沈黙に積雪

錦魚葉椿

第1話

 天候を見誤った。

 はじめ、ちらちらとした牡丹雪だったものが、空が昏く垂れこめ、音もなくふぶき始める。

 あっという間に道が埋まり、方向を見失った。

 こんなところでしゃがみ込んでしまっても誰も助けに来ない。何とかしなければと宗三郎は焦ったが、焦るほどに状況は悪くなった。まず邦之助が寒さのあまり動けなくなり、それをかばって歩いていた殿も動けなくなった。

 殿―――――宗三郎の主君である光孝はこの藩の若い藩主。

 数年前に先代が若くして亡くなり、彼が藩主となったが、世継ぎはまだ生まれていないし、代わりとなる兄弟もいない。なんとしても生きて帰らなければならなかった。

 意識が寸断する。

 突如、目の前に鬼が立ちふさがった。

 降りやまぬ雪で景色はただ真っ白に抜け落ち、鬼はしゃがみ込んだ宗三郎をずっと高いところから見下ろしている。

 陰になった顔は黒く、目だけがぎょろり動いた。

「おい、寝るな」

 それだけ吐き捨てるように言うと、殿を背負い、邦之助の腕をつかんで引きずり、左腕で仕留めた獲物と弓を握りなおした。

 男は鬼ではないようだった。

 だが、山の斜面を獣のように降りていく。

「お前は自力でついて来いよ」

 宗三郎は声だけを頼りに必死についていく。

 生き延びられるかもしれないという希望でなんとか体が動く。男は真っ白な世界の中、何をたよりに進んでいるのか、まったく迷いのない足取りだ。

 幸運にも、目的地は遠いところではなかった。

 男が扉をたたくと扉がガラリと開かれる。中から十六、七ほどの娘が顔を出した。

「おゆう、義父上を起こしてくれ。怪我人がいる」

 おゆうと呼ばれた娘は炭焼き小屋兼住居を抜け、隣の庵に走っていく。

 しばらくすると彼女に肩を支えられた寝間着の老人が姿を見せた。

 義父上、はこの山小屋の舅に対する呼び方としては些か不似合いだと思ったが、現れた老人は確かに「義父上」と呼ばれるに相応しい威圧感をまとっていた。

 おそらく、死病を得ている様子ではあった。

 老人は、三人の若い遭難者が主人と家臣でありいずれもかなり高い身分であること、そして主人が一番危険な状態であることを見て取った。

「おゆう、湯を沸かしなさい。そしてその人たちの手足を温めなさい。熱すぎてもいけません。うまくいけば指が落ちないかもしれない」


 男は獲ってきた鳥を捌き、食事を作る。炭焼き小屋には充分な炭と薪があり、彼らは十分に温まることができた。

 三人を助けた男の名は伍策。頬に大きな傷があった。

 熊の毛皮を身にまとい、長い髪を無造作に括り上げている。

 熊は馬のように足が速く、力が強く、跳躍力もある。熊を狩れる猟師は手練れだ。伍策は家臣の男たちの中の誰よりも体が大きく、手首は足ほどに太かった。

 おゆうとは十ほどは歳が違うようだった。兄のようにも見えたが、二人の間にある濃やかな気配に宗三郎は二人が夫婦であろうと結論付けた。

 娘は一晩中その遭難者の手足をぬるま湯で温め続けた。

 看護の甲斐あって、誰の足の指ももげ落ちず朝を迎えた。


 家臣たちは主君を背負い、深く礼を述べて山を下りていった。

 三年前、それはその時で終わるはずの事だった。



 ほんの二万石。

 雪深いその土地に領民は多くなく、もちろん居城などというものはなく、いわゆる大名の末席にぶら下がった陣屋大名だ。

 大きな藩なら家老でもその位の石高はあって、よほど豊かに暮らしている。

「このままではお世継ぎが産まれることはあり得ないだろう」

「すくなくとも御方様が懐妊しても殿の子ではないだろうな」

 妻は夫の生真面目なところが陰気でつまらないと思い、夫は妻の無邪気で奔放なところが理解できなかった。二人の価値観と生活水準は一致していない。

 妻は称えられる容姿に相応しい反物をいくつも欲しがるが、夫にはその反物の柄がいかに貴重なものなのかも、妻の美しさの価値もわからなかった。

 御方様は陣屋から出て、もう二年近く実家で暮らしている。戻る気配はない。

 若い藩主は献身的に領地経営に尽力し、藩の財政を深く憂慮している。妻を二人も三人も迎えられるほどの余裕がこの小藩にあるはずもないことは誰よりも解かっていた。

 跡継ぎがいない。

 跡継ぎの問題はこの藩の存続のため最重要課題だ。家臣たちは懊悩していた。

「どうにか殿のお好みに合った妾になる女性はいないものか」

 邦之助と宗三郎は我知らず、二人顔を見合わせた。

 幼馴染として殿の曾場に仕えてきたが、殿が女性に対して、特別な感情を抱いた様子をみたことは一度しかなかった。

 三年ほど前の冬、一度だけ。

 おゆうは水辺にすっくとたった濃い紫の菖蒲の花に似ていた。

 咲きほころぶ寸前の。


 だが、邦之助と宗三郎は黙して語らなかった。

 光孝と二人の関係は「乳兄弟で親友で腹心」。

 主君であることを取っ払って忌憚ない本音を言うと、光孝は朴念仁であった。

 特に女性関係においてその傾向はより角度を増している。

 娶せられた妻と速やかに子をなすよう努力することは夫として当然の責務としても、感情的交流のないまま事を進めることが続いたのだろうと二人は予想している。

 御方様に毛嫌いされて部屋に入れてもらえなくなってからは誰とも寝所を共にしようとしない。むしろほっとしている様子ですらあった。

 そんな彼が、あの吹雪の夜に手桶のお湯の中で手を揉まれ握られ、呼吸の仕方を忘れたのではないかというほど狼狽していた。顔を背けて震えていて、まるで初夜の乙女のようで、痛々しいを通り越して哀れだった。

 二人は親友のいろんな意味で遅すぎる初恋を隠し通すべきだと考えた。

 伍策との仲睦まじい様子を見て、彼なりに決着をつけているだろうとも思ったし、人妻に岡惚れしたと噂を立てられるのは彼の性格からいってその矜持を深く傷つけられるに違いなかった。



 その半年後、館の別棟、殿の母上様のすまいに新しい侍女を見た。

 廊下を渡っていく後ろ姿があまりにもよく似ていて。

 邦之助が思わず庭から呼びかけた。

「――――――おゆう殿、か」

 桶に湯を入れて運んでいた女性は、ためらい、ややあって振り返る。

 桶を置き、廊下に膝をつき静かに座礼した。

 その一礼だけで彼女の生まれが卑しからざるものであることを雄弁に証明している。武家の娘に叩き込まれた美しい所作だった。



 伍策は熊狩りにしくじって命を落としたらしい。

 おゆうの仕草を不器用にしかし一心に見つめていた様子を思い出す。あれほど惚れぬいていた恋女房を残して逝くのはあまりに無念だったことだろう。

 だが、藩にとっては僥倖。

 悲しみに沈み、憔悴した様子もまた三年前とは違う趣で、殿の御心を掻き立てることだろうと、不謹慎なことを思った。


 おゆうにはやはり殿のお手が付いた。

 大奥様を始めとした別棟の女性たちの全力の御膳立てがあったらしい。

 次の春には皆が待ち焦がれた若君が産まれ、その後ほんの十年ほどの間に三人の男児と二人の姫を挙げた。

 十歳になったご嫡男は藩主になるに相応しい健康で聡明な少年だ。

 邦之助と宗三郎はおのおの嫁を取り、若君のおそばに自分の子を使えさせている。

 かつての自分たちを見るようで、邦之助と宗三郎は目を細めている。



 いつのころからか、正室である御方様も陣屋に戻ってきた。

 御方様の実家からの販路や、おゆうの父親のつてをたどった新しい販路から、陣屋近くの町は今や商人の一大拠点になりつつある。

 陣屋も一回り増築して大きくなった。

 二人の姫は大奥様が武家の娘として念入りに教育している。

 血のつながりはないが御方様も二人の姫にいろいろと心を砕いている。

「殿の娘だから、辛気臭いおなごにならぬよう気を配らないとね」などと言いながら、年の離れた姉のように振る舞っている。



 邦之助の母親で光孝の乳母だった先代侍女頭が病を得て、職を辞して以降、おゆうが侍女頭として奥の実務を取り仕切っている。

 おゆうは調度から食事まで大奥様、御方様の満足する差配に心を砕いている。

 子を産むことも、夫に気を配ることからも解放され、御方様は毎日ご機嫌だ。

 光孝のことは昔ほど大嫌いではなく、疎遠な親戚ぐらいに扱っている。おそらくおゆうがいなくなったらまた実家に帰るだろうが。

 藩はすべてうまく回っている。



 おゆうは御方様を立て、側室とならない。

 侍女としてこの館に来た時のまま、今も大奥様の別棟の中の奥まった所を居室としている。

 だが、他に何もできないほど雪の深い日だけは殿は陽の高い内からおゆうの部屋を訪れる。言葉もなく二人は寄り添って、ただただ蕭々と降り積もる雪を静かに眺める。

 青みを帯びた墨絵のような庭を。

 仲睦まじい二人を誰しも称え、羨ましいと呟くのだった。


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