第26話 →△夢◎百合◆

「はぁ……今日も疲れたー……」


 家に帰る途中の交差点で信号を待つ間、こぼした言葉がこれだ。


 入学してからもうすぐ一か月だというのに、まだ慣れないことだらけだった。


 こういうときは無性に甘いものが欲しくなる。途中のコンビニに寄っていこうかな。


 ……あ、こんなことを考えたら…――


 ブゥゥゥーッ。


(……ほらっ、きた)


 カバンから出したスマホの画面を見ると、


『アイス買ってきて~♡』


「…………」


 美桜って、実は超能力者なんじゃないだろうか。


 ――えへへっ♪


 してやったりな表情が目に浮かぶ。


(うーん……)


 すると、信号が青に変わった。


 おっと、取り敢えず、この議題はまた今度だ。




(そもそも、妹を甘やかしてしまうのが…――――――ッ!?!?!?!?!?)




 一歩目を踏み出そうとした瞬間、突然頭に流れ込んできたのは、その場に立っていられないほどの爆音のノイズだった。


「あっ……く……っ……!?」


 謎のノイズと、頭をギューっと締め付けられるような痛み。


 それは、生きてきた中で一番の――――――苦痛だった。


「あぁぁ……っ………………あああああああああああああーっっっ!!!!!」


 自分のものとは思えない叫び声が、時が止まった交差点に響き渡る。


 歯をくいしばっている間に、口の端から出た血がポタンッと地面に垂れた。


(な、なにが……ッ)


 状況を把握しようにも、それをする余裕はなかった。なぜなら、


(ぐっ…………え)


 目の前に広がっていたのが――――――時間が止まった『世界』だったからだ。


 人も鳥も動かない。車も、信号が青になっているというのにその場に止まったまま。


「ハッ……ハッ……ハッ」


 コツ……コツ……


 視界がぼやける中、正面からヒールで地面を叩く音が聞こえた。


「だ…………れ…………?」


 途切れそうな声で尋ねると、つばの長い帽子を目深く被った一人の女性は言った。




「完全ではなかったみたいですわね」




「え……?」


 逆光もあってはっきりと顔までは見えない。


 でも……


かず………………逃…………げ…………ろ………………』


 そのとき、どこからか声が聞こえた。


「○○……? ○○っ! ○○ーーーーーっ!!!」


 わたしはなにを言っているのだろう……。


 わからない……。


 すると、さっきまで聞こえていたはずの声が、聞こえなくなってしまった。


「うぅぅ………っ、あぁ……――――」


 わたしはその場に倒れ込み、意識が途切れた――。




「ハァッ!」


 慌てて目を開けると、窓から夕日が指し込んでいた。


「………………」


 今のは……夢、だったの……?


 でも、それにしては、とてもリアルな夢だった……。


 机に伏せていた体をゆっくりと起こすと、


「ふふっ。おはようございます、天道さん」


 正面の席に座る天霧さんがこちらを見てニコッと笑みを浮かべた。


 ドキッ……ドキッ……。


 この胸の高鳴りは、わたしがずっと憧れていた人が、今、目の前にいるからだろう。


 風の噂で、この学校を受験すると知ったときから、勉強、勉強、勉強の日々。


 ……今でも思い出す。テレビの画面に釘付けになった、あの日を…――


「………………」

「? どうしたのですか?」

「えっ……」

「眠っているとき、なにか苦しそうでしたけど。なにか嫌な夢でも見たのですか?」

 

 夢……天霧さんが言う通り、いい夢ではなかった気がする。


 どんな内容だったかは思い出せないけど。


「あれ、確か生徒会に用があったんじゃ……」

「さっき終わったので戻って来たんです。あ、華憐さんは生徒会長となにか話があるとかで、遅れるとのことです」

「そ、そうですか……」


 生徒会長…―― 


 ――ふふっ。


「くっ……!?」


 突然、頭に痛みが駆け巡った。


「天道さん!?」


 天霧さんは心配そうにこっちを見ていた。


「だ、大丈夫……です」


 痛みは一瞬で、それからは特になにも起きなかった。


 なんだったんだろう、今の……。


「体調が良くないなら、保健室に一緒に付いて行きますよ?」

「ほ、ほんとに大丈夫ですっ! 痛かったのも一瞬だったのでっ!」

「でも……」

「……あっ、と、塔子はどこに行ったのかなぁー?」


 と言って、わたしはわざとらしく教室を見渡した。


「凪羅さんなら、さっき部活の顧問の先生になってくれる人を探しに、どこかへ行ってしまいましたよ」


 そっか、教室で待っている間に寝ちゃったんだ。


 ということはつまり、今ここにいるのは、わたしと天霧さんの二人だけということになる。


 憧れの人と夕暮れの教室で二人きり……


 漫画でありそうなシチュエーション。


 いい、とてもいい♪


「天道さんも起きたことですし、二人が戻って来るまで……」


 天霧さんはニコッと微笑んで、徐にカバンを机の上に置いた。そして、


「今日はこれを持って来たんです」


 カバンから取り出したのは、一冊の百合漫画だった。


 どうやら、『百合漫画の会』を始めるようだ。


「新刊ですか?」

「そうなんですっ! ついに……ついに二巻が発売されたんですよっ!」

「お、おぅ……」


 このテンションの天霧さんを知っているのが自分だけという、この満悦感まんえつかん


 えへへっ。


 天霧さんをここまで興奮させた漫画はというと、SNSで話題になったWeb漫画で、人気の高さから今年書籍化された。


 柔らかい絵柄とちょっぴりSとMな要素のギャップにハマる人が続出したらしい。


 人はギャップに弱いということか。まぁわたしもその内の一人なのだけれど。


「あの……天道さんに一つお願いがあるんですけど……」

「お、お願いですか?」

「はいっ」


 すると、天霧さんは恥ずかしそうに頬を赤らめて言った。




わたしを見下ろしながら……顎クイしてください……っ」




「へっ?」


 見せてもらったページには、夕暮れの教室の地面に四つん這いになった少女の顎を、もう一人の少女が指でクイっとする様子が描かれていた。


 百合を通り越して、これは……


 今まで知らなかった、禁断の世界。


「こっ、これを、わたしに?」

「は、はい……っ」


 天霧さんは、真っ赤になった顔を手のひらで覆った。


「…………」


 ここで、ふと思ったことが二つあった。


 ……なぜ? と、『天霧さん、実はMなんじゃないか説』だった。


 急にあんなことを言うんだから、もしかしたら…――おっと、危うく妄想の世界に足を踏み入れるところだった。


「けっ、経験しておくのも、百合漫画の会の一員として必要なのではないでしょうか……っ!」


 フン……ッ、フン……ッ。


 初めて見る鼻息の荒さ。


「そっ……そうかもしれませんね~……」


 と言って目線を逸らすも、熱烈な視線から逃れることはできなかった。


 やるしかない……のかな?


 だが、そんなことを考えている余裕はないようで……。


「早速、やってみましょう!」


 天霧さんは席から立つと、椅子に座っているわたしの足元で膝立ちになった。


 ほ、ほんとにするの……?


 もし、こんなところを誰かに見られたら…――わ、わたしったら、また……っ。


「――――今、想像してましたね――――?」

「!?  ……してました」

「やっぱり♪ 天道さんも興味があったんですね」

「……はい」


 顔が熱いということは、恐らく、頬が真っ赤に染まっているのだろう。


 すると、天霧さんは急に顔を近づけてきて、


「天道さん…――ハナ様」

「!! さ、様……っ!?」


 下の名前で呼ばれたことにも驚きだけど。


(まさかこれって、普段は明るい少女とおとなしい少女が、二人っきりの空間になると逆転する、あれなのでは……?)


 視線を向けると、天霧さんの潤んだ瞳がこちらを見つめていた。


 なんて綺麗なんだろう。


「…………っ」


 わたしは、恐る恐る顎の下に指を置いた。


 うわぁ……小顔ということもあるけど、顎小さいなぁ……あ。


 目線をちょっと上げると、蕾のように小さい桜色の唇が目に止まった。


(今は、こっちが主導権を握っているんだ……)


 いい雰囲気に飲み込まれ、わたしたちは自然と顔を近づけていく。


 そして、唇と唇が重なろうとしたとき――




「見ぃ〜ちゃった♪」




「「……!?」」


 慌てて振り返ると、教室の扉の隙間から華憐がこちらを見ていた。


 扉を開けて中に入ってきた彼女の表情は、ニヤニヤしっぱなしだった。


「お二人って、そんな関係だったのですねぇ〜っ」


 そう言って、ニヤけ顔でわたしたちを交互に見た。


「か、華憐さんっ!?」


「ふふふっ♪」

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