3.戦の始まり

ぴぃぃぃっ、という独特の高い笛の音が村中に響き渡った。この笛の音は、豪雨の中でもよく通った。ガレートの神話で、サマンの証となった笛だ。この笛の継承を持って、正式なサマンとされる。この音を聞きつけた村人たちが、一斉に丸木舟を漕いでサマンの家の前に集まった。舟には成人男性が一人ずつ乗っている。どれも小さい丸木舟だ。皆、精悍な顔をしていて、士気はいつもながらに高いようだ。


「東の村に決まりました」


サマンが男たちにそう大声で宣言すると、男たちの顔色が変わった。この宣言はツベトクバイナーの対象地域を指す託宣だ。このツベトクバイナーの対象地域の選定は、雨季にサマンが行う仕事の中で、最重要の儀式だった。ここの男たちは戦と聞けば目の色を変える。家族や恋人、もしくは自分に関する生活の問題や、これからの生活への不安の色が、一瞬にして消えるのが分かる。戦の中では、平素の自分を忘れることができるからだ。その中には、プロトの姿もあった。サマンは内心動揺したが、ここに一人で集まったということは、彼も、彼の家族も大きな決断をしたのだ。サマンは右腕を水平にまで挙げて、真っすぐに伸ばした。まるで、集まった男たちの頭を撫でるような格好だ。水平になった右腕は、迫りくる水面を示している。そして真っすぐに伸ばされた腕は、今回の対象地域である東を指していた。そして、村の役割に相応の言葉を、声色を変えて発した。男たちが戦士となったように、サマンもまた村の祭司として男たちに向き合わなくてはならなかった。


「ツベトクバイナーを行う。ガレートの戦士たちよ。東へ急げ!」


サマンがそう言い放つと、雄たけびと歓声が同時に上がった。男たちを濡らす雨の音が、掻き消されるほどの喧騒が渦巻く。ある者は櫂を両手で持ち上げて、ある者は拳を天に突き上げた。熱気がサマンのもとまで届くようだった。


「ガレートに、幸あれ!」


サマンは腕を下ろして、戦士たちに一礼した。サマンが、ただのガレートの一人となった瞬間だった。この一礼を持って、サマンはツベトクバイナーの開始の役目を終え、戦士となった人々に敬意を表し、送り出す。サマンはガレートの男でありながら、ツベトクバイナーを初め、他の民との暴力沙汰には一切関与しない特殊な立場にいる。他の民との諍いでは、サマンは交渉役や仲裁役を担うが、それは言葉のやり取りであり、決して血を見るようなことにはならない。そのため、血で血を洗うような戦において戦士になった人々には、サマンを「男でありながら男と結婚できる者」を意味する「ベルダーシュ」と呼ぶ者も、中にはいるのだった。サマンの一例を合図に、蜘蛛の子を散らすように丸木舟の群れが東の森へ向かって滑り出した。サマンはそれが見えなくなるまで、ずっと戦士たちを見送っていた。その顔には、苦悶が滲んでいた。


◆ ◆ ◆


 プロトは他の男たちに交じって、舟を進めた。水没した森では、風受けの帆は邪魔になる。だから水面から突き出した樹木のてっぺんの枝や葉をよけながら進むには、自分の腕だけが頼りとなる。これも、戦士の試練の一つだ。必死で舟を漕ぐプロトだったが、幾分の時も経たないうちに、疲れてきてしまった。まだ一番近い東の村までは遠い。ツベトクバイナー初参加のプロトは、まだ力加減を計算できなかった。しかし、地形がプロトの味方をしていた。ガレートは窪地に位置する村であるため、ガレートを囲んでいる丘を越えれば、とりあえずは他の村に着くことはできる。つまり、ただひたすらに東を目指せばやがて、他の村に出ることは可能だ。川には獰猛な肉食魚や、凶暴な鰐、人間を丸のみにするほど大きな大蛇が、そこかしこで目を光らせていた。群れからはぐれた者は、弱いという烙印を押される。それらはプロトが舟の操作を誤り、落ちてくるのを待っているのだ。樹木の上に逃げた雑食性の小型の猿の集団は、日頃のお返しとばかりに固い木の実を舟に向かって投げつけた。


 ガレートでは肉食魚の淡白な白身や、鶏肉に近い鰐の肉はご馳走だった。蛇は肉だけでなく皮も交易でよく交換された。猿の肉は儀礼のご馳走に欠かせない。つまり、雨季の季節は狩る者と狩られる者の立場が逆転する、危険な季節なのだ。これも試練の一つだと、プロトは思うようになった。やがて、日が傾いてきた。夜を川の流れの中で過ごすのは危険だと判断したプロトは、必死で舟を漕いだ。そして辺りが薄暗くなったころ、プロトは船団の最後尾まで追いつくことができた。もう、東の村まではあと少しだ。


 プロトたちは、水没した木々の茂みから、無防備な東の村の人々を見ていた。ツベトクバイナーには、厳格な決まりがあった。目的は自分たちと同じ戦士の首だ。よって、女や子供は対象から除外される。奇襲を仕掛けてはならないということも、大切だった。相手も村人から戦士に変身しなければ、目的が達成できないからだ。つまり、無抵抗な相手と戦うのではなく、殺意を持った明確な敵として、相手を殺すのだ。プロトは武者震いをした。全身が心臓になったように、どくどくと言った。耳鳴りがひどい。俺は戦闘狂だったのかと、ふと思う。相手の返り血を浴びたいと願い、自分が相手を殺しているところを想像して、高揚感を味わう。


 やがて、ガレートのリーダー格が「ホウホウ」という低い声緒を発した。その声は闇に沈んだ村によく響いた。するとにわかに岸辺の村があわただしくなった。それからしばらくして、対岸の村からも「ホウホウ」という低い声が返ってきた。これは、互いに戦の準備が整ったという合図だ。プロトたちと相手の民は、同じ姿をしている。そのため、互いに部族を表す仮面をつけて戦に臨む。視界は十分に確保された木製の仮面は、軽いはずだったが、今はやけに重く感じた。今度は皆で「ホウホウ」と言いながら、森の茂みから舟を滑らせる。これを合図に、対岸の仮面をつけた男たちも、川沿いに下ってきた。手には弓や棒、槍や盾を携えている。プロトたちの装備とあまり変わらなかった。

 

プロトたちが岸辺に舟を着けると、いよいよツベトクバイナーが始まった。

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