第3話 バレンタインとの出会い

15年前の春・東京


とある飲食店グループの本社ビルにあるホールで、今年の入社式が行われる予定だ。50名の新入社員が社長の到着を待っていた。特にやることがなくて、篠原颯斗は会場を見渡すと、ある人の姿が彼の目を引き付けた。


左側から二列離れたところに、その子は立っていた。肩より少し長い髪は柔らかなウェーブが入っていて、びしっとした黒いスーツと濃い茶色のローヒールを着ていた。周りとあまり変わらない服装と外見だが、なぜか彼女だけが目立っていた。颯斗の立ち位置から、その子の横顔しか見えなかったけど、大きな目、長いまつ毛、そして薄いメークをしていたことぐらいは確認できた。


あまりにもその子を長く見つめていたので、急に後ろから聞こえたクスクス笑いの音に驚いた。颯斗が振り向いたら、一人の女性は自分の口を抑えながら、目を大きく開いて自分を見ていた。


これが颯斗と光莉の出会いだった。


当時の光莉は腰までの長い黒髪をしていて、銀色の丸い眼鏡をかけて、ほぼすっぴんなので顔色が悪いように見えた。背が高かったせいかもしれないが、ぼっちゃりの体型はより大きく見えて、とにかく周りの女性と比べてある意味目立った。


颯斗の視線は不機嫌というより困惑を感じていた。光莉はすぐ笑いを止めて、颯斗にあいさつをした。


「すみません。ああ…間違えた、あいさつは先です。初めまして、藤塚光莉です。よろしくお願いいたします」


彼女は手を颯斗に差し伸べていたから、颯斗はちょっと戸惑い気味で彼女と握手をした。彼女の手はとても厚くて、そして暖かった。


「初めまして、篠原颯斗です。あの…さっきは何で笑っていましたか?」

「えと、篠原さんはあまりにも長くその子を見ていたから、なんだか面白くて、つい笑い出しました。悪い意味はないですけど…」


光莉はさっきまで颯斗が見ていたあの子を目線で指し、彼は自分が見抜かれたことに恥ずかしくなった。


「大丈夫です、あなたの秘密を誰にも言わないから、安心してください。分かりますよ、美しい人に見惚れることは自然ですから…」

「いや、そういうつもりで…」


颯斗は光莉に慌てて説明しようと思ったが、社長はその時会場に到着していたため、二人の会話はその場で中断しなければならなかった。



入社式の後、新入社員は配属された部署へ行った。偶然にも颯斗は光莉と入社式で見たその女性と同じく企画部に配属されたが、彼女とは違って二人の第2チームに入り、彼女は第1チームに所属することになった。


そして、颯斗は初めてその女性の名前を知った。


木梨きなし柚葉ゆずは、東京出身、名門国立大学の経済学部を卒業、英語はもちろんフランス語もできるそうだ。だから、国際事業に携わる第1チームに入ったんだ、颯斗は内心でこう納得した。


仕事上では、第1チームと第2チームはあまり関わりがないが、新入社員は会社のことを知ってもらうため、2週間の共同研修に参加することになった。同じく企画部の人は一つの班に入れて、これでやっと木梨と初めて会話ができた。


初日のランチは社員食堂で食べることになったが、なぜか木梨はそこにいなくて。がっかりした颯斗の向かい側の席に、光莉がやって来た。


「お疲れ様です、篠原さん」

「ああ、どうも。お疲れ様です…えー…」

「ひどいですね、朝は自己紹介しましたのに、苗字すら忘れてましたか?」

「いや…その…」


光莉は自分の社員証を持って、颯斗に見せた。


「覚えててください、私は藤塚光莉です。同じチームだから、私のことを忘れてどうするですか」

「すみません」

「冗談ですから、そう硬くならないでください。それに、困らせるつもりはないですから、気楽で行きましょうう、ね?」


目の前にいる光莉は妙にハイテンションで、満面の微笑みを見せていた。クールで無愛想そうな木梨とは大違いだな、


光莉が自分の昼飯を食べ始めたら、颯斗は彼女の食べっぷりを観察し始めた。美味しそうに一口一口を食べながら、何だか幸せそうな表情で味を噛み締めていた。同じメニューを食べていたのに、颯斗はそこまで美味しいとは思えないけど、光莉を見て何だか食欲が湧いて来た。そして、光莉は急に食べることを中断し、颯斗に声をかけた。


「あの、食事中の女性をこんなふうにじろじろ見られたら、気持ち悪いですけど」

「いや、そういう…すみません」

「篠原さん、木梨さんと一緒にランチをできないことにがっかりしたでしょう?」

「ええ?」


また光莉に見抜かれた。


「いいですよ、木梨さんみたいの女性に惹かれるのは当たり前ですから、否定なんかしなくていいよ」

「藤塚さんって、人を見抜かれるのは得意みたいですね」

「いいえ、そういう能力はありませんが、ただ篠原さんは分かりやすいです」

「どういうこと?」

「だって、会場にいたみんなは、周りを見ていたとしても、同じ方向をずっと見つめたことはありません。篠原さんは木梨さんへの視線が10分以上だったから、分からないはずがありません。それに、あの方向では、唯一美人とは言えるのが木梨さんだけですから」

「藤塚は結構鋭いです」

「気か利くと言われたらうれしいですけど」

「でも、俺は別に木梨さんが好きとかじゃなくて、ただ気になるだけ」

「まあ、ああいう外見と経歴だと、誰もが気になりますよ。ああ。言い忘れたけど、木梨さんが社員食堂に来なかったのは、第1チームの課長は新入りの二人に外でランチを奢ったみたいです。さっきうちのチームの先輩から聞いたんですけど、うちの場合は研修が終えてから、チーム全員で食事をするみたいです」

「それは知らなかった、親切に教えてくれてありがとうございます」

「みずくさいね、篠原さん。同期で同じチームだから、もっとリラックスしてください」

「じゃ、さん付けとか敬語とか止めたら?」

「ええ、いきなり?」

「だって…変だから。同い年だし、同じチームの仲間だし…」

「私はいいよ。でもいっそのこと苗字じゃなく、下の名前で呼び合いましょう。どうですかね、颯斗?」


光莉はウィンクしてから、自分の手を差し伸べて、颯斗に早く握手してよと促した。こういう笑顔を見せられたら、誰にも抵抗できないなあ、颯斗は彼女と握手した。


「これこらはよろしく、光莉」

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ミッシング・バレンタイン CHIAKI @chiaki_n

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