5.内緒の話し
プロトが目覚めると、自宅にいた。怒り狂った父と、それをなだめる母がいた。強引に父を差し置いてツベトクバイナーに参加したのに、武勇どころか、逃げ腰になった笑いものとして帰ってきたのだ。父はプロトの不甲斐なさに、勘当すると言って、ひどくプロトを罵った。母は命が助かっただけでもいいと言ってプロトを擁護したが、父の怒りは収まらず、父はプロトをしたたかに打った。
「死んだら元も子もないわ」
母は泣きそうになっていた。
「ガレートの恥になるくらいなら、戦って死ぬべきだ」
「何てことを」
「もういいよ」
プロトは両親の不毛な言い争いを、大声で制した。しばしの沈黙が、雨の音を際立たせている。
「俺が悪いんだ。ごめんなさい、父さん。今度からは出すぎた真似は絶対にしないよ」
プロトが憔悴しきった顔で肩を落とすと、両親はそれ以上戦の話はしなくなった。村に顔向けできなくなったプロトはこの日以来、一人で舟を出しては弓を構えることを繰り返した。しかし焦点を合わせようとするたびに戦のことが頭をよぎり、矢を放つことができなくなってしまった。弓の名手とされた自分は、逆から言えば弓しか取り柄がなかった。それなのに、なんという体たらくか。プロトは舟の上で溜息を吐いた。
樹上の茂みを舟で行くのは、いつも不思議な気分だった。完全に幹まで水に浸かった森。もともと自分たちが歩いていた地面は、すっかり湖底にある。プロトは何をするわけでもなく、森の上を舟でうろうろしていた。
「プロト」
鋭い声に呼ばれて、プロトははっとして振り返った。そこにいたのは同じく丸木舟に乗ったサマンだった。
「森に呼ばれてはいけないと、常に注意しているはずですよ」
用事もなく森の中を徘徊することは、森の女神に夫にされる危険な行為だった。森の女神は寂しがり屋だ。雨季の季節には愛する夫がいるが、夫はすぐに天に帰ってしまう。そこで、夫が天に帰った後に、自分を慰めるために人間の男を自分の手元に置きたがる。神と人間では交わることができないから、女神は人間の魂だけを持ち去り、永遠に離さないのだ。つまりこの神話が伝えているのは、人間の男が森で死ぬということだ。サマンもこの神話を知っていて、人々に注意をして回っている。事実、サマンは舟で呆けて死んだ男を何人か見てきている。森の女神はいつもと違う姿で、人間の男を誘惑している。それがこの水没する森だ。この不思議な光景は、森の女神の甘い罠でもあるのだ。
「サマン様は怖くないんですか? 首はサマン様の家にあるんでしょう?」
ツベトクバイナーで狩られた首は、呪術者であるサマンが保管する。頭蓋や脳、目玉などの水分を多く含む腐りやすい部分などを取り出して、干し首を作るのだ。プロトには今までは当たり前だったことも、戦を知ってからは恐ろしく気味が悪いことのように思えた。
「怖いとは思いません。私は戦士の魂を弔い、魂と語り、新しい役目を引き受けさせることが、役割ですから」
「そうは言っても、雨季の終わりに、干し首を森に投げ込むことが本当の役割ですよね? 知っていますよ、それくらい」
プロトは投げやりな気分になって、ふんと鼻を鳴らした。サマンなら怒らないという甘えがあったのかもしれない。プロトはお門違いなことに、サマンに対して自分の中で消化できない気持ちをぶつけた。サマンはこれに、眉一つ動かさなかった。その代わり、奇妙な話をサマンは始めた。
「この森がなんと呼ばれているか、知っていますか?」
「自殺する森、です」
「はい。では、何故そう呼ばれるのでしょう?」
「それは、雨季にこんな風になるから」
プロトは辺りを見渡した。水に沈んだ森は、木々の水死を彷彿とさせた。
「では、これは?」
サマンは流れてきた木の実を、水の中から拾い上げた。プロトは首を傾げた。木の実は水没した森でよく見かけるが、それは枝が腐って流れてきたとばかり思っていた。
「これは、木が自ら落とした種子です」
「え?」
プロトの反応に、サマンは笑った。
「木は生きるために、水に没すると自ら中を洞として、水面から出ている葉から空気を吸い、全身に送るようになります。そして水の流れに種子を落とすことで、より遠くへ種子を広げるのです。どうですか? 水没した森は死んでいるというより、まさしく生きていると思いませんか?」
サマンの語りは、いつもその景色の色を変える力がある。本当に何でも知っていて、プロトは尊敬のまなざしで、サマンを見ていた。そして、木々が死んでいるのではなく、次の世代に命をつなぐ活動を、現在進行形で行っていることにも感動を覚えた。
「すごい」
プロトは言葉を失った。それと同時に、プロトの中のとげとげした気分は消えていた。
「今の話は内緒です」
「どうしてですか?」
「男と女神の婚姻譚は、森に来た人を呼び戻すのに効果があります。もし、今の話を知られてしまったら、効果がなくなってしまいます」
サマンは悪戯に笑った。プロトは自分がまさにそうした口頭伝承によって注意されたことを恥じ、耳まで赤くした。
「さあ、帰りましょうか」
「はい」
二人は舟を漕いで、村へと帰っていった。
そんな二人の背中を、かろうじて水面から顔を出している枝の上から見つめる者があった。長い黒髪を赤い布でまとめた一人の男だった。その瞳の色は赤く、肌は褐色である。その男の周りを、一匹の桃色の翅をもった蝶が飛び回っていた。
「やっぱりクランデ―ロさんと一緒に来るべきだったんじゃない?」
蝶が人語を発した。
「今回はフィラソフがいる。お手並み拝見だ」
そういうと男は、身の丈ほどもある鎌で空間を一閃し、空間にできた傷の中に消えた。男は飛ぶことができる漆黒の翼を持っていたが、それは人間界での移動では使わないのが常だった。何故なら彼の翼は専ら、人間界から天界など、異界同士の移動に使われるからだ。人間界での移動だけならば、鎌で空間に傷を入れれば思う場所に繋がることができた。それは罪人の首を狩るために人間界での移動が多い彼に与えられた、能力の一種である。また、彼は人間の姿をしている間は、出会った人物の記憶に残らないという性質も持っている。これも、標的の情報収集などで多くの人物に会う可能性があるためである。首狩りという、人間の思い描く悪魔にはありえないような特殊な仕事を負うため、彼にはこうした性質や力が備わっているのである。
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