11.依り代
寝ぼけ眼のイネイは、アスコラクの耳の後ろから這い出てきて、息をのんだ。遠くに赤い炎が、木々の隙間から見えた。黒煙が火の粉をはらんで、天に向かって伸びている。確かあそこは、今回の標的がいる場所だ。
「アス、あれ!」
イネイは火の気のある場所を指さして叫んだ。
「サマンか。イネイ、フィラソフを頼んだ!」
「うん!」
イネイは一度翅に自らを包むと、人間の姿になった。もちろんそれに合わせて翅も大きくなっていた。イネイはフィラソフを抱えて空中に舞った。一方のアスコラクは、一切の重さを感じさせない身のこなしで、水面から出ている木の枝を渡り歩き、時には飛び越え、素早い動きであっという間に燃え盛る家の前に来た。その家はガレートの人々の集落のはずれにあり、中には干し首が干されていた。周りがすべて水に浸かっていることから、これ以上の延焼の可能性は低い。そのためか、よく見かける火事場の野次馬など、まだいない。しかし火事の方向が、サマンの家だと分かれば、人々はサマンを心配して集まってくるだろう。その前に、と言わんばかりに、アスコラクはもう既に燃え盛る炎の中に身を投じていた。窓や扉が全開になっているために、火の回りが早い。そして不思議なことに、火の元が見当たらず、家の壁全体が燃えているのだ。しかも、壁は真っ黒だ。煤のためではない。初めから一面の壁が黒く塗りつぶされていたのだ。アスコラクは、躊躇なくその黒い壁板に触れた。油のようなベタベタとした物が、白い指先を黒く染める。
「これは、一体?」
『樹液ですよ、悪魔様』
アスコラクが声の方を振り向くと、炎に包まれた古びた人形があった。他に誰もいない。つまり、今の牧歌的な声は、この人形が発したことになる。
「傀儡、いや、依り代か?」
古びた人形は、サマンの言葉を紡ぐ。アスコラクは煤真っ黒になり、熱で形しか分からないようなその人形を、炎の中に手を入れて掴むと、窓から身を乗り出し、崩れかける家を後にした。そんなアスコラクの姿を、ガレートの人々は舟に乗りながら混乱して見ていたが、アスコラクは気にも留めなかった。自分たちが襲撃したばかりの東の村に、よそ者が話を聞きに来たという情報は、既に伝わっていた。しかしその人物は、奇妙な目と足を持っていたということだった。しかも、変わった服装で、金色の髪を一本に束ねた姿は、女のようだったと。今、自分たちのサマンの家から出て行ったのも、確かに男だった。しかし奇妙であることには変わりがないが、赤い服を着ていた。そして瞳は燃えるような赤。髪の毛は、黒く輝いていた。この辺りの民にはない特徴を備えた異人の男は、丸木舟に乗った男たちを一瞥することもなく、木の枝に着地して、次々に枝を踏んで森の奥へと消えていった。男たちはただ茫然と女を見送り、そして焼けて崩れていくサマンの家を、成す術なく見ているしかなかった。そして水に落ちて火が消えると、サマンがいなかったか確認が行われた。水面に散らばった炭化した家からは、誰の死体も出なかった。ただ、干し首だけが水底に沈んでいった。本来ならば、サマンが祝詞を捧げ、儀礼を施して干し首を水に投げ込むのだが、今回はその必要はなさそうだ。これで、森の女神と天の神が離れ、天の神が天上に帰る。そしてやっと、長い雨季が終わるのだ。
「……乾季が来る」
プロトは鉛色の空を見上げて呟いた。
「サマン様は、一体どこに?」
サマンは忽然と姿を消したのだった。
「行くぞ」
そう言って、アスコラクはイネイとフィラソフを引き連れて、村のはずれまで移動した。アスコラクは自分の目の高さにある木の枝に、人形をひっかけた。その時だった。風を切る音がして、アスコラクの背中に、一本の矢が突き立った。
「アス!」
悲鳴に近い声をあげたのは、イネイだった。しかしアスコラク本人は気にする様子もなく、その矢を器用に体を捩って、やすやすと引き抜いてしまった。矢には返しが付き、毒も塗られているようだった。アスコラクの赤いい服に、血のシミが広がる。人間なら矢を抜く前に治療するところだが、アスコラクは人間ではない。ふわりと黒い羽を一度はばたかせると、血は止まり、それ以上シミが広がることもなかった。傷口は完全にふさがり、傷跡一つ残っていなかった。悪魔の姿をしている時のアスコラクの自然治癒力は、人間が比肩するべきところではない。アスコラクは自分に刺さっていた矢を持ちながら、後方を振り返る。黒髪が流れ、赤い瞳は、確かに矢を射た者を捉えていた。
「さて、語ってもらおうか。お前の罪を」
その視線に射抜かれたのは、サマンの方だった。少年という印象だが、祭司や儀礼の際には部族を束ねているだけあって、老成した印象を与える。黒い肌に、白い塗料で猫のような文様が描かれていた。あの一矢でアスコラクにかなわないと察したのか、サマンは伏し目がちに言った。
「何から話せばいいのか……」
しかし、アスコラクは容赦しない。
「お前はクランデ―ロに似ている。ただ、体を乗っ取るような下品な真似をする奴は、初めて見るがな」
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