第一話 希死念慮

――それを初恋と知ったのは

           私が死んでからでした――


  *


 ゾンビとなった十六人のクラスメイトたちはみな、アネットがなんと呼びかけても反応せず、うめき声をあげながらうろつくばかりであった。

 誰一人として、アネット・イキルシカという名前を呼び返すことなどない。

 それでも、アネットはめげずに話しかけた。

 アネットの声が届かない一方で、アネットの出す音に彼らは反応した。アネットが歩けば、クラスメイトたちはそれについてきたのである。

 歩みをともにしながら、アネットはなおも声をかけ続けた。

「ねぇメグ! あのアイスクリーム屋さん、よく行ったよねぇ」

「あ! この前ソユンが言ってた美味しいラーメン屋さんって、あのお店?」

「エヴァン見て! あのポスター、好きだって言ってたバンドだよね?」

 アネットが何を話しても、どれだけ大きな声で名前を叫んでも、ゾンビから反応が返ってくることはなかった。

「いい加減、無視しないでよ!」

 ある日、アネットは苛立ちとともにクラスメイトの頭を叩いた。

 ――アネットは、酷く驚いた。

 叩かれたクラスメイトは反応をしなかったのだが、その頭の感触がアネットには鮮明に伝わってきからである。

 久しぶりに味わう感触というものに驚いてバランスを崩したアネットは、地面にお尻を強打してしまった。しかし、相変わらず地面からは何の感触も得られなかった。

 それからアネットは、意味もなくクラスメイトにちょっかいを出すようになり、親友メグ・マイルドの手を握っていることが多くなった。

 ゾンビになっても希望を与えてくれるメグに、アネットは感謝してもしきれなかった。


  *


 アネットが彼らと行動するのは、人間から自分を守るためでもあった。

 というのも、大概の人間はゾンビの集団からは逃げていくためである。

 大きな音が聞こえると、ゾンビはそちらに行こうとするので、アネットは彼らについて行くことも多かった。

 しかし、音に導かれた先に人間がいることも多く、出会った人間はクラスメイトに貪られるのだった。そのため、アネットは手ごろな石を投げて音を出し、進行方向を変えさせることもあった。

 また、アネットは遠くに見えた人間に対し「ゾンビが大勢いるから、こっちに来ないで! 遠くへ逃げて!」と叫んだこともあった。しかし、正義感が強い人間だったのか、女性を助けて英雄視をされたかったのか「待ってろ、今助けに行くからな!」と叫んで駆けつけると、あっさりと食べられてしまった。

 アネットは、自分が犠牲者を呼んでしまったことに罪悪感を覚えた。まるで自分が、チョウチンアンコウの発光器になったような気分だった。

 それから、アネットは誰も近寄らないように、人間にもクラスメイトにも話しかけないことにした。

 また、人の死に触れたことで、アネットは両親の安否が気になった。二人はどこかで無事に生きていてくれているのだろうか。

 両親に会いに行きたいと思ったが、ゾンビとなった娘が突然現れても、困惑させてしまうだろうと思い、あてのない旅を続けるのだった。


  *


 アネットはゾンビについて考察をしたり、拾った小説を読んだりして日々を過ごしていた。ちなみに、そのとき読んでいた小説は『宇宙戦争』(火星人が地球に攻めてくる話)であった。

 考察の結果、ゾンビについて分かったことがあった。

 まず、ゾンビが増えるには、食べられている人間がその途中でゾンビ化し、互いを認識できなくなることで捕食が中断され、増えるようだった。

 そのため、複数のゾンビが一人の人間を食べる場合は、ゾンビになるより先に食べつくされてしまい、ゾンビは増えないのであった。

 そのため、アネットとともに行動するゾンビが増えることはなかった。

 また、ゾンビには寝る必要がなかった。

 昼夜問わずに徘徊するのだが、物音がなければ立ちつくしているのだった。

 そうして、旅を続けた一行は、いつの間にか川へ辿り着いていた。それは、ゾンビたちが水音に反応したためであった。

 そしてアネットは、これをきっかけに左足の怪我に気づくこととなった。


 川に水を汲みに来た人間が捕まり、食事が始まった。

 食べ終わればまた歩き始めるのだろう思っていたのだが、ゾンビたちは川の音に夢中になってしまい、しばらくその場に留まることになった。

 そこでアネットは、川で水浴びをすることにした。

 川へと入るため靴と靴下を脱ぐと、潰れた左足の小指と薬指が顔を出した。

 目覚めた当初バランスが取りづらかったのは、足の裏の感覚が無くなったためだけでなく、これも原因だったのかと得心する。

 アネットは靴と靴下を履きなおすと、服を着たまま川に浸かった。考えてみれば、ゾンビは水の冷たさも感じなければ、濡れた服の気持ち悪さも感じないのだった。


  *


 クラスメイトたちの食事を見ても、アネットは人間を食べたくないと考えていた。

 実際、アネットは一口も人間を食べていなかった。しかし、身体の奥底からは強烈な空腹感と、人間を食べたい欲求が湧いていた。

 また、ゾンビは人間を食べることで、何らかの栄養を摂取しているようだった。人間を多く食べるゾンビほど、人間だった頃の面影が残っている。逆に、人間をろくに食べられないゾンビは、創作物で見たゾンビのようにやせ細っていったが、頭髪が抜けたり身体が腐るようなことはなかった。

(私も人間を食べていないから、同じようにやつれているんだろう)

 アネットは考えながら、少しでも空腹感を紛らわせるために、人間の食べ物を見つけては口にしていた。

 だが不幸なことに、味が一切感じられなかった。

 どんなに美味しそうな食事も、口に入れれば無味無臭で、死んでしまった味覚を悼むことしかできなかった。

 味のしない食事は飢えを満たしてはくれず、腹は少しも膨れなかった。そしてそれは、比喩ではなく物理的な意味でもあった。

 アネットは一度、大量のパンを見つけると身体に収まりきらない量を食べたこともあった。しかし、アネットの空腹感はおろかその外見にすら、一切の変化がなかったのである。

 どれだけ食べても空腹感は募るばかりで、身体はどんどんやつれていった。まるで体の中にブラックホールができたかのように、虚しさばかりが生まれた先から吸いこまれていく。

 (もし大食い大会に出れば、絶対に優勝できるだろうな。……その勢いで、審査員まで食べちゃわなければだけれど)


  *


 人間を食べない生活が数ヶ月続いた頃だった。

 アネットは空腹で指先一つ動かせなくなっていた。このまま朽ち果てるのだろうと感じ、一口ぐらい人間を食べればよかったとすら考えた。

 頬は酷く痩せこけ、視界に映る腕の血色は悪く、まさにゾンビといった様相である。アネットは自分の命運を嘆いた。

(なんで私には意識があるんだろう? みんなと同じなら、こんなに辛い思いをしなくていいのに……。それか、いっそのこと私を食べてくれたらいいのに)

 アネットは、二度目の死を受け入れようとしていた。

 しかしこのあと、アネットは飢えを満たす食事をすることになる。


 ――アネットは

 ゾンビがゾンビを食べるなどありえないはずだった。

 ゾンビは互いの存在を認識できないのだから、そんなことは起こりようがない。

 ゾンビとは、人間を食べる“現象”のようなものだった。

 しかし、アネットはゾンビのことを認識できた。しかし、アネットがゾンビを食べたのは偶然のことだった。

 空腹によって少しも動けずに地面へ横たわるアネットの唇に、クラスメイトの脚が触れた。

 唇に伝わったその感触に、アネットは無意識で齧りついていた。

 ――瞬間、アネットはとてつもない幸福感に包まれた。

 味も香りも食感も、全てが鮮烈だった。

 アネットは夢中でクラスメイトの脚を貪り、気づいた時には片脚をすっかり食べてしまっていた。そこで初めてアネットは、自分が食べていたものを認識した。

 アネットが口にしていたのは、親友メグ・マイルドの左脚だった。

 しかし、アネットは親友を食べた罪悪感よりも、彼女への感謝の気持ちでいっぱいだった。涙が出そうになったが、ゾンビの身体は涙を流せなかった。

 一方、メグは食べられていることを認識できず、ほとんど無抵抗だった。

 だから、それからはパーティーだった。


 まず、引き続き親友のメグを食べた。

 このまま生きていても、まともに動けずに朽ち果ててしまうだろうし、食べることが葬る意味にもなると考えられた。自分に都合がいいことを考えていると思いながらも、メグの美味しさを知ったアネットには、食べずにいるなど出来なかった。

 最初に、メグの左手から食べ始めた。

 二人で遊びに行くとき、アネットはいつもメグの左手を握っていたし、ゾンビになってからもそうだった。

(左手は、私の特等席なんだ)

 メグの味に夢中にり、アネットはどんどんと食べ進めていったが、メグの骨まで噛み砕いて食べていることに驚いた。人間は生きている間、身体にリミッターをかけているというが、あれは本当だったのかと考える。校舎の瓦礫をどかせたのも、そのおかげだったのだろう。

 考えながら、アネットは腕の骨をガリゴリと噛み砕いていった。

 そうしてメグの四肢を食べ終わったとき、アネットの目にはメグがつけているチョーカーが映った。メグのことは少しも残さずに食べようと思っていたのだが、メグの形見を残したいとも考えていたのだった。

 頭部しか動かせなくなってしまったメグの顔を見つめ「メグ、チョーカーをもらってもいいかな? これからも一緒にいて欲しいんだ」と伝えた。

 メグは「あぅぅぅ……」とうなるだけだった。

 アネットはそれを肯定だと受け取り、メグの首からチョーカーを外した。外したチョーカーを自分の首に装着して、アネットは再びメグを食べ進める。

 生前は内臓が苦手だったのだが、メグの内臓は歯ごたえがあって香りもよく、例えるならビーフジャーキーのような気分で食べられた。傷んでいる部位もあったが、それはむしろ熟成されていると表現してもよく、より濃厚で美味しく感じられた。

 胃や腸の内容物はあまり食べたくないと思っていたのだが、死んでから日数が経っているためか何も入っていなかった。さながらアサリの砂抜きである。

 そこまで考えてアネットは不思議に思う。メグの下半身は汚れていなかった。

 それに、その理論でいけばアネットも悲惨な状態になっているはずである。

 ――ゾンビの胃の内容物は、どこかへと消えるのだろうか?

 そんなことを考えながらメグの胴体を食べ続け、残すところ頭部のみとなった。

 首に巻いたチョーカーに一度触れ、メグの頭を眼前へかかげた。

 アネットはメグを見つめていたが、メグは虚空を睨んでいた。

(今までありがとうメグ、さようなら。そして、これからもよろしくね)

 アネットは、心の中でメグに別れを告げ、メグの頭部を食べ始めた。

 綺麗な髪を食べることには抵抗があったが、思い切って口に運ぶとさっぱりした味わいが広がった。しかし、頭に生えた髪はどうにも食べづらく、髪を引き抜いて食べることにした。

 それからアネットは、目を抉っては口に運び、舌を引き抜いては口に運び、頭蓋を割っては脳みそを口に運んだ。脳が崩れたとき、メグのゾンビとしての活動も終わりを告げたようだった。

 大好きなメグの顔が崩れていくのが悲しくて、でも口と頭の中は多好感でいっぱいで「美味しい、美味しいよぉ、メグ」と一人呟きながら、アネットは最後までメグを食べた。もしも涙が出るならば、泣きながらメグを食べていたことだろう。

 メグは生前に食べたどんな食べ物よりも美味しく感じられた。それは『空腹は最高の調味料である』という至言を裏づけるとともに、自分が人の肉しか接種できない身体になったという証明なのだと、アネットは考えた。

 そうして、人間一人を食べ終えたアネットだったが、その食欲は収まらなかった。また、物理的にお腹が膨れるということもなく、メグの骨肉は即座にアネットのエネルギーへ変換されたようだった。心なしか、肌の色が良くなった気もする。


 アネットは次に、生前に告白をしてきたアレックス・コバヤシを食べた。

 クラスメイトたちが人間を食べる中、彼はろくに食べられなかったようで、生前の面影がほとんど残っていなかった。しかし、アネットの脳内には生前のアレックスの姿が思い浮かんでいた。

(結局、アレックスの気持ちには答えられなかったな。私は一度も恋なんてしなかった。気になる男の子なんて現れなかったし、友達と遊んでいるのが何よりも楽しかった)

 でも、アレックスはそんなアネットを好きだと言ってくれた。日本には、好意を伝えてパートナーになることを了承してもらう文化があるらしい。遊んでいるうちに親しくなり、自然とパートナーになるのが普通だと思っていたアネットは、アレックスの告白を不思議に思ったが、真剣に想いを伝えられて悪い気などしなかった。

 そんなアレックスは誰にでも分け隔てなく接する人で、他人の悪口も言わなかった。数学が少し苦手ではあったが、他の科目は大抵A評価であり、運動もそれなりにできた。

 アネットは、アレックスの気持ちに答えるかずっと迷っていた。パートナーとなってから、少しずつアレックスのを好きになっていけるのなら、それは幸せだろうと考えていた。

(世界がこんなことにならなければ、アレックスと付き合ったり、お父さんに電話で相談したりしていたかもしれない。……死んでからになっちゃったけれど、私と一緒になることを快く思ってくれたら嬉しいな)

 これまた自己満足かな? と思いながら、アネットはアレックスを見つめた。


 まずアレックスの唇を奪った。もちろん、物理的に。

 アレックスの唇は乾燥していたが触感はぷにぷにとしており、咀嚼が楽しくとても美味しかった。

(これがファーストキスなのかな? ゾンビになった私は、もう誰かとキスをすることなんてないんだろうな)

 アネットはそんなことを考えながら、アレックスと唇を重ねた。

 実際のところ、アネットのファーストキスはメグを食べたときに済んでいた。メグをキスの相手と換算しないのなら、アレックスとの行為もキスではないだろう。

 しかし、アネットはそれに思い至らず、アレックスとのあったかもしれない未来を妄想しながら、彼の全身を食べた。

 もちろん、生殖器もである。初めて見たソレにアネットは少しびっくりしたけれど、唇を食べている時と同じか、それ以上に美味しく食べられた。


 それから、アネットは次々にクラスメイトを食べていった。

 眼球はグミのようで、やはり食感が楽しかった。中の水晶体はキャンディのようで、噛み砕くと爽快な風味が抜けていった。

 髪の毛はブロッコリースプラウトや水菜のよう、舌はタピオカみたいだと感じた。脳はムースやプリンのようで、味わいには個人差があった。

 軟骨はコリコリとおつまみ感覚で、爪はスナック菓子のよう。どちらもある程度集めてから口に入れると、より美味しく感じられた。

 血管はまるでスパゲッティのようだった。最終的にアネットは、静脈と動脈を食感の違いで判別できるようになっていた。

 肋骨や背骨を箸休めにしながら食べ進めていく胴体は、味も触感もよりバラエティーに富んでおり、ずっと新鮮な気持ちで食べられた。

 機能を失って久しい心臓は、身体中に血液を送っていただけあって食べ応えがあった。肺はスポンジのようなふわふわの食感である。腎臓や膵臓は独特の風味があり、噛めば噛むほど味が染み出てきて癖になった。

 腸は一気に啜るとのど越しがよい。アネットは呼吸をする必要がなく、咽ることも息が詰まることもないため、七メートル程もある腸を一気に飲み干せた。

 クラスメイトを次々に食べながら、アネットは考えていた。

(なりたてのゾンビは味が違うのだろうか? 調理をしたらどうなのだろうか? 年齢によっても味が違ったりするのだろうか?)

 その流れで人間の味も気になりかけたが、その考えは必死に頭から消し去った。

 だが、それによって食欲が減退することはなく、むしろそんな邪念に囚われないように、一心不乱に食べ続けた。アネットの顔はゾンビの肉で少しずつ汚れていったが、ゾンビには血液が流れていないようで、その顔は綺麗なものだった。

(みんなの分まで私はこの世界で生きよう。意味なんて分からないけれど、生きてみることにしよう)

 アネットはそう決意した。

 そうして、クラスメイト十六人をアネットは一人で平らげてしまった。だが、満足感はあっても満腹感は感じず、ゾンビがいればいくらでも食べられると感じていた。

 また、食べたゾンビが物理的に溜まる様子はなかったが、痩せこけていた頬は戻り、血色が良くなっていた。

 そのときはまだ、アネットは自分の体に起こった大きな変化に気づいていなかった。

 潰れてしまっていた左足の小指と薬指が、少しずつ生えてきていたのだ。

 アネットがそれに気づくのは、もうしばらく経ってのことだった。



 空腹感の癒えたアネットは、それからはゾンビも食べずに静かに過ごしていた。

 実際のところは、人のいなそうな場所を探しているため、ゾンビにも出会わなかったからだった。下手に動き回って人間と遭遇してしまうより、平穏に暮らすことを優先したのである。

 そうして過ごすうち、崩れかけの図書館へ辿り着いた。そして、着いてからはずっと、本を読んで過ごしていた。

 両親のことは心配だったが、会いに行く決心がどうしてもつかなかった。それに、今はゾンビとしての生活に慣れるのが最優先だとも考えていた。

 アネットは、ゾンビの特性を利用して日々を過ごした。というのも、ゾンビは寝る必要がないため、休まずに本を読んでいられることに気がついたのだった。

 そこでアネットは、いつか読もうと思っていたアガサ・クリスティの小説を片っ端から読み始めたのだった。

 アネットが連日小説を読み進めていると、髪の毛が何度も目に刺さった。痛みはないのだが、視界に髪の毛がちらつくのを邪魔に感じ、アネットは貸出カウンターにあった輪ゴムで髪を結び、読書に勤しんだ。

 昼間は日の光で本を読み、夜は月の光で本を読んだ。電気を失って初めて、アネットは月の本当の明るさを知ったのだった。それとともに、日本人は昔夜に勉強をするときに、虫が放つ光を使っていたとアレックスが話していたのを思い出した。

 数日が経った頃、曇り空の日が訪れた。このまま夜に月が隠れてしまっては、本が読めなくなってしまう。

 そこでアネットは昼の内に図書館内を探索した。事務机の奥から保存食や蝋燭が見つかったが、蝋燭一本では一夜もしのげなさそうだった。他に何かないかと机の奥まで手を入れると、鍵が出てきた。その鍵が使える場所を探したところ、保管庫の扉が開いた。中を探索すると、防災用の発電式懐中電灯が見つかった。

 アネットはそれから、月の光が届かない日は懐中電灯を頼りに読書を進めた。


 エルキュール・ポアロが主人公の小説を二十冊ほど読んだ頃だった。次の展開が気になり、はやる気持ちでページをめくったとき、アネットは左手の人差し指を切ってしまった。

 痛みがないため指を切ったことにアネットはすぐには気づかなかったが、視界の端で指から血が流れているのを確認し、指を切ったことを認識した。だがアネットは、自分の指よりも物語の続きが気になり、小説に血をつけないように気を配りながら最後まで読み終えた。

 読み終わると、トリックに感嘆しながら次の本へと手を伸ばした。しかし、手に取った本の表紙をめくる前に、指を切ったことを思い出した。傷口を確認すべく、アネットは左手の人差し指を見る。

 しかし、傷などどこにも見当たらず、流したはずの血液すら消え去っていた。

 アネットは不思議に思ったが、よくよく考えてみればゾンビなのに血が流れたこと自体が不思議であった。呼吸をする必要がなく、心臓が鼓動していないのに、アネットの身体には血液が巡っているのだろうか?

 自分の身体に興味を惹かれ、アネットは手にした小説を置くと、受付の机を漁ってカッターを手に入れた。

(やってみるか……)

 右手でカッターを持ち、左手の手のひらにあてる。ぐっと力を入れようと思ったが、痛みを感じないとは分かっていてもためらってしまい、一度カッターを下ろす。

(っ、……よし)

 吐く必要のない息を吐き、もう一度カッターを手のひらにあてた。人差し指の付け根から手首の辺りまで、カッターで一直線に切り裂いた。刃が通った傷口からは、赤い液体がじわじわと溢れ出てくる。集まった血液は手首から肘へと伝っていき、机の上に赤い水たまりを作った。

 そそまま様子を伺っていると、カッターでつけた傷はまるでジッパーをしめるかのように、少しずつ塞がっていった。それとともに、机の上の小さな血だまりも消えていく。蒸発するように消えていくのではなく、ただ量が減少してくようだった。

 自分の身体を不気味に感じながらも、アネットの心は探求心で満たされていた。そしてアネットは、潰れた指のことを思い出す。もしやと思って足先を動かしてみるが、感覚が無いので分からなかった。そのため、目視で確認をする。

(……おっ)

 靴下を脱ぐと、傷跡すらない指が五本揃って生えていた。治癒能力に驚くとともに、それならばとアネットはズボンを脱いだ。

 アネットの左脚の膝には、幼少期にキャシーという友人と遊んでいるときに、転んで作ってしまった傷跡が残っていた。……その傷はどうなっているのだろうか?

 誰もいない図書館で一人下半身を露わにし、膝を確認する。だが、幼少期の古傷は消えることなくそこに存在していた。……生前の傷は治らないのだろうか?

(もしそうなら、私の指はゾンビになってから潰れたことになるんだろうか? まぁ、そんなことが分かっても意味なんてないけれど)

 不思議な力を手に入れたことに感嘆しながら、アネットは視線を戻した。

(そういえば、本を読むのに髪の毛が邪魔で結んだけれど、あれは単純に伸びたからだったのかもしれないな……)

 自分の身体に対する新たな知見を得たアネットだったが、引き続き図書館に籠って読書を続けるのだった。


  *


 図書館で日々を過ごすうち、空腹感が増していくことにアネットは気づいた。そろそろ食事をしなければと思いながら、ふとページをめくる手に目を向けると、血の気が引いて青白くなってきていた。

(……これはまずい。――もしかして、治癒能力も落ちているのかな?)

 そう思い、カッターを用意する。治らないことが予想されたため、今回は少しの自傷に留めることにする。左手の小指の腹を少しだけ切り裂いたが、どれだけ待っても血は滴らず、傷はなかなか塞がらなかった。

(食料調達に行かないとだなぁ……)

 食料、つまりゾンビを探しに行かねばならない。こんなことならずっと図書館に籠っておらず、ゾンビの肉を手に入れて備蓄しておくべきだったと後悔する。だが、腰を据えてポアロが読めたことに後悔はなかった。

(読みたい本はまだまだあるけれど、読んでるうちに動けなくなったら目も当てられないや)

 アネットはゾンビ肉の調達に出かけることにした。貸出用のバッグに本を数冊詰め、持っていくことにした。ゾンビ肉が手に入った際は本はポケットに入れ、ゾンビ肉をバッグに入れて保存用に持ち帰ってくる予定である。

(やっぱり大きいバッグが欲しいな。それに、服も着替えたい。腹ごしらえが済んだら探しに行こう。……さて、ご飯探しに出発しますか)

 アネットは肩にバッグをかけて図書館をあとにする。無事に帰ってこれたなら、エラリー・クイーンを読もうと考えながら。


  *


 アネットがあてもなく歩いても、ゾンビは一向に見つからなかった。

 川沿いの探索も考えたが、人間と遭遇するリスクも高いため、どうにも気が進まなかった。身体から血の気が引いた状態では、白人だとしても違和感が残るだろう。

(カモフラージュのために、先にどこかでファンデーションでも見つけた方がいいだろうか?)

 どうするべきかを考えながら歩いていると、遠くにタウンマップが見えた。周囲を警戒しながら近づき、ゾンビが集まりそうな場所の目星をつける。

 少し歩いたところにある森の中に滝があることが分かった。音にひかれてゾンビが集まっているかもしれず、ゾンビがいれば人間は寄り付かないだろうと考える。

(とりあえず、行ってみるか……)


  *


 森が見えてくると、かすかに滝の音が聞こえてきた。森へ踏み入ると、音は次第に大きくなる。

 森にはしばらく人間は立ち入っていないようだった。一見すると世界が終わる前のように平和な様子だが、動物の気配も感じられなかった。

(そういえば、私は動物の肉は食べられるのかな?)

 アネットがゾンビになってすぐに食べたフライドチキンは、なんの味もしなかった。しかし、他のゾンビが鳥小屋を壊してインコを食べているのをアネットは目撃していた。人間用に味付けをすると、ゾンビの食糧ではなくなるのだろうか?

 そんなことを考えていたとき、視界の端で人影が動いた。アネットはとっさに木陰に隠れ、遠目に様子を伺った。人影はふらふらと森の奥へ入っていく。移動速度ではゾンビなのか人間なのかの判断ができず、アネットは警戒しながらあとをつけた。

 人影を追っていくと、目の前に大木が現れた。アネットはその陰に隠れ、樹の陰から少しだけ顔を出して様子を探る。

 そこは、白いマーガレットの花畑だった。その周囲を蔦が巻きついた木々が取り囲んでいる。今は下草が茂っているが、世界がこう前は管理されていたのだろう。

 大樹の隙間から差した木漏れ日は、マーガレットの中で跪き、祈りを捧げる存在を照らしていた。

 それは黒い髪の少年だった。衣服はあちこち破れてボロボロで、髪はまばらに伸びており、身体には無数の擦り傷がある。まるで、この世界の悲惨さをその身体で現しているかのようだった。

 祈りを捧げる彼の表情には、安らぎや苦悩がこもった想いが感じられる。


 ――アネットは、彼を美しいと思った。


 アネットがしばらくその姿に見蕩れていると、森の奥からゾンビが二体現れた。遠くから様子を伺っていたが、少年はゾンビが近づいてくる音やうめき声が聞えても、身動きもせずに祈り続けていた。その間も、ゾンビは少年に近づいていく。

(彼が、食べられてしまう)

 そう思うと同時にアネットは動き出していた。

 それは無意識の行動だった。

 アネットの目前にはいつの間にかゾンビがいた。少年を救いたい気持ちと空腹感が合わさり、身体が勝手に動いたのである。

 アネットは気を取り直すと、ゾンビを押し倒してアキレス腱を噛みちぎった。アネットの身体は、久しぶりの食事に打ち震える。

(美味い)

 そのまま食べ続けたい衝動に駆られたが、少年を助けるべくもう一体のゾンビを探す。

(……いた)

 アネットは、少年の時間がほとんど残されていないことを確認した。

 もう片方の脚の健も噛みちぎりゾンビの行動を制限し、すかさずもう一体に走り寄る。

 ゾンビが少年へ襲いかかろうとした寸前、ゾンビの着ている服の首元を掴んで思いっきり引き倒した。先程のゾンビと同様にアキレス腱を噛みちぎり、両膝を砕いた。今度は這い寄ることもできないように、背中を踏みつけて両腕を引き抜く。

 頭を破壊すればゾンビの動きは止められたのだが、アネットはそこまで頭が回らず、ゾンビの行動を制限することだけを考えていた。

 首以外の自由を奪われたゾンビは、必死の形相で少年を睨み、歯をガチガチと鳴らしている。

 アネットは引き抜いた両腕を持ち、先程のゾンビを確認する。

 アネットによってアキレス腱を失ったゾンビは、腕と膝を使ってこちらへ向かって這ってきていた。アネットは足元のゾンビを遠くへ蹴り飛ばし、向かってくるゾンビへと駆け寄る。

 ゾンビの元に辿り着くと、アネットは背中に座って動きを止め、先程引き抜いた腕を付け根から食べ始めた。

 ゾンビを噛み締める度に、アネットは身体に血が流れていくような感覚を受けた。それと同時に、頭も冷静さを取り戻していった。


  *


 少年はいつまで経っても終わりが訪れないことに気づき、ゆっくりと目を開いた。

 木漏れ日が顔にかかり、薄く開かれた碧眼を照らす。少年は眩しさに目を背けた。

 少年が顔を向けた先には、自分に向かって手を伸ばすゾンビの背中に座り、夢中でゾンビの腕を食べるアネットがいた。

 二人の視線がぶつかり合う。

 ゾンビに襲いかかった挙句、ゾンビの背中で腕を食べている現状を客観視したアネットは、少年に見られながらどうするべきかを考え始めた。

 その間も、ゾンビを食べる手は止まらなかったが。

 ゾンビの左腕が手先まで口内へ収まり、いざ右腕を食べ始めようとしたとき、少年はゆっくりとアネットへ近づいてきた。

「……僕を、助けてくれたんですか?」

 ゾンビの腕を食べるアネットのことを恐れる様子もなく、少年は声をかける。

 アネットは返答するため、口の中に残ったゾンビの指をしっかりと咀嚼し、少年をしっかりと見据えた。

(……気持ちを、彼に伝えたい)

 それは、アレックスの告白に感化されての行動だったのかもしれない。

「……ぎ、ぎみぐぁ、ぎれいだっ、かぁ、ら……」

「……?」

 久し振りにアネットが発した声は、まともな言葉にならなかった。それは、声を出し方を忘れていただけでなく、アネットが動揺していたからでもあった。

 心臓が激しく鼓動している錯覚を覚えながら、アネットはもう一度少年に告げる。

「ぎ、……。きみが、きれいだったかぁ、ら……」

 少しずつ、感情が言葉に乗ってくる。

「キレイ……、僕が?」

「……。ゔ、うん。きみが、す、すっごくきれいに。みえた、んだ」

「……」

 不思議そうに、少年はアネットの顔を覗き込む。アネットはゾンビの肉で汚れた顔を見られたくないと思った。しかし、少年の深い瞳を見るのを止められず、じっと見つめ返す。

 少年の顔には苦労が刻まれていたが、まだ幼さも残っていた。黒髪が風に揺れて、戸惑った表情に儚さが感じられる。

 アネットは少しの間見蕩れていたが、ふいに次にかける言葉を見つけた。

「そんな君が、食い殺されるところなんて、見たくなかったんだ」

「……、ありがとうございます」

 戸惑いの表情を残しながら、少年はアネットに笑顔を見せた。

 ゾンビを食べている姿を見られたのに、少年とこんな風に話しをしていることが、アネットには不思議だった。

(それにしても、この少年は何故、こんな森の中で祈っていたんだろう?)

 アネットが考えていると、少年が問いかけた。

「あの、あなたはゾンビなんですか?」

「……うん、一応ね」

(でも、私が君に危害を加えることはない)

 少年は、何かを決意したように再び口を開く。

「あの、……もしよかったらなんですが」

 少年は、迷いながらアネットを見つめる。

 赤くなった頬で言葉を紡ごうとする少年。

 アネットには少年が、何かを恥じているようにも見えた。

「……どうしたの?」

(彼がもし何かを願うのなら、私はそれを叶えてあげたい)

 しかし、アネットは少年の願いに自分の耳を疑った。

「どうか僕を、食べてくれませんか?」

 それが、二人の出会いだった。

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