1.雨季

 もうすぐ、ガレートに雨季がやってくる。森の世話役である黒い肌に灰色の髪の青年は空を見上げ、その鋭い感覚で雨の匂いを察知する。「匂い」と言っても嗅覚の事ではない。森の生物たちが、普段とは異なる行動を起こすようになる。それを読み取り、「匂い」と言う。大きな動物たちは、大移動を初め、いつもはしない渡り鳥の声がこだまし、小動物たちは上へ上へとねぐらを変える。雨季と交互にやってくる乾季の間に卵を産む鳥の巣や、昆虫の卵の産みつけられた位置により、今回の雨季がどれだけの高さの雨水をもたらすかを計る。もちろん、巣や卵の位置が高ければ高いほど、雨季に激しい雨が降り続くことを示している。


 しかし、今は乾季。この辺りでは雨季よりも乾季の方が厄介だ。高く上がる太陽の日差しは強く、まるで矢で射貫くよう頭上に輝く。そして、あちらこちらで火災が起こる。サマンは森をただ歩くのではなく、森の様子を測り、火災が起きそうな木を見かければ、水をかける。サマンはある木の前で立ち止まる。一見しては、他の木と区別がつかない一本の木だった。しかし、その木の樹液の量は、他の木と比べ物にならない。しかも、その樹液は幹全体からにじみ出ており、木の表面は黒い樹液でぬらぬらと光っていた。サマンはその樹液に手を当てて、温度を測る。


(熱い)


サマンは伝わってくる熱量で、この木が危険だと判断した。腰にはいていた太刀で蔓性の木を無造作に切り落とす。その蔓性の植物には大量の水が蓄えられており、「森の水瓶」と呼ばれていた。蔓性植物の切り口から、きれいな水が迸った。サマンはその水を、黒い樹液を流す木の幹に、まんべんなくかけた。たちまち黒い樹液から熱を奪い去っていく。サマンは安堵の溜息を吐いて、また森の中へと消えていった。そして、察するのはやはり雨の気配だ。乾季の時にはほとんど快晴で、雨は降らない。降ってもすぐにやんでしまう程度だ。


(雨が降る。急がなければならない)


ガレートにとって雨季は特別な時期だ。そしてサマンにとっても、重要な時期に来ていた。


「サマン様」


そう呼ばれた黒い肌の男、サマン=ナプラビは声の方を振り返った。ちなみに「サマン」というのはこの辺りで呪術者を指す役職名であり、本来の名前とは異なる。サマンという「名」は、代々の呪術者が継承してきた「称号」なのだ。サマンの動きは、今目覚めたかのような、緩やかな動きだった。一人の少年が森の奥から走ってくる。この少年も黒い肌に灰色の髪を持っている。瞳の色は黒い。サマンが顔を含む全身に白い化粧をしているのに対して、少年は顔だけに白い化粧があった。まるで、猫科動物の髭を白い顔料で描いたような化粧だった。


「どうしましたか、プロト」


サマンの声は、水面に木の葉が落ちたかの如く静かに波紋を広げ、少年の耳に入った。プロトと呼ばれた少年は、笑いながら息を切らしている。サマンはガレートにおいて一目置かれる存在だったが、誰に対しても温和で、見下したり不遜な態度をとったりせず、機知に富み、他人に惜しげもなく話を披露し、楽しませてくれる。時には呪医として薬を出し、人々の命も救う。そんなサマンをガレートの人々は尊敬し、慕っていた。プロトもそんな人々の内の一人だった。


「昨日のことは本当ですか?」


声を弾ませながら、プロトは言った。その瞳には期待と欲望とが、きらきらと輝いていた。まだその期待が自分には大きすぎることを知らず、無知ゆえの欲望がそれを良い物だとして疑っていない証だった。自分への過度の信頼。そして、達成感を味わえるという確証。この二つが、瞳の奥で交じり合っていた。


「昨日?」


サマンはプロトが何を言っているのか察していたが、わざととぼけた。もっとも、サマンが人間以外の存在、例えば彼らが信じる神や精霊の託宣を受けるときには、サマンが自我を喪失していることが多かったので、自分が何を言ったのか本当に忘れていることが多い。託宣は代々のサマンが受け継いできた身体技法である。そのため、託宣の時は意識が別の神や精霊の世界とつながって混濁したり、全く意図せず言葉を発したりしていることもある。そうした場合は、サマンは本当に自分が何を言ったのか覚えていないのだ。


「雨季が近いということです」


待つことがまどろっこしいとでも言うように、プロトは一息で言い切った。唾を吐き、興奮で鼻を膨らませ、目にはやはり若さゆえの危険な光を帯びていた。そんなプロトにサマンは優雅な微笑を浮かべて返した。


「私が嘘をついたことがありましたか?」


その囁きは、まるで鎮静剤だ。あれだけ急いでいたプロトも、落ち着きを取り戻した。鬱蒼と茂る何種類もの木々が、ざわざわと揺らめいている。


「では、ツベトクバイナーも、近いということですね?」


サマンはあることを思い出して眉をひそめた。このプロトを「少年」と見なしたのは、大きな間違いだった。プロトは幼い顔に華奢な体をしているが、ガレート社会の中ではもう大人なのだ。先の新月の折に、割礼という性器の一部を切り取る儀礼を、プロトは通過した。そこにサマンも立ち会っていたのだ。だから他の民が「花の戦争」と呼ぶ、ツベトクバイナーに、プロトも参加する権利がある。


 ツベトクバイナーは、ガレートの成人男性のみが参加を許されている。この戦で名をあげることは、社会的地位や権威、権力を得ることにつながっている。そのため、ガレートの戦士となり、箔が付くことは、この社会の成人男性の悲願でもある。


「プロト。それに参加するとなれば、命の保障は出来ません。貴方の家からは父君が参加するはずです。一家の主が出ていれば、恥にはならないでしょう。貴方は母君と一緒に、留守番をした方がいいのではないですか?」


プロトは、サマンをにらみつけた。憎しみというよりは、純粋な怒り。それは社会的に大人の男であるが、精神年齢的にはまだまだ子供であると示していた。


「サマン様までそれを言うのか。でも、俺は村の誇りになりたいんだ。戦士になって名を挙げて、他の村々から畏れられたい。そうしたら、他の村からの報復もないはずだ」


サマンは眉間にしわを寄せながら、ゆるゆると首を横に振った。それに合わせてサマンの灰色の髪と蛇を模したピアスが、耳元で揺れた。そして、諭すような口調で言った。


「プロト。いかなることがあっても、他人に畏れられたいなど、口にすべきではありません」


プロトはこの言葉に、大きな舌打ちをした。


「まるで母さんみたいなことを言うんだな」


プロトは口をとげたまま、森の奥に分け入った。弓の名手とされるプロトだ。おそらく自分の戦力に自信があったのだろう。しかし、ツベトクバイナーで相手にするのは、歴戦の猛者ばかりだ。いくらこの狭い社会で弓の名手だとしても、戦で即戦力となるかは話が別だ。相手方にも、弓の名手は沢山いる。それこそ、プロトでは太刀打ちできないほどの使い手ばかりだ。人間同士の戦では、毒矢を使ってはならないという決まりだ。毒矢を用いていいのは、獲物だけだからだ。そのため、プロト自慢のヤドクガエルの強い毒も使うことができない。毒矢のないプロトは、はっきり言って無力だろうと、サマンは踏んでいた。それに、自分の命を懸けて戦うということが、プロトにはまだ分かっていない節がある。人を殺すことは、獲物を射止めるということとは違う。いくらツベトクバイナーとして儀礼化されて呼ばれようとも、人殺しには違いない。相手の命を重みに耐えられるか。そして、敵として見なす相手と向き合えるのか。サマンには不安でならない。プロトのぶかぶかの成人用の民族衣装と眼光が、その言動とは不釣り合いだった。そう、民族衣装。


ガレートはかつて西の大国に支配されていた民族の名前だ。

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