでいく頃、仕事を終えた伍策が帰ってくる。

 子供のころと同じように首に飛びついてくる若い妻を抱え上げたまま家に入るのが、この夫婦の習慣だった。


 父母が存命の時から出入りしていた商人たちが時折現れる以外は訪れる者もなく、丸く完成された世界で二人はひそやかに暮らしている。

 もうずっと雪が降り続いている。

 雪下ろしを終えて、戻ってきた夫は袖口から冷たい手をするっと差し入れる。

「嫌ぁだ。冷たい」

 いたずらっぽい笑顔を浮かべながら、おゆうの体の柔らかいところに、冷たく冷えた手を押し付けて、嫌がる様子を楽しんでいる。

 冷たい伍策の手を手繰り寄せて、温かい胸の中にしがみつく。

「ねえ、私、伍策に似た男の子が欲しいわ」

 一瞬硬直した後、力強く抱き寄せられる。

 顔は見えないけれど、おゆうには今、伍策がどんな表情をしているか分かっている。

 おゆうも彼を抱きしめ返した。




 村の若い衆が「穴持たずが出たから、手伝って欲しい」と伍策を連れ出した。

 穴持たずとは飢えて冬眠できなかった熊。

 凶暴な穴持たずが現れたときは村中の猟師が集められて、皆で狩るのが掟だった。

 伍策は夕飯前に出ていって、陽が落ちても帰ってこなかった。猟師仲間も誰も帰ってこない。

 耐え難い不安感に押しつぶされそうになりながら、ひたすら夜明けを待った。

 伍策がその扉を開けて帰ってきたら、いつものように冷え切った冷たい手を懐に差し入れてくれる。二度と冷たいと言って、嫌がったりするまいと彼の無事を祈った。


 翌朝はよく晴れた日だった。

 朝の陽ざしが雪に反射し、キラキラと輝いていた。

 戸板に乗せられて運び込まれてきた腹部は半分無くなっていて、躰から腸がはみ出ていた。

 顔は右半分がえぐり取られたように無くなっている。

 希望の抱きようがない屍だった。


 ――――――そこから記憶がない。



 忘れかけた夢ような確かでない期間があって、ふと気が付けば見知らぬ館の床を拭いていた。

「おゆう殿」

 丸顔の若い男がにわかに何処の誰なのか思い出せなかった。

 習いの通り、深く伏せる。

「どうしてこちらに。伍策殿はどうなさった」

「夫は亡くなりました。穴持たずの熊に、やられて」

 自分で答えて、ああそうだ、と思う。

 キラキラした雪の朝に逝ってしまった。

 陣屋から別棟に続く濡れ縁のすぐ端には池があって菖蒲の花が咲いている。

 季節がそれほど変わっていることに初めて気が付いた。


 それから、しばらくもしないうちに大奥様のお部屋に呼ばれた。

 大奥様の上座に若い男性が座っていた。

 その人はそれから幾日かした日の夜に、たった一人で突然おゆうの局に現れた。

 むし暑い夏の夜だったのに、手がとても冷たかった。



 翌朝、光孝がおゆうの局から堂々とでてきたことで、別棟は激震に襲われた。

 光孝が本棟に戻るや否や、侍女頭一行に踏み込まれ、おゆうは大奥様の前に連行された。

 おゆうと申しましたね、と確認した大奥様の声は硬かった。

「あなたは、誰の夜の訪いについてもこのように容易く応える女子ですか」

 おゆうは答えず平伏したままでいた。

「冬に夫を亡くしたばかりだと聞いていたから、ことを性急に運ぶつもりはなかったのに、その配慮は必要なかったようですね」

 彼女の無反応に侍女頭は苛立ちを隠さなくなり鋭い言葉を投げつける。

 大奥様はそれを制し、立ち上がっておゆうが伏せる先の、揃えられた両手の指の前まで膝を寄せた。

「光孝は無体をいたしましたか」

 大奥様は常に若い藩主のことを意図的に殿、と呼んでいた。

 そんな息子の名を敢えて呼ぶ。

 いいえ、とおゆうは答えた。

 確かに彼は突如襖をあけて、言葉もなく局に滑り込んできた。

 愛の言葉はおろか一言も声を出さなかった。

 閨の中の出来事について、彼女は何も語らない。ややあって静かに思慮深く答えた。

「これは受け入れなければならないご命令なのかと」

 この別棟は大奥様を始めとする女性のための棟。各入り口には警備の者がいて、庭にも夜営の者が一晩中詰めている。おゆうの局はその別棟の一番奥にあった。

 それをすべて排除して、局の襖を開いた男がいれば、どうしようがあるだろうか。

 まして、その男が先日大奥様の部屋で引き合わせられ、大奥様の上座に座っていたからにはそれは受け入れざる得ない筋のものだと覚悟したのだ。

 ――――――いや、違う。

 確かにそのように考えたけれど。

 その人の手が冷たかったから、その人が一言も声を出さなかったから。

 違っているとわかっていたけれど、伍策だと思い込むことにしたのだ。

 固く目を閉じて。

 彼女の沈黙を周囲はそれぞれの都合のいいように受け取った。

「そうです。あなたには光孝の子を産んでもらいます。家臣としてそれは極めて大切な使命です」

 改めて宣告され、おゆうは一瞬息を止めた。

 しかし、深く息を吐くとさらに深く身を伏せてはっきりと答えた。

「わかりました大奥様。一切がこの身に成りますように」





 殿はいつも悩んでいるような難しいお顔をしている。

 事実、いつも深い悩みのうちにいる。どうやって今年の米の取れ高を上げようかとか、冬に取り組める新しい事業はないかとか、孤児たちをどうしたらいいかなどの領民のことが彼の心のほとんどを占めていた。時間があれば本を読んだり商人や学者を呼んだりしておられる。

 自分のために衣の一枚新調せず、年季が入った質素な衣でほとんどの時間を過ごしている。それが御方様の美感に相いれない。

 陣屋の使用人たちにも等しく公平に礼儀正しく振る舞う。おごり高ぶった所は全くない。

 父親が今も生きていたとしたら、主に選んだかもしれない。

 真面目過ぎるきらいがあることぐらいが欠点といえばそうかもしれなかった。

――――――初めての夜には緊張のあまり声も出なくて震えていた。そんな様子もまた、おゆうにとって好ましいと思える一面だった。


 ときおり庭に降りては、自分と家臣の子供と一緒に遊んでみたりする。

 そのようなときはとても優しい横顔をしている。

「おゆう様、差し上げます」

 小さな子が差し出してくれたのは色の濃いミヤコワスレ。

 受け取ると子供は殿のところに走って戻る。

 殿に頭を撫でられて、その子は少し得意そうだ。


 産まれた子供はいずれも賢くかわいい。屋敷の皆から宝物として可愛がられている。

 伍策の子供が欲しいと思った時に、父親に似た子をと念じ過ぎたのかもしれない、初子の若君は産んだ本人が驚嘆するほど父親に似ていた。

 おゆうは自分が今、幸せであることを疑う余地がなかった。


 それでも。

 あのまま、伍策と暮らしていれば産まれたはずの子供を想う。

 その子はきっと元気でやんちゃな男の子で「おっ母あ」と呼んでくれたことだろう。

 伍策はどんなにかその子を可愛がっただろう。

 父と母のいる家族をこよなく大切にしていて、優しいおゆうの母は勿論、気難しいおゆうの父さえ無条件で慕っていた。

 伍策の子を産みたかった。

 伍策を父親にしてやりたかった。




 殿を慕わしい人と思えば、伍策を恋しいと思う。

 伍策を想えば、殿に申し訳が立たぬと思う。

 ――――――この雪の下に埋まってしまいたい。

 行き場のない想いを凍らせてしまえないだろうか、雪の日はただ辛くて両手で顔を覆う。


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